第3話

 幻燈は、巨大な影を必要とする為に太陽を避けるのだろうか。あの人影は朝にも現れず、昼にも現れないらしい。

 今日の部活は午後からだったので、時間を合わせれば、あの妖しい上映時間に遭遇することも出来るだろう。

 恐怖を感じているのに、それでも心惹かれる自分がいる。あの幻燈が余りにも人の心を打つ美しさに、満たされているからに違いない。

「意趣変えでもする気なの。」

 同年の部員に尋ねられて我に返った莢子は、筆を止めた。見れば、爽やかな青空にするはずだった空が、暖色に浸食され始めている。

 自分でも驚いてパレットを覗けば、燃える情熱を宿したような、紅い絵の具が練り出されていた。

「ま、それもいいかもねぇ。」

仲間は気楽なことを言って、自分の席へと戻って行った。

 その遣り取りを隣で見ていた翠が席を立つ。ズイと親友に歩み寄ると、何を思ったのか、突然莢子の腕を取り出した。

 意表を突かれて相手を見返せば、その真剣な顔と言ったら。けれど、一体何がしたいのか。親友は彼女の腕を裏に返したり表に返したり、あまつさえ半袖まで捲り上げてジロジロと観察する始末。

 この奇怪な行動に本人は元より、部員達まで手を休めて一人二人と観賞し出す。それらの視線も構わずに、親友の探し物は終わらない。

「この傷、何。」

不意に問われたのは、右手の平にある古い傷痕。

「あ、それ、何時の間にかあったのよね。いつ怪我したのか、覚えがないんだけど。多分はさみでも刺しちゃったんじゃないかなぁ。」

「ふ~ん。」

そう生返事をしつつ、彼女は親友の手にある別の傷痕に視線を移した。人差し指の側面に、似た様な痕がある。同じ理由のものだと思ったのか、翠はそれには触れず莢子の右手を離した。

 反対の腕もすっかり確認すると、自分の顎に指を掛けて首を捻る。

「わあっ。」

突飛な声を上げたのは莢子だ。気でも違ったか、いきなり彼女のシャツの裾をまくり上げようとしてきたのだ、あの、頼れる翠が。

「と、止めなさいっ。」

対岸から飛ぶ部長命令。

 翠の傍にいた部員達は慌てて立ち上がると、彼女を取り押さえ出す。ところが、本人は少しも頓着しないで、親友に詰問する余裕振り。

「さ~こ、体のどこかに、おかしな痣、無いわよねっ。」

「はあ。」

一同で困惑。

 夏の暑さにやられたのだろうか。部費で保冷タンクを買った方がいいかしら。

 部員が冷たい麦茶でも飲めるようにと、部長が思案を始める中、己の服を守る莢子は動揺しつつ答えた。

「おかしな痣って、これ位しか……。」

 そうやって袖をたくし上げて見せたのは、左肩辺りにうっすらと残る何かの痕だ。親友は全く見もしなかったのに、目を据わらせてピシャリとこれに返した。

「それ、予防接種の痕でしょう。」

初めの段階で既に確認済みだ。

 この一言で、途端に部室の中が和らいでしまった。

「さやったら、まだ残ってんのぉ。」

「そういえば、あれって何時の間にか消えちゃってんのよねぇ。」

この話題で沸き立つ室内。

 親友の奇怪な行動が水に流されたようで莢子はホッとする。当の翠は拘束を解かれて、何事もなかったかのように椅子に座り直していた。

「無いなら、いいのよ。」

最近の彼女の言動は、不可解だ。


 帰りたいけれど、帰りたくない。見たいけれど、見たくない。遭いたいけれど、遭いたくない。

 そうした優柔不断な思いが、だらだらと彼女を引き留める。結局、日が落ちるまで親友と外をふらついてしまった。

 幾らなんでも親が心配する。予想の範囲内に帰って来ない娘のことを思って、何か行動を起こすかもしれない。

 慌てて時刻表を確認した莢子は唖然とした。動きを止めた親友に気付いた翠が、同じように覗き込んできた。

「あら~。そう言えば、今日は運休じゃない。」

 何時もならこの時刻にあるはずの最終バス。それを当てにしていたのに、運休になる日だったことを失念していた。親に迎えに来てもらうしかない。

 諦めて電話の為に小銭を出す心積もりをしていた莢子だったが、親友も今気付いたとばかりに声を上げた。

「あらぁ、私のバスもないわ~。」

 彼女の指先を見れば、確かにバスの予定がない。ないばかりか他路線で行けるはずのバスさえも、つい今し方出たばかりのようだ。確かに、その姿を視界の端で見送った。まだ八時前で、と思うかもしれないが、いずれにしても彼女達の最終バスは行ってしまった後のようだった。

「私、」

莢子が言い掛けた拍子、親友が閃いたとばかりに割って入った。

「あ、見て、これなら郵便局前まで一緒に行けるわよ。」

 確かにその路線のバスは五分後に最終がやって来る。定期券の範囲内ではあるけれど、二人とも郵便局前で降りなければならない。そして、どちらもそこから数時間は歩かなければ帰れないに違いなかった。

 勿論、親友はそのことも見越している。だからこう続けた。

「大丈夫。お母さんに電話して、そこまで迎えに来てもらうから。さ~このこと送ってもらっちゃう。だからお願い、一緒に帰ろう。」

 駄々をこねるようでいて、拝み倒しているようでもある。直接駅に迎えに来てもらえば良いものの、緑には親友と一緒にバスに乗りたいという欲もある。それには時間の余裕がもう直ぐ無くなる。莢子は彼女の申し入れに甘えることにした。

 駅の電話から帰宅の旨を親に伝え、安心した莢子らがバスに揺られて郵便局に着く頃には、とっくに夜景だ。既に待っていてくれた翠の母親が運転する車に同乗して、人気のない山間の道をひた走る。前照灯がやけに眩しく、彼女達の道を照らしていた。

「さこちゃんが翠のお友達で、本当に良かったわぁ。」

車中で繰り広げられた昔話の折、親友の母親が言い出した。

「産まれた時から病弱で人見知りが強い子で、お友達なんて出来ないんじゃないかって心配してたんだけど。」

「その話はもういいから、ね。」

 後部座席に親友と座った翠が話を終わらせようとするも、母親は年嵩の厚かましさで気にしない。言いたいままに言葉を続ける。

「さこちゃんと急に仲良くし出した時には驚いたのよ~。あらうちの子、積極性が出てきたんじゃない、って。成長の変化だったのかしらねぇ。」

 翠が病弱で、人見知りだった……。全く覚えが無い。一体何時の成長期か。心配性でお世話焼きの今の彼女からは想像も出来ない。何せ人前で他人のシャツを捲り上げようとするほどの豪胆さなのだから。

「大人って直ぐ昔話するんだからぁ。」

不貞腐れる娘。家庭における親友の姿を横目に見て、莢子はふふと笑った。

 車が緩やかに坂道を上がり、左に折れて行く。あの町に入った。莢子は胸が高鳴るのを抑えられない。今日も、居るだろうか。

 日が落ちた町には人が帰っているだろうに、明かりが漏れている感じがしない。灯っているのは寂しい外灯だけかのようだ。漆黒の海に沈んでしまったように見えるのは、車の照明が眩し過ぎるからだろうか。

 莢子は努めて、それまでと同じように外の景色を見る振りをして、あの家屋を注視した。夜の外套に覆われたそれは、何時もと同じようにそこにある。暗闇にあって灯りのない窓の中、彼の姿はそこにはなかった。

「さ~こっ。」

 悲鳴を上げてしまうかと思った。いきなり肩を掴まれれば、視線は左に奪われるしかない。顔を向ければ、人の気も知らないような親友が、急に熱を入れて言い出した。

「バス停の向かいにあった神社、夜に近付いちゃ駄目よ。お化けが出るからねっ。」

 バックミラー越しに母親の目が笑っているのが映っている。何を言い出すかと思えば子供騙しか。莢子は呆れ顔を向けた。

「あ、信用してないわね。日が暮れたら、近付いちゃ駄目なんだからっ。」

 熱心な警告も何も、

「一度も行ったことないのに、わざわざ夜に行くと思う。」

隣町の氏神神社なのだから。

「肝試しでもなきゃ行かないわよね~。」

と、母親からの莢子への呑気な援護射撃。

 孤立無援の娘は頬を膨らませて抗議する。

「肝試しなんてもっての外っ。夢解き姫、知らないのっ。何が起こるか分からないんだからねっ。」

 莢子は愛情を感じて笑った。昔話を信じて怖がるなんて、翠は純粋だ。


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