第2話

 夢に浮かされたような夜が明けた。

 今日は午前中に学校へ。そこで昨日より大分涼やかな空気の中、何時ものように徒歩でバス停へと向かう為、家を出た。

 今日は小さな蜜蜂達が辺りで舞っている。庭に咲いている向日葵の蜜でも集めに来たのかと思えば、莢子の頬は自然と上がった。

 門柱の間を抜けると左に折れて、緩やかな坂道を下り始める。市道とぶつかれば右に折れてバス停へと向かう、お決まりの光景。ところがどうしたのだろう、彼女は最寄りの停留所を通り越してしまった。

 立派な杉が立ち並ぶ木陰の道へと入る。何時もより五分強多く歩き続けると、杉並木も終わってしまう。陰から出て、全身に日を浴びる。ここは隣の停留所がある町だ。そう、昨夕幻燈の様な景色と遭遇した、時代が止まったかのような、あの町だ。

 莢子は一晩中心が囚われて、とうとう自分の足で確かめずには居られなくなってしまったのだ。そこで今朝はここまで足を延ばしたという次第だ。

 逸る気持ちを落ちつけて、バス停で立ち止まる。あの家は、この先だ。

 日傘代わりの青木。その影は今、外れた所に落ちて、彼女を守ってくれてはいない。彼女は勇気を出して、停留所の看板から姿を覗かせた。

 ちらり。

 その一目で、彼女の夢は砕けてしまった。けれど分かっていた。黄昏時の景色が、朝日のもとに留まっているはずもないことは。

 闇に囚われてしまうような危うさはどこにもない。あの象徴的な家屋は午前中の健やかな日差しを受けて、まるで晩年の夫婦かの様な暖かみを静かに醸し出していた。勿論窓は、開いてはいなかった。


 丸っこくて可愛らしいおばあちゃん。孫達が纏わりついて昔話をせがむ。あのお話聞かせてよ、と。

 おばあちゃんは縫物の手を止めて、期待に輝いた目を見返し、くしゃりと笑う。

「ああ、ええよ」。そう言って語られ始める昔話は、何時の時代のことだろう…。

「夢解き姫。

 昔むかしあるところに、お姫様がいました。お姫様が庭で遊んでいると、屋敷の外に元気な男の子らの声が聞こえてきました。

 お姫様は気になって外に出て見に行きました。何をしているのかと尋ねてみると、男の子らは自慢げに、あるものを突き出してきました。

 それを見たお姫様はびっくりしました。それは、はねと尾をもがれた蜻蛉とんぼだったのです。

 心の優しいお姫様は虫のために泣いて、男の子らからその虫を助けようとしました。そこでお姫様と子供らとの間でいさかいが始まってしまいました。

 その騒ぎを聞きつけた屋敷の者が出て来たので、男の子らは逃げていきました。お姫様に助けられた虫は感謝の印にと、お姫様に口付けをしました。

 あれ、びっくり。それで虫は人になってしまいました。

 人になれた虫は喜んで、お姫様をお嫁様にしたいと言い出しました。困ったお姫様は考えて、では私の夢が解けたら、お嫁に行ってあげましょうと、言いました。それはこんな夢でした。

『一匹の亀が歩いていると、沢山の木の中に一本の桃の木を見つけました。実は一つしかついていませんでした。その桃が余りに美しかったので、どうしても食べたくなった亀は、一生懸命首を伸ばしました。伸ばしても伸ばしても届かないので、亀は何日も何日も桃に向かって首を伸ばしました。

 随分長い時が経って、やっと桃に届いた頃には、亀の首は十尺ばかりになっていました。念願の桃を食べられた亀は、驚いたことに途端に龍となりました。そして、雲の上に昇って見えなくなってしまいました。』

 この夢を聞いた虫は、それから毎日毎日夢の解き明かしを告げに行きました。けれど、お姫様はそれは違うと、首を横に振るばかりでした。

 そうする内に、お姫様の夢を解き明かした者は、お姫様をお嫁様に出来るという噂が立ち、沢山の男達がお姫様に会おうと押し掛けてくるようになりました。けれど、お姫様をうんと言わせる解き明かしが出来た者は、誰一人いませんでした。

 噂はますます広がって、遂にお殿様までもが馬に乗って、お姫様に会いに来ることになりました。お殿様の馬は屋敷に着くと、お姫様に言いました。

『夢の解き明かしはこうです。亀は虫で、桃は貴方。亀が桃を食べる、つまり、虫が貴方をお嫁様にもらった時に、貴方は死んで冥府に行くということです。龍とは、これもまた虫。虫は貴方を死者の国に送る、使いなのです。』

 これを聞いたお姫様は、遂に、うんと頷きました。お殿様は、では約束通りにお嫁様にもらうと言って、お姫様を馬に乗せました。すると、途端にお殿様の姿が変わり出しました。それは、元は虫の、あの人だったのです。

 虫はお姫様をさらい、彼女の夢の通り、冥府に連れて行ってしまいました。

 これでお終い。」


「さ~こ、今日はどうしちゃったの。手が全然進んでないわよ。」

 親友に言われて我に返れば、昨日と全く変わっていない目の前のキャンパス。

「頑張りすぎてスランプなのよ~。ね~。」

と、茶化す声が投げかけられる。

「そうかもしれない。」

弱気な笑みを浮かべて返したが、直後についた溜息には効果があった。

「気分転換に歩いてこようよ。」

 翠が提案すれば、誰もが反対しないで勧めてくれる。美術室を出て行く二人。学校の外にある自動販売機を目的地にした。

 ピッという音の後に、ガコンという音が立つ。受け口に手を差し入れれば、表面に水気を帯びた、冷たくも柔らかい金属の感触。指先から神経が目覚めて行くようだ。

 缶を手にして振り返れば、親友が仁王立ちしていた。

「さ~こ。」

「何よ、翠。」

 何時にない気合いを相手から感じ、僅かな戸惑いと緊張感が莢子を身構えさせる。

「本当に、何もなかったのよね。」

 ここに来る道すがら、その問いには既に十分なほど答えている。それでもまだ信用が無いらしい。親友は通常運転に何重もの輪を掛けて、心配症を発揮する気のようだ。

 これには流石に参ってしまう。莢子は眉をハの字にして困り顔。同じ答えを聞かせる為に口を開きかけたが、それを見越した相手が先に釘を刺した。

「こたえたら、駄目よ。」

 え……。

 問われたのに、答えてはならぬとは、この問答は如何に…。

 困惑する相手を余所に、翠はもう一度注意深く念を押した。その両手は、結露した水を缶から滴らせながら、きつく握られている。

「決して、こたえないで。」


 その後、この件は閉ざされた扉の向こうに仕舞われたように、親友が触れることはなかった。定時に部活を終え、何時ものように帰った。

 変哲もない行程を辿り、家路へと就く。きつい日差しに照らし出された景色は、だが、車内が涼しいが為に、そこから見る者にとっては他人事だ。唯、夏の景色が美しく広がっているだけに過ぎない。まるで映画を見るかのように、濃く鮮やかな色合いは過ぎ去っていく。

 昨夕と同じ景色が、全く異なった時間帯でやってきた。日の傾きだけで別世界。虫取り網を持った子供の声が、そこから響いてくるようだ。

 あの家屋の窓は、確かに閉まっていた。


 それでも諦めきれない莢子は、夕を迎え、一人散歩に出ていた。

 嫌に蝉の鳴き声が木霊こだましている。まるで警鐘のように不安を煽られる。

 行くな、行くなと止めているのか。それでも彼女の足は止まらない。何時もは親切に涼を提供してくれている、あの大きな杉並の影が、今は怪しいお化けのようにそびえ立って見える。その不安を果敢にも拭い捨てて、影のトンネルを抜け切った。

 開ける視界。昨日と同じようでいて、少しだけ色合いの違う夕焼け。高台にある市道。見下ろす位置に広がる、古い日本家屋の群れ。麗しい町並みが織りなす情景。

 町内へといざなう下り坂が、市道から幾つか伸びている。おおよそ今時の車幅向けではない狭さだ。

 その緩やかな曲線を描いた小道に挟まれるようにして、背を見せている一軒の家。広い背中の二階部分には、目の様な窓が二つ。その位置は、丁度市道と同じ位の高さだ。

 闇が口を開けたように、年数を経た木枠に縁取られている、左側の窓。いや、あれは、穴だ。

 風が、吹き抜けて行く。片側に寄せて結ばれた彼女の長い髪、その表面が吹き流されていく。ドクリと強く打った鼓動の音さえさらわれていくようだ。彼女の視線はたじろがなかった。

 息を忘れたように身動きさえしない。その先には……、ああ、幻燈に映し出された、宵待ちの影絵。昨日見たと同じ姿が、そこにはあった。

 我を忘れて立ち尽くす。窓枠に横に腰掛けて、片足の先を対面の角に掛け、片足は外にぶら下げて、片肘を折り曲げた足に乗せて本を持ち、片腕はそれと組むように。機能と同じ姿。相手との距離は五十メートルもあるだろうか。手が届くようで、けれど声が届くとは思われない程、遠いようにも感じられる。

 一心に見詰めていては相手が気付くかもしれない。それは当然のことであるにも拘らず、彼女の足はその場から動こうとはしない。気付いて欲しいのか。あの子に気付いている自分に、気付いて欲しいのだ、と。

 けれど彼は昨夕と同じく、灯りも無い中で文庫本を読んでいる。その集中した姿は、そこにある生きた世界には、まるで無関心かのように莢子の目には映った。

 虫が、集まって来る。視界を過る幾つもの小さな影。心もとない街灯に引き寄せられてきたのだろうか。

 不意に、一匹の小さな甲虫が彼女の前髪に止まった。

 その瞬間、ビクリとして身が跳ねた。彼女は目覚めたばかりのようにパチクリと瞬きをする。その時になって、随分息を止めていたような胸苦しさを覚えた。

 一つ、肩を上下させて深く息をする。前髪に止まった甲虫を指先で摘まんで眺めた。

「知リタイ…。」

 突然の驚きが、莢子の身を再び跳ねさせた。その緊張は虫にも伝わり、彼女の指先から、また周囲からも逃げ去らせてしまう。

 誰の、声っ。

 窓際の彼が、話しかけたとでも言うのだろうか。彼女は見開いた眼差しで相手を刺した。

 瞬間、ハッと息を呑む音が喉から立ってしまった。それ程の衝撃が彼女を襲った。影が、闇の口を背に、こちらを見ていた。

 彼が、視線を、返している。

 胸が詰まって、息が出来ない。莢子は喘ぐように浅い息を微かに繰り返した。痺れたように動かない体。身を凌駕する感情は、期待か、恐怖か。

 知リタイ。

 目の前の影は、まるで口を動かさないで問い掛けているようだ。それでも驚くほど耳元で声がするのは何故だろう、遮るものが微塵も無いかのように、直ぐ傍で。

 莢子は反射的に首を振った。けれど金縛りにでもあったように、ぎこちなくカクカクと左右に一度ずつ動かすのが精一杯だ。

 知リタイ。

 繰り返される質問は一つだけ。

 それ以外を尋ねてくれたら、きっと首を縦に振れた。だが、胸に渦巻く恐れが、決してそれをさせまいとする。

 それでも耳元の声が強制してくる。知りたいかと問われて、知りたいと返してしまいたくなるように。

 知リタイカ。

「こたえたら、駄目よ。」

金縛りを解いたのは、親友の声だった。

 莢子は突如思い出した、親友の忠告を。身の力を取り戻し、力強く息を吸う。

 要求から逃れるように身を翻す。頭の中に残る声を振り切るように駆け出した。同時に、戻って来たのはひぐらしの声。

 ああ、こんなにも鳴り響いていたのにっ。

 あたかも仕切られた別空間に閉じ込められていたようだ。周りの音が全く聞こえていなかった。それは全神経があの影絵だけに捕らえられていた為であろうか。

 逃ゲテ、逃ゲテ。

 背中を押してくれるのは、杉の影、蝉の声、それとも心の警鐘か。息が苦しくても、彼女は家の前に敷かれた坂道を、最後まで休むことなく上り切った。

 飛び込むように玄関戸を閉めると、当たり前の空間がそこにはあった。居間から届くテレビの音。台所から漂う夕飯の匂い。彼女が拭った額の汗は、夏の暑さがもたらしたものか、肝の冷えがもたらしたものか。

 知リタイ…。

 その声は、だが、安全圏へと逃げたはずの彼女の中で、何時までも繰り返されるようだった。

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