夏の宵に見る夢

君影抄

第1話

 夏休みが始まって、部活の為に学校に通うことが日常のサイクルになった。莢子さやこは何時ものように坂道を下りてバス停へと向かう。

 家を出ると、途端に蝉が声を高らかに歌い始めるような気がするのはどうしてか。単に音が直接鼓膜を震わせるからなのか、それとも彼女に対して精一杯の自己アピールを始めるからなのか。

 不意に、目の前を天道虫が過った。ちょっと寄り目になり、それから横に視線を流せば、虫は彼女の肩に止まった。その可愛らしさに、ふふ、と笑む。お供をしてくれるのは何時までだろう。

 きつい日差しに焼かれた緑の匂いが立ち込めている。特に広葉樹の中に紛れた松の匂いが、彼女にとっての夏の匂いだ。彼女の家の周囲はおおよそが緑で覆われていた。

 それで彼女は山中から抜け出て来たように坂道を下りて市道に姿を現した。道の反対側へ渡ると右に折れて、三分もしない内に何時ものバス停に着く。定刻から数分過ぎた頃、バスのエンジン音が曲がった道の奥から届き始めた。

「さあ、お別れ。」

 彼女は肩に留まり続けていた天道虫を、そっと指先に乗せ換えた。すると、虫は話が分かったように自ら羽ばたいて去って行った。

 プシューという音と共にバスの扉が開く。乗り込んでみても、お決まりの面々しかいない。彼女も例に漏れず、何時もの定席に腰を下ろせば、バスはのっそりと発車した。

 蝉の声がすっかり鼓膜に定着している。耳から離れない雑音は果たしてエンジン音か、外で大合唱している蝉の声か、それとも記憶の中のその声か。

 森の中を貫くような涼やかな木陰の道を抜けると、昔から続く町に出る。村と表現したくなるような懐かしさを今も留めている小さな町。純日本家屋の町並みは、今後もそのままであって欲しいと望んでしまう美しさがある。

 八の字に大きく開かれた黒瓦屋根。三角形をした妻壁には白い化粧が施されており、そこに格子状の飾りが施されている。年季の入った茶色くくすんだ様々な形の木材が、そうした装飾や屋根の基礎、また白壁以外の外壁と窓枠とを組み立てている。一軒一軒に差異はあったが、おおよそがこのような仕様となっていた。

 この町に入った直ぐの所にも停留所がある。その為に残された木なのか、それともその為に植えられた木なのか、バス停の看板の左後ろには目印に丁度良い木が一本生えている。太陽により出来たその木陰を見れば、待ち人に日除けを提供する為のもののようだと思えた。

 この停留所からも夏休み特有のお馴染みの面子が乗り込むと、バスは再び動き出す。姿の見えない神社を右手の傾斜上に臨みながら、ゆっくりと町を過ぎて行った。


 美術室の前に到着してみれば何事か、彼女を迎えたのは中から響く甲高い悲鳴だった。

 着いた早々呆気にとられながら入り口戸を引こうとしたところ、逆に中から人が飛び出してきた。

「きゃあっ。」

あわや衝突。

 しかし、寸でのところでひらりと相手をかわした莢子は、入口から離れ、廊下の窓から室内を窺うことにした。硝子の窓は引いてあったので、内部の空気すら感じることが出来る。

「蜂よ、蜂っ。」

状況を窺うまでもなく、出て来た部員らに訳を明かされてしまう。

「あの大きい蜂、何蜂なのっ。」

 スズメバチ、クマンバチ、意外にもミツバチじゃないのとまで、片っ端から知っている名前を列挙する面々。みな口々に推定し合ってふためいている。

 ほとんどの部員が出て来ている中で、だが一人、勇敢にも室内にまだ留まっている女生徒がいた。

「みみっ、あんたも早く来なよっ。」

危ないよとの声を掛けるのは、入り口にするたむろする部員達だ。だが、彼女は呑気に「大丈夫だから」と答え、中から莢子と目を合わせた。

「さ~こ、おはよう。」

時は昼の一時になろうとしているが、一日の中で顔を合わせたその時が「おはよう」なのである。皆の心配を余所に、呑気な彼女は莢子に向かって軽やかに挨拶してきた。

 お互いは小学校来の親友だ。莢子は軽く手を上げて向けられた挨拶に返した。それから、屯っている入り口からではなく、虫を追い出す為に開け放たれた窓をおもむろに乗り越え始める。左右の入口は部員らが屯していて邪魔だったからだ。

「あ、ちょっ、さやっ。」

 意外な行動に部員達が声を上げる。制止するよう呼び掛けるも、彼女は全く取り合わない。彼女も親友と同じで呑気者ということだろうか。

 親友の許へと進む莢子に、その相手は平然と変わったことを言った。

「さ~こ、あの蜂に出て行くように言ってもらえない。この部屋の中に気になる匂いがあるみたいで、中々出て行ってくれないのよねぇ。」

 二人のことを入り口からハラハラと見守っていた部員達は眉をひそめる。「ちょっと、何言ってんのよっ。早く出て来てったらっ」、そう急かす声もするし、「アンタ男でしょ、行きなさいよっ」と、男性にしてみれば差別的な声もする。「私、殺虫剤ないか先生に聞いて来るっ」、そう言って飛び出した子もあった。

「わわ、早く。」

 この状況に焦って莢子を急かしたのは親友だ。勿論、二人してこの場から退避する為のものではない。

 莢子は外窓の方へ身を寄せると、教室の中央、天井付近で円を描きながら飛行していた蜂に目を向けた。

「ほら、こっちだよ。もう行かないと。」

 蜂の羽音が頭蓋骨の中で反響する。外からは蝉の合唱。廊下からは部員らのざわめき。音の洪水に呑み込まれて、目眩が起きそう。

「もう、行かないと……。」

声が、声がする……。オイデ……、オイデ……。だから、行かないと……。

「さ~こっ。」

 ハッと目が覚めた。親友の心配そうな顔が目前にあった。

「大丈夫。」

気遣わしげに窺うような瞳で問われる。莢子は安心させるように微笑んで見せた。

「ちょっと~、どうして~っ。どうやったの~っ。」

 彼女を本格的に我に返したのは、部員達の驚きの声だった。安全がもたらす賑やかさが美術室内に戻ってきた。

「すごいじゃない」と讃える声。「面目丸潰れね」と、男子部員を揶揄する声。「あ~、良かった」と、安堵する声。

 蜂は穏やかに去って行った。教室の中に響くそれらは、日常が正しく戻ってきたことを実感させた。


 家に戻っても、することと言えば勉強くらいだ。さしたる趣味も無い莢子は部活時間を過ぎても学校に残り、今日は絵を描き続けた。

 その後、彼女と共に残ってくれた、親友の「みみ」ことみどりと共に、特に何があるでもない駅までの道をぶらついて、お喋りをした。二時間も暇を潰せば、空が裾から赤く焼け始めるようだった。

「あ~、時間って、あっという間に過ぎちゃうのよねぇ。」

「ほら、翠のバスが来たよ。」

「え~、もう~。」

 そのバスは途中までの行程は同じものの、莢子の住む町へは行けない。二人は同じ小学校ではあったものの、どの路線を利用しても、お互いの家まで同じバスには乗れなかった。

「私もそっちのバスに乗っちゃおうかなぁ。」

 プシューと昇降口が開く。

「そんなことしたら、郵便局前から何時間歩く羽目になると思ってんのよ。」

と、呆れを含ませて莢子が笑う。

「でも、今日は一緒に帰りたいな。」

 何時になく駄々をこねる親友に、おやと思ったものの、諭すように背中を押してバスに乗り込ませる。

「翠が悪い人に捕まったら、私が困るでしょ。」

 抵抗するように振り返りながら嫌々バスに上がる親友が、この言葉に対し異議を唱えた。

「さ~こが捕まったら、私が泣くんだからね。」

 だが、親友の訴えも虚しく、バスの扉は二人を別けた。

 去りゆく交通機関。見送る莢子。彼女が振る手を下ろしても、翠は何時までも車窓から親友のことを見詰め返していた。


 暮れなずむ町の中、バスは前照灯を点けながら揺れている。停留所に止まる度、一人、二人と減っていく。誰も喋ってはいないのに、それでも車内がざわめいているように感じるのは、バスのエンジン音のせいなのか、それとも、まだ鎮まらない蝉の声のせいなのか。

 来た道を丁寧に辿るようにして進むバス。青草の絨毯の様な棚田を抜けると、左に曲がる道。緩い坂を重たげに上っていく。

 そろそろ、或る日本家屋が右手に見えてくる頃だ。それは密集したこの集落にあって、莢子にとっての象徴的な建物となっている。

 行きとは逆に、左手奥に神社が、右手には停留所が見えてくる。バスに揺られながら、彼女は何気なくその家屋に目を向けた。

 市道側に、のっぺりとした背を向けている。年代を経た、塗り直されていない木材は、夕日の落ちた仄暗さに馴染んでいる。

 格子状に飾りが施された、三角形の白壁部分。矢切りと呼ばれる、その漆喰塗りの壁下には、二階の窓が二つ設けられている。家が顔だとすれば、下屋げやに乗っかった二つの窓は、両目のようではないか。

 理由もなく彼女があの家を気にし始めたのは、小学校の何時からか本人にも覚えがない。もしかして何時の間にか無人の家になっていたのだろうか、木枠に切り取られたそのガラス窓には、何故かカーテンがなかった。だから黄昏時にあって、まるで闇が口を開けたように、窓枠の中は奥深く見えた。

 左の窓は、開いていた。

 ハッと息を呑む。額縁のような窓枠、闇を背景に浮かび上がっているのは……、人影か。

 夕焼けが地平線に呑み込まれつつある。群青が己の衣を広げて押し迫っている。そうした残り火の寂しい明かりが、家屋を眠りに就いた物言わぬ影だけに変えていく。

 けれど、どうしてだろう。窓枠を己の身で縁取るように横向いて座っているその人影は、まるで火の粉を被ったように輪郭が仄かに輝いている。そして、何ものにも影響されないかのように、小さな本を読んでいた。

 誰の故郷でもないのに、故郷だと感じさせる景色、伝統的な日本家屋、建物を暗い影にする夕焼け。

 燃え尽きようとしているその情熱と、密やかな強い思いを燐紛のように身に纏い、暗闇の中に浮かび上がった人影と。時代と時間を閉じ込めたような、幻燈が映し出した芸術、影絵。その情景は、深く心に染み入る程、余りにも美しかった。

 窓枠に腰かける彼。消えゆく日のともしびを背負う家屋。蝉の声に浸食された世界。あらゆるものの境を曖昧にする、 逢魔が時の特有の明度。去りゆく交通機関。景色を見送るだけの彼女。

 何時までも感動していたくて、莢子は見え得る限り首を伸ばし、その情景を見詰め続けようとした。

 この停留所で降りる者は誰もいない。彼女は立ち止まることを許されずに運ばれて行くしかない。その姿はあたかも、先程分かれた親友のそれと重なるようだ。

 ソラ、捕マッタ。

 反響する蝉の声に掻き消され、彼女の耳には聞こえなかった。

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