第4話
知リタイ。
遠くから、そう尋ねる声がする。
知リタイ。
燃えるような夕焼け。飲み込まれたら、身が焼けてしまいそう。
知リタイカ。
これは、焦げた、臭い……。
ハッとして莢子が目を開いた。眠気に
動悸を抑えつつ、ベッドの上で身を起こす。開け放たれたカーテン。窓から天を仰ぎみれば、見ていた夢のように燃ゆる空。
今日からは部活も暫くお休みだ。初日ということもあって一日中家で過ごした。夏休みの宿題やら、細々とした雑事で時間を消費した後、ちょっと休んだつもりだった。ところが、すっかり寝入っていたらしい。
あの時間帯か……。
彼が姿を現す頃だ。まだ定かではないのに、それが既に確かなように心の中で唱えた。
決意すると立ち上がる。二階から駆け下りて、「散歩に行ってきます」と、玄関口で告げてから家を飛び出した。
その瞬間、今ひと鳴きと力んだ様に、蜩の反響が周囲に広がった。高い周波が幾重にも重なって、脳を揺さぶる。それでも彼女は己の勢いを絶やさぬように、息せききって走り続けた。
じっとりと染み出てくる汗を感じながら、熱が冷め始めた外気を分けていく。何時でも一層冷えた風を与えてくれる、苔むした杉並。そこを駆け抜ければ、お隣の町、お隣のバス停だ。
停留所の標識の側に生える青木。市道の南側、つまり町側は縁が切り立った斜面になっている。道の際に生えた木は、傾斜面に力強くしがみついていた。
左の眼下に広がる集落と、市道で分断されて右に残された、小高い丘の頂き。その懐には町の神社への入口がある。
参道は社殿に向かって伸びている。けれど、その道さえも覆ってしまうような鎮守の森に視界は遮られ、人が市道の上から社を目にすることは出来ない。
息を整え、バス停の看板から先へ行く。誰もいない町。誰も通らない道。チラリと目を向ければ、ほら。
火の粉で上半身の輪郭を縁取ったような姿。夕焼けと影とのコントラスト。のっぺりとした暗い外壁。闇の窓。そこに腰かけ、本に視線を落とすのは、彼。静か……、静かだ。彼が、視線を返した。
跳ね上がる鼓動。一昨日と違ったのは、彼の身が、前にのめったと感じたこと。
飛び出してくるっ。
逃れられない。何故か捕食される恐怖を感じた。
彼の手から落ちる文庫本。消えたように見えたのは、闇に紛れてしまったからか。勢いに押されたように身を引く莢子。飛び出したはずの彼は、ああ、何ということだろう、煙と化している。
爆煙。
意思を持ったように、驚くべき力で吸い込まれるように、広がった先から細長く形を変えて、矢のように伸びてくる。
目的地は莢子だ。
呑み込まれるっ。反射的に瞑られた瞼と、逸らされた顔。焼けた臭い、焦げた臭い、きな臭い。
だが、煙は彼女の予想の裏を突いた。勢いは停止、柔らかに拡散。フワッと広がる煙の中から現れたように、再び彼の姿が音も無く形成される。その身の内に、全ての煙は収まってしまった。
予想したことが身に起きなかった。莢子は固く瞑っていた瞼を、恐る恐る開いていく。ふるりと顔を向ければ、目の前に展開されていた幻燈。日が落ちて行く世界では、相手の色味が褪せてしまう。だから、彼はまるで影のままかのようだった。
非現実的、そして静かだ。一定時間硬直に耐えた彼女の体は、予想したことが身に起きなかったことで糸が切れた。突然力を無くした彼女は、ストンッと、くずおれる。
膝下丈のスカートが緩和剤になってくれたが、シフォン生地の薄さでは、コンクリートの硬さと、その上の細かな塵がもたらす痛みまでは防ぎ切れなかった。だが今は恐怖の方が勝っていたので、莢子は落ちた体勢を更に変えることはなかった。
恐怖は、去ってくれたのだろうか…。
道にへたり込んだ彼女の姿を見下ろすように、影は一歩近付いた。対面しているというのに、長い沈黙は終わらない。煙の中から現れた青年に、火の粉が散っている。いや、彼の中から火の粉が散っていく。その数は急速に増し、突然爆散したように、青年が光り輝いて見えた。
莢子も青年も互いに視線を外さない。莢子は目の前の事象に目を丸くしていたが、青年の表情は固まっているようだった。
爆散した火の粉が更に暫くの時間を掛けて静かに消えて行くと、チラチラと輝いていた燐紛さえ鎮まった。すると、息吹を取り戻したような青年がゆっくりと動き出し、また一歩莢子へと歩みを進めた。それからやはり静かに、口を開いた。が、そこから紡ぎ出された一つの問いは、莢子にとって得体のしれないものだった。
「……謎を、掛けてくれ。」
鼓膜を震わす生の声。莢子の細胞が活気づいたように、耳から全身に振動が駆け巡っていく。影は、生きていた。
固いけれど、落ち着きのある声。品の良さそうな清潔な髪型。癖のない髪が、彼の動きに合わせて滑る。切れ長の涼やかな目元。
「君の中にある謎を、掛けてくれないか。」
幻燈が現実となった強い刺激に、莢子の思考は飛んでいる。お陰で酷く取り乱さなくても済んだと言えるが、彼女が反応を見せないことで、互いの間には沈黙が降りてしまった。
暫くの後、遂に口を開くまでに回復した彼女は、ようやく自分が言われたことを顧みることが出来た。その、奇怪さに気付く。
待て、待て、待て、待て。ずっと頭の中には「知りたいか」との問いが聞こえていたというのに、何時の間にか自分が尋ねる側になっていたという奇怪さ。第一、自分の中にある謎とは一体…。
ようやく正当な疑問を抱くに至った彼女は、至極当然の返答をしようと口を開いた。ところが、
「決して、こたえないで。」
出掛かっていた言葉が、引っ込んでしまった。親友の言葉がまたも蘇ってきた。莢子は口を開けたまま固まってしまった。
相手に反応があったことで、彼は互いの間を詰めてきた。彼女は尻をずらすことで僅かに後じさる。上から見下ろされると怖気づいてしまうものだ。彼女の意欲は削がれてしまった。
その時、意外なことが起きた。威圧的に見下ろしていると思っていた彼が、唐突に身を沈め、片膝を突いてきたのだ。目前に下りたその姿に、だが威圧感などなく、むしろ怯えた様子に映る莢子を労わろうとするかのような誠実さが見えた。
事実、彼は謝罪を口にした。それでも彼はぶれず、莢子にとっては意味不明な言葉をその後にまた繰り返した。
「許してくれ、驚かせるつもりはなかった。ただ、君に謎を掛けて欲しくて。」
謎…、私が……。
蘇る親友の言葉。夢解き姫。昔話の彼女のように、不思議な夢を解いてくれと、私に言って欲しいのだろうか。
大体、あの昔話はどこか釈然としない。まるで謎と答えの順序が反対であるかのようなのだ。姫は夢を解き明かしてほしいと言っただけで、見た夢の通りにしてほしいとは言っていない。それなのに、その後の展開が彼女の見た夢の通りになってしまうのだ。
夢を解き明かした結果、冥府に連れて行かれると分かっていたのなら、あのような謎を出しただろうか。解き明しは正しかったと、答えるものだろうか。それでも答えるとするならば、姫が本当に正直者だったからか、あるいは死にたかったからに他ならない。
冥府、死者の国に連れて行かれる…。そのような空恐ろしさが妙に身近に感じられて、莢子は尚答えられない。彼女を辛抱強く待ちつつも、青年が再び言葉を紡いだ。
「君はこの時を、待っていたのだろう。」
「へ。」
余りにも自然に、間抜けな声が出てしまった。気まずかさらだろうか、再び沈黙が二人を包み込んでしまった。
男は初めて僅かに表情を崩し、逡巡したような様子を見せた。
「この仕来たりを、知らなかった…。」
驚きが含まれるそれは独白のようにも聞こえたし、莢子に尋ねたようでもあった。男はまた暫く逡巡した後、答えは必要としていないように、続けた。
「齟齬が生じていると見るが…。だがどちらにしろ、事は動いてしまった。今は君の謎が必要だということに変わりはない。」
相手は莢子を置いて、状況を進めようとする。彼女は展開に全く付いて行けていない。先程から謎々と、自分に謎めいている部分など全くないと宣言したいくらいだ。そう困惑する莢子は根本を解決しようと、再び口を開いたが、またも親友の忠告が頭を過った。
彼女も僅かに逡巡した後、解決方法を思いつたとばかりに、引け腰な態度を正そうとした。
その際、上半身の体重を支えていた膝の痛みが正しく戻ってきた。「あいたたた」と眉をひそめながら、両手を地面について固まった膝を持ち上げる。じんわりと痛む膝小僧を伸ばすと、立ち上がった。
青年を見下ろす形になったことで、少しは立ち向かえるような気持ちがしてくるから不思議だ。莢子は決心して声を発するに至った。
「わ、私が、何の謎を、持っているって言うのよ。」
これなら親友の忠告の許容範囲内だろう。答えてはいない。聞いているのだから。
そのような屁理屈が罪悪感を催したのか、莢子の目には、自分を見上げる相手がゆっくりと息を吸い、吐き出した、つまり、溜息を吐いたように見えた。
「それは君にしか、分からない。」
莢子の思考はまたもや凍りついてしまった。双方、大前提となる「謎」は何かが解き明かせないという不思議な平衡状態。これでは
「ここは仕切り直し、ということで、帰っても……。」
「それは出来ない。」
左様ですか……。
随分はっきりと断られたものだ。幾分ふてくされてしまった莢子の頭の中を、様々な思いが巡って行く。それがある種の文句となって、口から漏れた。
「し、知りたいかって、聞いてきたのは、そっちじゃない。」
これは仕返しのように、青年の虚を突いた。彼もまた予期もしていなかった言葉をもらったように、暫時固まった。その硬直が解けると、このように返した。
「私の呼び掛けが、君にはそのように聞こえたのだな。それはつまり、君には知りたいことがあった、と言うことだ。それが、君の謎か。」
最後の問い掛けに、莢子は直ぐに答えることが出来なかった。何もしなくても、ここに来るだけで相手が何かを教えてくれる、そう思っていた自分の気持ちに気付いたからだ。今になって自分がそれを提示しなければならない側になるなどと…。
「それを告げてくれ。
相手の真摯な態度に見合えない。彼が指摘する、莢子の中にあるだろう疑問は、あったとしてもあやふやで、単純で、子供染みたものでしかない。彼女は自分でも未だ明確に出来ない思いに押し黙っている。
幻燈の不思議、闇の向こう側、奇怪な出来事の理由、真偽、そのどれものようでいて、はっきりとしない。
そもそも、何かを知りたいというこの望み自体が、この「何か」が、求められている謎だったのだろうか。
「何かが…、何かが、起ころうとしていたから…、起き始めていたから、だから、囚われて……。」
知りたかった…、そう、知りたかった…。
「あなたは、だあれ。」
言葉が衝撃となり、相手を襲ったようだった。瞬間、無音になった。
そうだ。意識外に追いやられていたかもしれないが、今まではあらゆる音に取り囲まれていたはずだ。
同時に二の腕に走る熱。反射的に袖を捲れば、肩口に見たことのない痣が浮き出ている。ぼんやりとした光さえ滲んでいる。常識的に言って、有り得ることではない。
予防接種の痕ではなかったのか。消えかかったような痕だったのに、今は見たことも無い形の文様が焼き付けられている。
「何、これっ……。」
言いようのない恐怖が、知れぬ闇から這い上がってくる。
「
「えっ。」
思わず相手を見返したが、既に彼はバツが悪そうに視線を逸らしていた。
何と言う廻り合わせだろう。自分が彼女の元に訪れなければ、彼女の謎にならずに済んだのだろうか。だが、もう遅い。契約は、成立した。そして本来の行程を端折るかもしれないが、自分は、今からそれを履行する。
おもむろに煙が顔を上げた。腕を押さえる莢子と視線がぶつかる。今度は彼の口が開いて行く。
「契約に従い、君が掛けた謎を、
莢子はつと焦った。その先を続けてほしくなかった。動悸がする。待って欲しい。翠が、翠がっ。己も
「私は、君を迎える者。」
果たして、彼女が望んでいた回答だったと言えるのだろうか。余りに漠然としていて、更なる疑問を生むだけのものに違いない。けれど、この言葉は、莢子の心を貫いてしまった。
「ッ。」
彼女は息を呑んだ。熱を持っていた痣から、何かが体の中に流れ出るのを感じる。
「受け入れたからには、行かなければならない。私は、君を送る者。」
ハッとして、視線を戻す。謎の答えが、また一つ増えた。
送るって、何処に……。夢解き姫…、冥府、死者の国…。死っ。
これ以上関わってはいけない。突然踵を返し、走り出す莢子。しかし、
地面を蹴っていた足が、急に空を蹴った。煙に取り巻かれて、身が持ち上がっていく。
「や、いや、離して、降ろして、」
体が震える。身が
「君は逃れられない。済まないが、連れて行く。」
止めて止めて、連れて行かないで。死にたくないっ。そっち、そっちはっ…。
翠、翠、助けて、行きたくないっ。ごめん、翠、私呼び掛けに、こたえてしまった。きっと…。「知りたいか」っていう声に、「応え」てしまった。
涙で歪む視界は滑らかに、そして速やかに移ろっていく。緩い坂道を上り、鳥居を越え、神社の境内を進んでいく。
影に満たされた社は、ひっそりとして空恐ろしい。無音が空気を張り詰めさせている。何の力だろう、社殿の引き戸に取り付けられていた鍵が独りでに外れ、扉が開いていく。
天人が雲に乗って移動するように、だが霧散するはずの煙に拘束されて、滑らかに社殿内へと入っていく莢子。
中は一層静寂で、籠った湿気のような臭いがする。その臭いに誘われて、彼女は進行方向の先を窺う。ゾクリとするような闇。拝殿に敷かれた畳。静まり返った本殿を隠すように下ろされた数枚の御簾。決して開けてはならないもののように閉ざされている。
行きたくない、その先に行きたくない。息が出来ない。行きたくない。下りている御簾の先には行かないでっ。
脳裏を走る声。「夢解き姫、知らないの」。
翠っ。
風が、結界を破った。あたかも莢子から放たれたような勢いが、御簾を押し分けたようだった。光など微塵もないのに、何かが光って見えた。
幣殿の奥、本殿へと続く階段。その先に、古式ゆかしい銅鏡を模したような神鏡が、雲形台の上に設置されている。その鏡面が仄かに光っている。
磨かれたその中に、煙の端が筋を引いて吸い込まれていくようだ。起こり得ない常識外のことが、尚一層莢子の身に降りかかろうとしている。吸い込まれていくのは煙だけか、それとも、それに囚われたような彼女もなのか。
そんなわけがないっ。入るわけないっ。あんなに、小さな、鏡の中にっ。
それは祈りにも似た否定。心臓がはち切れそうな音が、聴覚を遮断する。意識を狭める。身動きも出来ない。声が、声が出せない。いいや、今、今出さなければ。
「ま、ま…、待ってっ。連れて行くって、どこにっ。」
足掻くように尋ねれば、与えられた答えは、余りにも彼女の予想外だった。
「花婿の許へ。」
この驚きは、だが彼女にとって良かったのかもしれない。茫然自失の内に、有り得ないと思っていた境界を過ぎていく。その瞬間、親友に詫びた。
「わざわざ夜に行くはずない」とか、呆れて返した私が馬鹿だった、と。
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