第6話

 ピンと張りつめた湖。一点の汚れもなく磨かれた鏡のように像を映し出している。その大きな鏡が姿を返しているのは、上空に浮かぶ木造りの巨大な御殿だ。

 だが、それ自体を御殿と呼ぶには規模が大き過ぎるだろう。そこには一つの都があるように見えた。

 特徴的なのは、全体に渡って一つの塊ではなく、層や部位に分かれているというところだ。それらパーツ毎に分かれながらも、都として一つの構造物を形作っている様は、まるで雪の結晶、あるいは操り人形劇に出てくる建物を彷彿とさせる連結感。

 都は中央に向かう程、その高度を増していく。反対に外側に向かう程低くなっている。全体として山の様な形をした建物の下に敷かれたような湖は、まるで巨大な外堀のようだ。

 最も不思議だったのは、まさにそこ、そうした都全体が湖の上に浮かんでいて、上空から吊り下がっているように見えたことだった。

 造り立てかと思えるような、切り出されたばかりの綺麗な木材で組み上げられたこの都は、だが何年経っても白木の色が褪せることも汚れることもない。

 また、夜のようなこの世界にあって、都を照らし出す灯篭の灯りは、祭り場のように華やかだ。湖の水面に建物の影が映っているのは、まさしくそれらが放つ輝きに因っている。この光のない闇の中にあって、御殿は幻想的な光景を作り上げていた。

 湖からは一本の大河が流れ出ている。しばらくは真っ直ぐに流れて行くのだが、そのうち蛇行し始めて、それから大きく横に曲がってしまう。

 丁度その角に当たる地点に、莢子を連れた煙は神鏡を渡って現れた。そして大きくくねる河を真っ直ぐに縫うように、左に見ては右に見てして、この湖目指してやって来ていた。ただし、彼女は暗闇と霧と、己の思考と、そしてほぼ煙の中にいたので、こうした地形すら知ることはなかった。

 そして今、煙は真っ直ぐになった上流に沿って、遂に都の正門付近に到着しようとしていた。

 広大な湖を前にする。この夜のような静寂な世界にあって、都だけが華やかな生活の気配を放っている。

 道の先には擬宝珠ぎぼしを被せてある立派な朱塗りの太鼓橋。それが地上と都とを繋ぐ唯一の接点のようだ。その長さ六百メートル、幅十二メートルはあるだろうか。

 百メートル毎に橋が連結されており、連結部分には屋根先の反り返った十二角堂が設けられている。その屋根先の下には灯籠が吊るされており、湖に橋の姿をぼんやりと映している。

 橋の終点から前方には御殿内へと向かって伸びていく階段が見える。その巨大さは太鼓橋に劣らず、湖面から三十メートルは上がるだろうか。にも関わらず、それを支える柱などは一見どこにもない。天に掛けられた階段のように、踏み板と蹴込み板などが段々と続いており、両端には高欄が設けられている。

 見栄えのする舞台へと上がるような正面階段。その最上段に高さを合わせた、つまり湖面から高さ三十メートルの外壁が、ぐるりと都を取り囲んでいる。

 階段の先を十メートル程進めば、これまた見事な朱塗りの大手門。目を瞠る程の規模で、人の規格に合わせられているとは到底思えない。

 門扉も巨大なら、支える柱も巨大だ。八脚門のような造りではなく、独特な形をした二本の太い柱だけで支えてあるから、迫力が際立っている。

 また、この大手門の高さに合わせた二段目の外壁が、もう一周都全体を囲み直している。まるで二段重ねのケーキのようだが、豪華さを謳うというよりも、要塞としての鉄壁さを主張していた。

 階段から門までの十メートルの踊り場には左右を区切るような築地塀ついじべいがあり、それぞれに出入り口としての通用門がある。その先は守衛や兵士などしか立ち入ることは出来ない。

 城壁の一段目と二段目の段差にある都を一周するこの踊り場は、有事の際に都を守備するためのやぐらの役目を担っている。だから段差の縁にも築地が設けられており、覗き穴があった。

 さて、不思議なことに、都に出入り出来る門は正面の大手門のみで、反対側にも門はないし、側面にも門はない。また、唯一の大手門の巨大な扉は、金属でも石でもないからと言って、何人係であっても開けられるようには到底見えない。そしてこの門は貴人のみが使用できる。

 それ以外の通用口としては大手門の右隅に高さ三メートル程の小さな門が供えられており、そこを守備するために御垣守みかきもりが立っていた。

 ところが、先に誰かが伝えたのであろうか、煙が橋の手前に到着するや否や、大手門がその重さを微塵も感じさせないような滑らかさで、独りでに開かれていったように見えた。

 白と赤の着物を着込んだ女性にょしょう達が、門の内から流れるように現れる。次から次に、全く揃った姿形だ。

 二人並びで現れた彼女らは左右に分かれると、最上段から始まって、順に下へと配置に就いていく。

 一見、色合い的に祭儀時の巫女装束のようだ。白の上衣うわぎを羽織り、朱ではなく赤い長袴を履いている。また、振袖ではなく、末広がりの筒袖だ。そして生地は柔らかそうで光沢がある。

 黒く美しい髪の長さまでもが揃っており、一様に白い肌、紅を指した赤い唇。無機質そうな表情までもが同じだった。

 足音も立てず、まるで滑っているように、整然と階段の脇に並び立っていく。彼女達がすっかり末端まで揃ったところで、中央から更に一人の女人が登場した。

 彼女だけが、それまでの者達とは異なっていた。見た目の年齢、着物。彼女だけが白髪で、彼女だけが黒い袴を履いている。また、彼女だけが三衣さんえを羽織っていた。

 とは言え、この場には彼女以外にも、階段の最上段とそこから下数段に、二枚重ねの衣を着ている者が、計十人いる。が、この老婆はその誰よりも毅然としており、位の高さを醸し出していた。

 やはり滑るようにして、この老女が橋のたもとに下り立つ頃には、煙もすっかり人の姿に戻っており、莢子を横抱きにして橋の真ん中、五つ目の太鼓橋の頂点中央に立っていた。

 互いが対面すると、老齢の女性が恭しくこうべを垂れた。すると、階段の両脇に並び立った女人達も右に倣えで、一斉に低頭する。

 この圧巻の光景を前にしても、煙は身じろぎ一つしない。堂々としたその様子は、まるで彼こそがこの御殿の主のようだ。まさに王の帰還を迎えるような華やかさではないか。

「姫をお連れした。」

 煙の報告に対し、礼を終えて姿勢を戻した老婆はおもむろに口を開いた。

「…お役目御苦労。」

青年が本当に王だとするならば、この返答には少しも主に対する礼節さがない。

「早うこちらへ。気を失われていると分かっておれば、女を遣わしたものを。護衛も気が利かぬ。」

吐き捨てるように言う。

 青年に対してでないのなら、莢子しかいない。先程の礼は彼女に対してだったのだろうか。

 老女の言葉に先を読んだのだろう。下から二段目までに控えていた女人達が動き出した。命令された訳ではなかったが、莢子を引き取りに出て来たのだ。

 ところが、この相手の動向や冷たい視線にさえも構わないで、煙は莢子を抱えたまま歩みを進めようとする。

「天守閣までは私がお運びする。」

老女の脇を擦り抜けようとした、その時だった。

「下がれ、無礼者っ。」

 突然。

 彼はうめき声を上げながら、身を崩した。途端に体から散り出したのは、燃えるような燐紛。

 その腕に抱かれていた莢子は、老婆の背後に控える女人達の許へと舞い降りようとしている。不思議な光景だったが、彼女は浮遊術にでも掛かったように、崩折れる直前の煙の腕から、寝そべったまま浮かんで行ったように見えた。

 彼は身動きを封じられたように引き離されるのを見ているしかない。その手は莢子に向けられて、だが、もう一方は己の首を掴んでいる。

 指の隙間から覗いているのは、まるで首輪のような文様だ。これに喉を絞められると息が出来なくなる、それだけではない。魂にまでその束縛が及び、逃れることのできない苦しみを味わう。

「儂にも拘束の権限が委ねられていることを、忘れた訳ではあるまいな。」

 女性の目は冷淡で、相手を見下ろす態度に戸惑いがない。

七日なぬかの期限に間に合わねば良かったものを。さすればお前を厳罰に処することも出来たであろうに。惜しいのう。」

 彼は屈辱に耐えるかのように苦しみに耐えている。女性はその姿に終わることのない侮蔑を注ぎながら、ふんと鼻を鳴らした。

「囚われ者めが。」

吐き捨てるように言うと、裾を翻して背を向ける。

 音も無く、滑るようにして引き返す彼女は先導者だ。中央を行くその後ろから、莢子を神輿のように高く抱えた女人達が続いていく。

 先頭が通り過ぎていく度、段の両脇に控えていた女人達も次々に従っていく。左右に分かれていた彼女らは、再び中央でピタリと寄り添いながら、全く同調してきざはしを上がっていく。

 流れるように一列一列、大門の中に滑り込んでは消えていく。最後に、一番上で控えていた女人二人が、門の蹴放けはなしを乗り越えて、同じように姿を消した。すると、大きな扉はそれを追うようにして、あたかも独りでに閉まっていった。

 同時に、解放されたのは煙の喉だ。咳込むように空気を求めれば、暫しその場で脱力した。

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