序章_2 そして、少年は更に悪魔を従えた

 アルバントにとってまともな睡眠というものは久々のものであった。

 抑うつと絶望感、どこからくるのかも分からない焦燥感と諦観。それらが支配する思考は、容易に眠るという行為を許してはくれなかった。

 だからこそ、目を開けて、やわらかな木漏れ日を顔に受けると、すっきりとした思考に気づき、自分は寝ていたのだと気づくことができた。


「……ここは、森の中のようだね」


 辺りを見渡せば、さんさんと日の光を受け、木々がゆらりとさざめいていた。

 体を動かそうとして気づく。右手をみると、黒の革と金字で装丁された本を抱えていた。ロバイドを召喚するための魔術書だ。


「そういえば、ロバイドは——」

「目覚めたか、主よ」


 声のした方を見ると、ロバイドが木の裏から回って現れた。

 しかし、その姿は家にいた時とは違う点があった。


「ロバイド、何故人間の姿になっているんだい?」


 大鷲を思わせる鋭い目、燕尾服の上からでもわかる逞しい体格。

 面影こそ残っているが、あの悪魔としての高貴な姿ではなく、主人に仕える執事のような姿へと変貌していた。


「これよりしばらくの旅路となろう。そこで私があの姿ではいらぬ騒ぎを起こす」

「けれど、そう長い旅でもないんだろうし、わざわざ他の人間に気を配る必要はあるのかな」

「そうでなければ、騒ぎを聞きつけた愚者が主の行く手を何度も遮ることになるだろう。主はそのような面倒は好きであっただろうか」


 アルバントはゆるゆると首を横に振った。


「姿を変えてくれてありがとう。確かに僕は面倒ごとが嫌いだね。それも、どうでもいい人に邪魔されるのはとても」

「重畳。……さて、旅の前にひとつ、主に会わせたい者がいる」


「会わせたい者?」とアルバントが反芻する。

 ロバイドは頷く。


「是非に、と言ってきかぬものでな」


 彼はそう言って一本の木に顔を向ける。

 すると、そこから、何かがするりと現れた。

 今様色の蓮華を頭に差し、猫の目で笑う女。人の形をしつつもその脚は駝鳥であり、三本ある腕の一本、右肩から生える腕は干からびたようにしわがれていた。

 一目見て分かる。悪魔だ。

 彼女はアルバント、ロバイドに目を向け優雅に一礼した。


「お初にお目にかかり光栄ですわ、“高貴を従えし者サタニティア”。わたくしは名をネツァと申します」


 そして、顔を上げた彼女は猫の目を細める。


「本当に、なんとお美しいのでしょう。大鷲の君のお誘いがなければ、わたくしは一生の後悔を抱いていたかもしれませんわ」

「何のことかは分からないけど、どうも、と言っておくよ。それで、話を聞くにロバイドが喚んだようだけど、どうしてだい?」


 ロバイドに目を向けると彼は頷いて返す。


「主の傷を癒すために喚びつけたのだ」

「ああ……そういうことか」


 言われて体を見れば、服の損傷はそのままであるが、体の傷はその細部に至るまで塞がっていた。

 ロバイドを召喚するために傷つけた体のままではなるほど、確かに友達探しなどできるとは思えない。


「ありがとう、どうやら手間をかけさせたみたいだね」

「滅相もありませんわ。わたくしこそ、大鷲の君を通じて莫大な対価を頂きますから、喜びの限りですわ」


「対価?」と、またロバイドに目を向ける。


「如何様な生物とて善意で動く者は稀であろう。故に先ほどの契約で拝領した対価を餌にしたのだ」


 そう言って取り出したのは真紅の液体に満たされた小瓶。

 それを見て「なるほど」とアルバントは相槌を打った。

 ロバイドが小瓶をネツァへと放ると、彼女は猫さながらの動作で小瓶に飛びつき、愛でるように頬に摺り寄せる。


「悪魔にとって、血と魂は貴重な糧。大鷲の君も意地が悪いですわ。久々に連絡を寄こしたから来てみれば、このようなものをちらつかせるんですもの。悪魔だったら誰だって飛びつきますわ。もっとも、貴方様を一目見てしまえば何もなくても貴方様につくしたでしょうけど」

「ふうん。悪魔っていうのはなんというか、燃費がいいんだね。そんなちょっとした血で喜ぶなんて」


 だとしたら、ロバイドの召喚のために用意した供物は相当過剰だったかもしれない。

 そんなアルバントの思考を読み取ったのか、ロバイドが答える。


「誤りを正させてもらうが、小瓶で済むのは主であるからだ。並みの人間であれば、その魂ひとつとて些細な対価にしかならないだろう」

「ああ……君の言う格ってやつかい?」


 アルバント自身自覚のない高潔な格というもの。知らないものをあれこれ称賛されたところで嬉しいことは何もないが。

 もしかしたら、顔を歪めていたのかもしれない。ロバイドが答える。


「されど、だからこそ貴殿は今も生き長らえたと言えるかもしれない」

「なるほど。なら、今だけはこの体に感謝しようかな」


 この体でなければこれほど苦労することもなかったのに、という言葉は内に秘めて。


「それで、その……実は貴方様にお申し入れ頂きたいお話がありますの」


 おずおずとネツァが話に入り込む。

「なんだい?」とアルバントが目を向ければ、彼女は神妙な顔つきになっていた。


「どうか、わたくしも大鷲の君と同様、契約を交わしては頂けませんか?」


「別に構わないけど」と特に考えることなく答えを返す。

 しかし、それに待ったをかけるようにロバイドが口を開いた。


「良いのか、主よ」

「良くない理由でもあるのかい? 生憎と僕はそのあたりは詳しくなくてね。君を喚びだしてしまえば終わりだと思っていたから」


 事実、悪魔を従えることなんて考えてもいなかった。友達になって終わりと考えていたのだから、それ以上に詳しいことは分からない。


「悪魔はあらゆる契約において対価を求める。その対価は契約の期間が長く渡るほど重くなっていく。故に、悪魔との契約を重ねるほどに契約者の負担は増していく。……そして、悪魔はその多くが狡猾だ。契約の際は対価に目を凝らさねばならない」

「それじゃあ、僕は悪魔にとって格好の獲物ってことだね」


 そう言ってネツァに視線を向けると、彼女は「滅相もありませんわ」と慌てたように首を振る。


「それができるのは無力で無知な愚者のみですの。大鷲の君がいて、貴方様がお相手では、わたくしも正当な対価を求めるしかありませんわ」


 それでも譲歩することなく正当な対価を求めるのは彼らなりの意地なのだろうか。


「ちなみに君が求める対価と契約の内容は?」


 もともと深く聞かずに手早く契約しようと考えていたが、会話が長引いたこともあり、アルバントは聞くことにした。


「今の時代はわたくしたちにとっては飢えとの争いの日々。魔術文明が廃れた地球では悪魔の存在すら懐疑とする人間が跋扈するようになりました。そのため、わたくしたちは満足に糧を得ることも難しくなっていったのです。ですが、飢えを恐れるころには、異世界に旅立つことも難しいほどに消耗しており……今回も、大鷲の君のご厚意で来させていただきましたの。貴方様から頂いた小瓶は正に砂漠でみつけたオアシス。それも、とても甘露」


 そこまで述べてから、ネツァは祈るように両手を胸のあたりにあてる。


「ですから、わたくしは貴方様と契約を交わしたく思うのですわ。わたくしは、わたくしの職能の許す限りにおいて貴方様に尽くしますわ。その対価として、10日に一度、この小瓶と同等の血を頂けませんこと?」


 アルバントはほんの少しだけ考える素振りを見せるが、すぐに頷く。


「構わないよ、そんな程度で済むなら。元々、君を拒む理由もなかったし、考えてみれば、君の力は有用かもしれない」


 そう言うと、ネツァの顔が輝く。


「それで、僕はどうすればいいんだい? ロバイドの時は、彼に任せきりだったからね」

「ええ、何のお手も煩わせませんわ。供物も、そうですわね、この小瓶を供物としてしまいましょう」


「なんて豪華な供物」と揶揄うような声で呟いた後、ネツァは小瓶を握り、割った。

 辺りに飛び散った血は地面に落ちるのではなく、不自然にネツァの周りを浮く。そして、ネツァが何事かを呟くと、供物は彼女の体に吸収された。

 ほう、と満足そうな声を上げたネツァは、意識を戻すと優雅にカーテシーをみせた。


「改めましてご挨拶させていただきますわ。わたくしは伯爵階級、“あらゆる病と傷を癒し、あらゆる人の情を惑わす職能”を持つ悪魔、その名はネツァと申します。新たなるご主人様に花束を。愛しき“高貴を従えし者サタニティア”へ求められる限りの愛を捧げますわ」

「よろしく、ネツァ。僕はアルバント。満足に友達のひとりもできない君たちの主だ。君も、ロバイドも、頼りにしているよ」


「勿論ですわ」とネツァは恍惚とした声で返す。

 契約が成ったことが嬉しかったのか、供物の味に脳が蕩けているのか、いずれにせよネツァはアルバントの僕の一体となった。


「ちなみに、今更聞くのも変だし、意味はないだろうけど、君は僕と友達にはなれそうかい?」

「それは……申し訳ございませんわ、ご主人様。わたくしも、各は大鷲の君と同等でしょう。返答は彼と同じものになってしまいますの」

「そっか。いや、いいよ、僕も一縷の望みに縋っていただけだから」


 ありえないと思っていても、思わず聞きたくなってしまう。それはもうどうしようもないことなのだろう。

 我ながら、すっかり卑屈になってしまったとアルバントは内心で笑う。

 そして、雑念を払うように首を振り、「それじゃあ、そろそろ行こうか?」と話題に戻す。

 ロバイドは頷き、ネツァは笑みを返した。

 アルバントも頷く。

 そうして、彼らは一歩目を踏み出した。

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