第5話

「だから言ったでしょう。人の忠告を軽く見るから痛い目に遭うのよ。」

 翠の言う通りだった。答えるなって言ってくれたのに、答えちゃって、ごめんね。神社のことも、ごめん。

「日が暮れたら、近付いちゃ駄目だって言ったでしょう。ほら、何が起こるか分からないんだから。」

 耳が痛いです。あと、心も。

「私を選ばないから、こんなことになるのよ。誰よりも、ずっと一緒にいたのに。」

 でも、翠だってまさかこんなことが起こるとは思わなかったでしょう。私だってこんな怖いことが起きるって分かってたら、忠告に従ってた。

「だけど私は、知ってたわ。」


 ハッと目が覚めた。この起き方は今日二度目だったから、夢から覚めたのだと直ぐに理解した。

 なんだ、夢だったのか…。ほっと息をつく。親友に対する罪悪感が、目覚めても残る胸を押さえ、横たわった莢子は時計を確認しようと身じろぎした。

 その時、浮遊感と共に、だが降下する感覚がした。

 驚きに目を瞑ったが、そのどこか心地良いとも言える新感覚に神経が活性化していく。辺りに日差しの欠片も感じられない。きっと、もうすっかり日が落ちてしまったからなのだろう。

「気が付いたのか。」

 身に降るような声にハッとする。同時に、辺りの幕が瞼と共に開かれていく。先程よりも幾分明るく感じられる薄暗い空間、だが、漠然としているようだ。

 夢落ちが、否定されてしまった…。意識が浮上したばかりのあの一瞬が、既に恋しい。

 意識が戻った直後は、目隠しでもされているくらいに視界に何も映らなかったように思ったが、何せ瞬き一つのことだ、寝ぼけていたからなのかもしれない。霧が晴れたように今は広い空間が認識できている。肌に触れる冷やかな空気。何か、独特な、甘さ…、そのような匂いがする。

 目は初めから暗闇に慣れていた。だから冥府に来た割には違和感のない、けれど、ただ殺風景な空間があるのみだということが判る。ただ、どこに焦点を定めて良いかも分からず、方向感覚を無くしたような奇妙な気持ちがしている。

 あ、私、仰向いてるんだわ。莢子は唐突に理解に至った。きっと星の無い夜空でも目にしていたに違いない。先程からずっと身を揺らされている一定の振動と、首に違和感を覚えた彼女は、自分の状況が分かると頭を持ち上げた。

 やはり寝ぼけていたようだ、理解が中途半端だったらしい。彼の声を聞いた直後だと言うのに、その存在の近さに悲鳴を上げ掛けてしまったのだから。

「驚くことはない。気を失っていたのは僅かだ。」

何に驚いたかについては、お互いのズレを感じる。

「御殿まで私が運ぶつもりだが、……気晴らしに、少し歩いてみるか。」

 何時の間にか煙の青年の腕で抱えられていたらしい。意識が浮上したばかりの時は、どこかに身を横たえていたように感じたが、今となってはそれすらも曖昧だ。

 重たいから悪い、と莢子は身をよじる。それを肯定なのだと受け取った青年が彼女を丁寧に降した。その拍子、耳に残っていた文頭の言葉に今更ながら引っ掛かって、莢子は目を瞠った。

「御殿っ。」

 待って欲しい。死者の国に連れて来られて、つまり死んだと思っていたけれど、御殿とは如何に。いや待て、閻魔様の住んでいる館かもしれない。浮かれてはもっと痛い目を見る。

 すっかり疑心暗鬼な彼女は様々なショックにより、意識を失う直前に聞いた「花婿」という単語が、すっかり頭から抜けている。

「私、これから裁かれるの…。天国に、行けるかな…。」

「大丈夫、君は生きている。」

 彼女がどのような勘違いをしたのか察したのだろうか、煙が勇気づけてくれる。

「私は、君を守る者。必ず無事に、花婿の許へ送り届ける。」

また新しい正体が追加された。が、それどころではない。

「花婿っ。」

時を戻したように、彼女の驚きは新鮮だ。しかし、青年は少しも意に介さないで冷静に促した。

「邪魔が入らないように、前進し続けよう。」

 相手の勧告を精査出来るほどの余裕はない。莢子の頭の中は独り言で一杯だ。

 死んでいない、生きている…。鏡の向こうは、冥府ではない。御殿には、閻魔様がいない。御殿にいるのは花婿で…それってつまり、シンデレラ、ストーリーッ。

 パニックに陥る莢子の手を、言葉通りの「煙」が掴んだ。進んでもついてくる様子の無い彼女に痺れを切らしたからだった。

 急に手を引かれた驚きで、莢子の頭からパニックが抜け落ちた。強制的に思考を遮られた彼女は、にわかに冷静になって、連れて行かれながら周囲を観察できるようになった。

 辺りは薄暗く、やはり夜のようだ。いや、連れて来られたのが夕も終わり掛けの頃だったから、当然なのかもしれない。

 足元は道のようにひらけている。だが左右、数百メートルほど離れた位置には、アメリカスギのように背の高い樹が、城壁のように並んでいる。左側の方が、右側よりも木までが遠い。

 暗くても、離れていても分かる樹木の存在感。高さもさることながら、驚くべき太さなのだろう。それが判別できた途端、天然の鉄壁の間にポツンと立たされた、心もとない気持ちに急に襲われた。

 それでも相手が手を取り進んで行くものだから、莢子は強いられて引かれて行くしかない。どうも暗いだけではなく、未だ何かもやのようなものが薄らと掛かっているのかもしれない。

 見下ろせば、自分の足が地面に漂う霧のようなものを蹴り分けている。地面に貯まるほどの靄があるとは予想外だった。

 花婿とやらはここに住んでいるのか…。それだけでももう、人間じゃないってことは分かる。第一、前を行く彼も、その正体は煙なのだから…。と、煙に巻かれている己の手を見る。一体これから、何と結婚させられてしまうのだろうか。お伽話のように、やはり、虫…。

 ゾッとしなくもない思いを茫然と巡らしていた莢子は、相手の背中をただ眺めて歩いていた。

「あれ、服が…。」

 口を突いて出たものの、彼の歩みだけは緩まらず先へと行ってしまう。その服は、町で見たものと一変していた。

 煙で繋がれているものの、細かな粒子であるそれはどこまでも伸びていく。互いの間は開いて行く。莢子が慌てて後を追うと、その足音の忙しなさに、ようやく相手がちょっと振り向いてくれた。彼女の姿を一目認めると、直ぐに前に向き直ってしまったが、歩きながらも今度は掛け合いが成り立ったようだった。

「元に、戻したんだ。」

 そう、彼はそれまで白シャツにズボンという、何の変哲もない洋服を着ていた。それでも着こなし手が良いからか、地味な服なのにどこか洗練された雰囲気があった。

「君をなるべく驚かさないように、君の国に合わせていた。つまり、化けていた。」

さらりと凄いことを言う。

 驚かさないようにと言ったが、それはもう何もかもが失敗していると言っても良い。莢子はそう思ったが口にはしなかった。

 彼女は未だ彼の背後に従っていることを良いことに、相手の姿を不躾にも上から下まで何度も観察した。

 古墳時代の衣褌きぬはかま姿とまではいかないが、全体的に似ていなくもない。特徴的な括り緒があるからだ。ただし彼の場合、足結あゆいの緒は膝下ではなくて足首の裾をすぼめている。

 上衣もまた貫頭衣か、前重ねの着物かは後ろからでは分からない。その裾は下穿きの外に出されており、腰の下辺りで帯により締められている。その結び目は無いようで、端は帯の中に差し込んであるように思われた。また別の位置には、組み紐で出来た飾りが下がっていた。

 飾り結びにされたその組紐は長さ十センチくらいあり、三センチほどの幅がある。平べったいその下端かたんには、編まれていない部分が房となっている。上端からは別の紐が通されており、その先端に取り付けられたべっ甲の根付が、帯の中に差し込まれてあるのだが、勿論莢子にはそこまで分からない。

 上着の袖は筒袖なのだが、施された袖括の緒でこちらも窄まっている。それら括り緒は、上衣でも下履きでも、生地に施された通し穴に差し込まれてあるものだ。 

 着物の生地は絹に似ているようにも見える。光沢があり、柔らかそうで、軽そうだ。紐や帯の分、ちょっとおしゃれな作務衣と言った方が近いかもしれない。

 一方、髪形は初めて会った時と変わっていないようである。良いところの坊ちゃんの様な、賢そうな見た目だ。癖のない黒髪はツルリ、ストンと真っ直ぐに下りている。無駄のない襟足までの長さ、無難中の無難なオーソドックスな髪型である。

 それでも、それだからか、いや、どうあっても滲み出る品性が感じられてならない。姿勢や所作の美しさもあるのだろうが、隠せないものがある。御殿から使わされているのだから、品が良いのは当然なのかもしれないが、一体何者だろうかと首をかしげずにはいられない。

 莢子がこうして、今置かれている状況に何ら関わらないことで思考を飛ばしていたので、彼女は己が立てる足音が変わったことにも頓着できていなかった。ここまで、意識を取り戻してから約数分。結局、相手がまた振り向くまで、彼女は思考を飛ばし続けていた。

「ここからは地面が弾む。慣れれば歩くより早いと分かる。」

 急に振り向くものだから、物色するような己の邪念に気付かれたのかと莢子は焦った。だが、見抜かれてはいなかったらしい。

 地面を窺ったが、目を凝らしても表面に霧が掛かっていたこともあり、見た目の変化は認められない。

「さあ、手を。」

 スッと差し出された相手の手を見て、躊躇する。行く先が怖いわけではなかった。それでも彼女は緊張の心持ちで、その手をソッと取った。

 ヒヤリ、とする冷たい手に、指先がピクリと反応する。けれど立ち止まってはいられない。相手がその驚きさえも握りしめ、思うより力強い先導に足がもつれそうになる。

 それを察した煙は繋いだ手を持ち替え、反対の手で莢子の腰を持った。

「ひゃっ。」

「行くぞ。」

と、強制的に同調させられ、何故か勢いよく踏み出さねばならなかった先、グニャリ。足元が息を呑む程に沈み込んでしまった。

 突然の感覚に硬直したものの、莢子は互いに取り合っていた煙の手に、乱暴にしがみ付いた。

 幸い、彼は予想よりしっかりと体を固定してくれていたようで、前のめりに倒れ込むことはなかった。彼女は分かっていなかったが、がその体を取り巻いていたからだ。

 グニャリとした足元が、どこまで落ちていくのか。だが、ゾッとしたのは一瞬で、ズブリと腰まで沈んだ体が、反動を得て今度は持ち上がっていく。地面と同じ高さにまで返ってきた二人は、しかしそこから更に弾み、今度は自分たちの背の高さ以上に浮いてしまった。

「きゃっ、わぁっ」。光がっ。身に起こった驚きと、目にした光景への驚きと。

 それはまるで二人の一歩が波紋のように辺りに広がり、その振動により跳ね出たようだった。先程まで気配も無かった無数の光の粒が、振動が伝わった一定範囲で辺りに舞っている。その可愛らしくも新鮮で、何とも美しい光景だ。

 飛び上がった体は、軽やかに降りて行く。まるで重力が弱まった世界に来たかのような体験だ。それは落下しないようにと、煙が浮遊させてくれていたからなのだが、彼女はここがそういう仕様なのだろうと思っていた。

「さあ、進もう。」

 驚きを呑み込まない内に、周囲に気を引かれるままに、再び彼に体を引かれながら莢子の足は前へと出る。沈み込む勢いに対して、何倍も上に放り上げられて行く体。光る綿毛が敷き詰められたトランポリンを渡っていく気分。

 急に宇宙空間に迷い出たかのように、弾み出た体が軽い。けれど急に正しい重力が返ってきたように、ハッとするほどズブリと沈む。グンと持ち上げられると、ポヨンと飛んで、フワリと降りる。

「力を抜いて。弾むままに任せて。」

 助言に注意しつつ、コツを掴んでいく。終いには煙と一体になったように、すっかり同調して純粋に楽しむことが出来るようになっていた。

 地面が弾む度に飛び上がる光の粒。辺りにキラキラと光を分けては降り注いで行く。莢子は先の不安も忘れて夢中になった。

 無心に笑う彼女。その声の心地良いこと。それらを愛でるように見守る彼も、知らずそっと微笑んでいた。

「あ~、楽しかったぁっ。」

 最後まで手を取られ、固い地面に降り立てば、彼女は満足したように感想を述べる。彼も返した。

「喜んでもらえて良かった。」

 その声に釣られて視線を向ければ、何と優しげな頬笑みだろうか。不意を突かれてドキリとする。表情が硬い人なのだと思っていたけれど、そうではなかったらしい。

「え、っと…。」

はしゃぎ過ぎた先程の自分を顧みて、子供のようだったと恥じ入ってしまう。

 羞恥と相手の視線から逃れようと一人足を踏み出してみれば、どうしたことだろう。久しぶりに自分自身の正しい重力を受けたように感じ、足が重い。思わず躓いてしまった。

「わっ。」

と、お腹の辺りに何かが巻き付いて、倒れることはなかった。

 言葉通り、それは煙だと思ったが、次の瞬間には人の腕であって、背中から声がした。

「感覚が麻痺したんだろう。大丈夫か。」

「は、はい。すみません。」

 幻想的な夢から覚めれば、それまでの距離感だったこの近さが落ち着かない。思わず丁寧な反応をしてしまう。所在なさげに視線を巡らし、逃れられなかった羞恥が倍となって顔を染めていると、急に硬い声で言われた。

「ここからは特に注意して欲しい。気を抜いてはいけないよ。」

その忠告は今し方の余韻さえ拭い去ってしまう。

 スッと彼が身を引いて、莢子から体が離れるかと思ったが、同時に煙となって崩れた。

 引き留めるような声を出す間も与えず、流れるように彼女をまた持ち上げる。今度は繭の中に閉じ込めるように、視界さえも覆われてしまった。それ程この先は危険だと言うのだろうか。

 この新しい状況に直後は不安を抱いたが、実は彼女がこの世界に現れた時には、今と同じように煙の繭の中にいた。彼女の身を完全に保護する為であったのだが、水から上がった時のように体が儘ならなかった莢子は、直ぐに気持ちが切り替わった。呑気な世界でしか生活してこなかった彼女は、現状に対する理由がどうであれ、一息つくにはもってこいだと思ったのだ。

 とは言え、外が見えないと時間の感覚も鈍くなってしまう。腰を下ろして、それから気持ちが落ち着くには十分じゅうぶん経った。流石に暇を持て余すようになり、けれども尚も辛抱していたが、更にしばらく時が過ぎると流石にじれったくなってきた。

「あの…、後、どれくらい。」

遂に我慢が出来なくて、ボソッと尋ねてみる。聞こえなかったのだろうか、返事がない。

 煙の姿でも、話せてたよね…。そう思ったが、聞き返すのは躊躇われて、彼女もまた沈黙を続けるしかなかった。

 することが何もない時には、寝るのが一番良い。幸いこの煙は何故か個体のように安定している。落ちる心配が微塵もない不思議な煙の中で、莢子は身を横に丸め、瞼を下ろすことにした。

 すすけた臭い。外の微妙な甘い匂いが嗅ぎ分けられるほど、この臭いに対してすっかり鼻がマヒしていたが、それでもまだ分かる。不思議なことに息苦しくはない。それどころか体の重みを感じないままに、ゆらゆらと揺られているのは心地良いくらいだ。彼女の体には、燃えた臭いがしっかりと移っていた。

 うとうとしながら彼女は考える。家を出たのが六時を過ぎていたから、七時か、八時頃だろうか。家にいたら、ご飯を食べ終わっている頃だったかな、と。

 はたと気付く。

(どうしようっ。何時に帰りますって言ってないっ。お父さんやお母さんが心配するっ。)

どこに嫁に行くのか分からない身であるにも拘らず、現実的な心配をする。

 慌てて跳ね起き、煙にもう一度声を掛けようと息を吸い込んだその拍子、落下した。

 肝が抜かれて出掛かっていた声も出ない。態勢を立て直せる間もなく、煙は右へ左へ、そして上下する。

 手毬のように転がる莢子に、何かの音が聞こえる。金属がぶつかるような固い音と、悲鳴のような甲高い音。

 その最中、何かが体の脇を過った気がした。激しい衝撃と驚きに目を固く閉じるしかなかったのだが、その気配には開かざるを得ない。だが、かろうじて開けた視界に映るものはない。

 再び振り回される体。遠心力を受けて、内部に寄り溜まる煙の一部と共に、一方に強く引きつけられる。と、先の気配が勘違いで無かったことを彼女は知った。

 固くて、長くて、鋭い金属。研ぎ澄まされた槍。突然現れた危機を前に、莢子の脳裏にマジックショーのアシスタントが飛び出してきた。

 箱の中に入る女性と、箱に剣を突き立てるマジシャン。違うのは、これは命を懸けたぶっつけ本番で、仕掛けもなく、どこから槍が突き入れられるか予測不能だということだ。

「死ぬでしょうがっ」と、マジシャン《だれか》を問い質したくなるような混乱に襲われる。彼女は内心わめいた。

(古典的マジックじゃ流行らないから、斬新さを取り入れたって言うのっ。ファイヤーショーはお呼びじゃないのよっ。)

その通り、槍には炎が巻かれていた。

(奇襲っ。これっていわゆる、奇襲かもっ。)

 だからと言って、自分が襲われる理由は何なのか。結婚相手が金持ちだからだろうか。良くある身代金目的か。巻き込まれているこの状況も見えてこないけれど、奇襲相手が味方でないことだけは確かだろう。金持ちに売られる彼女を助け出してくれる王子様の所業ではあるまい。正義の味方はこんな野蛮ではないはずだから。

 突然降り掛かった非日常的な命の危機に、息が詰まって声を出す勇猛さもなく、彼女は為されるがまま振り回されているしかない。

 敵の武器を見た時は、炎で殺傷能力を増加させているのだと思った。けれど、もう一度煙の端を槍が切り裂いた時、それは莢子の勘違いだったことが分かった。

 細くて長く、磨かれた金属のような鋭い棒。そのような武器だったにも拘らず、業火で焼き尽くされたように、炎によって煙の中で崩れ落ちてしまったのだ。

(ひいっ、ひいいっ。)

 燃えかすが飛び移るかと思った。不思議なことに、灰や塵は煙内から外に散ってしまう。だから、体が飛んでぶつかって、痛くはないが煙の中で回っているのは莢子一人だけだ。

(も、もう……、だめぇ~~~。)

恐怖と混乱と物理的な目眩とで、失神寸前。

 またもや気が遠のきかけたその時。それまで激しく暴風の中のようだった煙内が、急につむじ風が消え去る間際の様な、緩やかな回転に変わった。

 ふわりと、瞼の向こうに視界が開けて行くのを感じたけれど、回っている目が現実的に開けられない彼女には判断のしようがない。しかも外は暗いのだ。ただそれまで取り巻いていた、焼けた臭いが薄れていくのだけは判別できた。

 首元の一方で結ばれた彼女の髪は、とっくに緩み崩れている。ゴムが大分下がった位置で辛うじて纏まっていたそれは、遠方に引かれながら振り回されて更に広がり、乱れていく。クルリと身が回転するのに合わせて離れ去る煙と同時に、腹に巻き付いていく誰かの腕。

 優しげに動きは止んだけれど、誰かの膝に抱えられたことも分からない位に目が舞っている。

「おい。おいっ。」

 必死に呼び掛けられているが、もう構ってなどいられない。沈んで行く。沈んで行くのは体なのか、意識なのか。だらりと垂れた彼女の体は、それでもフッとした瞬間に更に重くなり、遂に動きを無くしてしまった。

「……また気を失ったのか。」

 少女が随分弱いことに戸惑いつつも、丁度良いとも思う。この先も敵がいないとは限らない。煙に閉じ込めて連れて行くのが最善だ。それならば、起きていようが寝ていようが変わらない。却って寝ていた方が怖い思いもしなくて良いというものだ。

 護送に際して、行程の各所に人員を配置し、安全は確保されると聞いていた。御殿を狙うはぐれ集団がおり、警戒を怠らないようにとの指示も受けていた。だが、護衛しようとするこちら側の動きがあれば、どうしたって敵に気付かれてしまうのは仕方がない。

 危険な状態と知りつつも光を起こせば、当然ながら敵に居場所を知らせるかのようなものだと警戒が強まっただろうが、敵としてはあからさまな誘導かもしれないと戸惑ったに違いない。

 第一、足場の悪いあの沼は、奇襲をかけるのに向いていない。僅かな波風で光が立っては、敵にとっても自分の居場所を知らせてしまう危険な地であるのだから。

 御殿への道中で敵が襲ってくるのは十中八九。言ってみればわざと居場所を知らせて、敵を誘い込む算段もあった。それは護衛と打ち合わせたものではなかったが、予想通りの襲撃にこちらとしては対処がし易かった。

 巻き込んだからには全力で彼女を守るが、この先を見通しても、全ての危険から遠ざけることは決して出来ない。彼女を利用することで自責の念を感じるが、彼女は元々此方と縁が出来ていた。

 此処、夜常国よもつくにと縁があれば、「呼び掛け」に応えてしまうのが道理だ。伝えられたようにあの周囲を数日探っていたが、応えたのは彼女だけで、縁があると聞いていたのに相違はないと判断できた。だが、仕来りに則って謎掛けの段に入ると、彼女の態度には違和感があり、事前情報とは異なることが分かった。

 きっと彼女にとってはどれも不意打ち、もしかすると縁さえも含めて、の如く、初めから何もかもがそうだったのかもしれない。だからこそ、混乱や不安をこの後も与え続けることになるだろうと理解した。

 謎を「解いてみせる」と言ったものの、本来は自分が解くものではなく、解く必要もなかった。却って邪魔をしたようでもあるし、この短期間で連れて来られたとあれば使者としては想定外の良い働きをしたとも言える。

 彼女のことを思えば、謎をほどいても良いものかと躊躇いもしたが、めなかった。

 それは自分が身を引いても、彼女自身の問題によってこの縁から逃れることが叶わないかもしれないからだ。それならばいっそ、この件については見通せている自分が、彼女を逃せられるように守っていた方が良い。むしろ、自分達にしか彼女を直近の縁から逃すことは出来ないだろう。

 彼女と対峙した瞬間、何故選ばれたのかが分かってしまった。見定める力量が自分に備わっていたことは幸いだった。あの瞬間、の未来が見えた。彼女に出逢えたことは、私達にとっての僥倖だった。

 彼女の謎を解けるのが自分だけであったことも幸いした。本来ならば違う者と深める縁を、此方側に繋ぐことが出来たのだから。このまま彼女の信頼が得られれば、私達の言葉の方に耳を傾けてもらい易くなるだろう。

 さりとて、莢子に巡りくる今後の不憫な境遇を思えば、煙は安堵ともつかぬ溜息をまた一つ漏らした。

 今一度人から煙に姿を変えると、膝に抱えられていた彼女は地に下ろされることもなく、再び持ち上げられていく。

「姫は御無事かっ。」

突然のそれは、第三者の声。

 何時の間に居たのだろう。何時から居たのだろう。何処から居たのだろう。そう思えるほど突然現れたように見えた。しかし、その存在を予め知っていた煙は何事もなく頷く。声は辺りに指令を出した。

「索敵を怠るなっ。警戒せよっ。」

 その命令に合わせて十名足らずの気配が動く。だが、周囲にはもっといるに違いない。彼らは一定の距離を保ちながら煙に同行するものの、姿自体は闇に紛れて隠れていた。

 

 

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