そして、僕は心臓を差し出した

雨草悠々亭

序章 少年が旅立つ日

序章_1 そして、少年は悪魔と契約を交わした

 なんてことはない。少し、気を可笑しくしただけなのだ。

 床に手をつけば、グチャリとした感触が伝わる。

 呼吸をすれば嫌でも生臭さが鼻をつく。

 それでも少年は笑っていた。

 気を可笑しくしたかっただけなのかもしれない。

 ただ、この目で異常を見たかっただけだったのかもしれない。


 夜の静けさは心を寂しくさせる。

 こんな日には少し間でいい、誰かと話がしたかった。暇潰しだなんて言って他愛も無い笑い話をして。

 それすらも少年には叶わない事で。


 だから。


 友達が欲しかった。分け隔てなく接してくれる友人が。しかし、世界は少年の意思を見限るかのように逆へ逆へと進んだ。

 努力もした。この世界に適合しようとした。しかし、駄目だった。

 ぷっつりとすべてがどうでも良くなってしまったのは何時からだっただろうか。

 世界が平坦になり、生きる事の価値を感じなくなったのは、人間が人間に見えなくなったのは何時からだっただろうか。

 …………。

 まぁ、そんなこと、どうでもいいのだろう。どうでもいいのだ。

 これで終わり。終わってしまうのだから。


 逆三角形の魔術円の真ん中。

 そこに佇む大鷲の顔と猿の手、蜥蜴の尻尾を持ちながらも人の姿をした高貴なる存在。


「……貴殿が、私を呼んだのか」


 少年はえもいえぬ興奮に襲われていた。夢のような出来事に特別感を抱けていた。今日ほどにこの世界に色が見えた日も早々ない。


「ああ、そうだよ」


 声は震えていた。

 鮮血に染まった手を大鷲の悪魔へと伸ばす。


「さぁ、契約を交わそう」


 神だとか、天使だとか、そんな神々しい存在は少年には合わなかった。絶え間ない祈りもうんざりだった。少年は神の恩恵に肖りたいのではない。天使の慈悲に恵まれたいのではない。

 対等でありたかった。

 友達になりたかった。


「血と肉とに繋がれた醜い契約を交わそう。この供物を引き換えに、永久に続く繋がりを共にしよう」


 名の無い悪魔は少年が差し伸べる手を見詰める。


「……それが貴殿の供物か。そして、それが貴殿の望みか」

「そうだよ。なんでもない、誰でも出来るはずの簡単な望みだろう? きっと君は馬鹿にするだろうけど、僕にとっては何よりも真剣なことなんだ」


 笑うなら笑ってくれていい。くだらない事だと唾棄してくれても構わない。それでも少年が求めるのは、悪魔を喚んでさえ望むのは、何でもない当たり前の関係。


「ひとつ、尋ねよう。何故悪魔を共に選ぼうとする? この矮小な世界とて、多くの人間が生きている。貴殿が望むならば、私は人間を友とする術を授けよう」

「それは、もううんざりなんだ。人間には。誰だって僕を僕として見ようとしない。近づくほどに離れていき、かと思えば近寄ってくるのは僕という人間の価値を利用しようとする愚図らばかり。もう僕は人間の友達はいらない。神だとか天使だとか、そんな眩いほどの恩寵だって欲しくない。ただ、契約で縛ることになっても、僕は君たちの精神性に打たれ、友達になりたいと望むことになったんだ」


 何一つとして偽りのない言葉。

 契約に縛られた関係を友と表現して良いのか、という指摘があるのは少年自身分かっていた。それでも、少年にはそれしか思いつかなかった。

 悪魔にとって自分がどのような価値を持っているのかは分からない。もし、喚び出したとして、契約なしに迫れば離れていく可能性とてあったのだから。

 少年の返答を受け、悪魔はしばし沈黙し、やがてその大鷲の口を開く。


「その望みに応えるには、格に差が過ぎる」


 そう言われて、結局悪魔も同じなのかと少年は視界を暗くする。あまりに辛くて、苦しくて、血の涙が零れそうになるほどだった。

 格に差がある。ならば、少年が人である限りやはり異形のものと関係を結ぶことなんてできないということなのだろうか。

 その思考を文字通り読んだのか、悪魔が続けて言った。


「あまりに……貴殿の格が高すぎるのだ。その格とこの供物では、どう調えたとて、私は貴殿を主と仰ぐ他ない」

「なら、なら、君と僕が友達となれるほどに供物を下げれば——」

「貴殿の血が、存在が、既に私を上回っているのだ」


 笑ってしまうような話だった。

 自分の格が上? だから友達になれない? ふざけた話だ。

 一体少年の何がこの高貴なる存在よりも上だというのか。

 一体何故、友達すらもできなかった自分がこの存在よりも高貴と言えるのか。


「はは、ははははははっ!!」


 笑ってしまうような話だ。本当に。

 悪魔も大して融通が利かないと思った瞬間だった。供物が豪華過ぎて下手な対価を出すことが出来ないなんて、そんなこと、そっちで決めることではないというのに、と。


「だから、尋ねたのだ。私が貴殿の友とならずとも、貴殿が人間の友を望むならば——」

「それじゃあ、駄目なんだ。さっきも言ったように、もう、僕は人間には散々な思いを抱いているんだ。洗脳してまで人間の友達ができても、僕はまったく嬉しくない」


 きっと、時間が経てば。周りの空気に馴染んでいけばと期待していた頃が懐かしい。

 自分がアピールすればと思っていた頃が愛おしい。

 結局、何一つ実にならなかったというのに。

 いや、強欲な腐った果実なら幾つも出来た。優しい態度で近づいて、漸くと思えば金だのテストの点だの女だの。

 結局少年のことなど眼中に無かったのだろう。

 だから、彼らは今、供物の一つとして挽肉になってしまった。

 まぁ、そんなことはどうでもいい。どうでもいいのだ。

 望みが叶わない。

 少年が求める望みだけが叶わない。そのお陰で、いつになく少年は笑った。この世界に諦観するように。

 当然だ、当然なのだ。どれほど、どれほどこの望みが叶うのか待ち望んでいたというのに!

 狂った様に悲しみの笑い声を上げる少年を悪魔はどんな目で見ていたのだろうか。

 大鷲の悪魔の視線を受けながらそれでも少年は笑って、笑い続けて。

 だらしなく涎を垂れ流す程に笑った少年はその悪魔に求めた。


「それなら、もう、いい。求めるのは一つ。僕を、殺してくれ」


 もう、いい、と。散々だ、こんな世界は、と。

 もうこの世界で生きることは出来ない。そんな窮屈なことは、もうしたくない。

 少年の願いは今、たったひとつになった。

 それに対して悪魔がまた問う。


「その、対価は」


 躊躇う時間なんかなかった。嬉々とした表情で少年は自分の胸を叩いて見せた。


「素晴らしいものさ。心臓を、僕の心臓を差し出そう」


 少年の格が高いとほざくなら、自身を殺すに値する供物は少年自身だ。

 これを断られれば少年はもうどうしようもなくなる。

 だから少年は嬉々として、そして狂気じみた不安を見せて悪魔を見詰めた。


「……承諾しよう」


 その言葉に少年は狂喜する。

「さぁ!」と、最早痛みを忘れた体を悪魔にすり寄せる。その手に触れるために、この命を終わらせるために。一刻も早くこの世界と縁を切るために。

 しかし、悪魔は少年の手が悪魔に触れる寸前に声を発した。


「されど、再び尋ねよう。もし、貴殿の望みに一縷の希望があるとしたらどうする」


 少年の手が止まる。

 僕の望みが叶う? 友達を得られる?

 悪魔に掴みかかるのは当然のことだった。


「そ、れは。それはどうやって。どうやって、だって!」

「容易なことだ。より高位の存在に喚びかければ良い。貴殿の供物をもってしても対等な友として契約できるだけの高位の存在を」

「なら、それは誰なんだい!? 誰を、どうやって、どれほどにすれば……!」


 高貴なる者はゆるりと首を振った。


「この世界ではもはや邂逅は果たせぬ。正統な悪魔召喚の儀も廃れ久しく、悪魔の食い扶持を繋ぐほどの供物はこの世界ではまるで得られない。数多の悪魔はこの世界を見限り、他の世界へと餌を求めた。今この世界にいるのは決まって約定に縛られた者か、偏食な好事家のみだ」

「別にこの世界で友達が欲しい訳じゃあない。この世界に拘りなんてない。他の場所にいるというなら、僕は喜んでそこへ行くさ。だって、連れていってくれるんだろう?」


 むしろ、きっと、少年と対等でいてくれるものはこの世界にいない。言ってみれば、少年には不要の場所だ。居場所もない所にいたいとも思わない。


「……貴殿が望み、私との契約を果たすなら。貴殿がその心臓を然るべき者に差し出すまで待つならば」


 少年は喜色に溢れた笑みを見せた。


「勿論」

「なれば、是非もなし。私は盲目に従おう」


 大鷲の悪魔が指揮棒(タクト)を構えるように両手を広げると、辺りに散った血が、供物が、悪魔へと吸われていく。そして、一切すべてが綺麗さっぱりになった時に、悪魔が気品を感じさせる所作で少年の前に跪く。


「契約は為った。今この時をもって私は貴殿の下僕となる。私は伯爵階級、“智を備え、あらゆる位置を把握し、あらゆる過去を見通す”職能を持つ者。名をロバイド。新たなる主に栄光あれ。“高貴を従えし者サタニティア”へ盲目の愛を」

「ああ……よろしく、よろしくね、ロバイド。僕は……僕は、神代愛灯いとだった者。でも、他の世界に行くのなら、この世界の名前もいらないかな。そうだ、折角だから、君が僕の名前を決めてくれるかい?」


 その言葉にロバイドが面食らったような気がする。

 ……不思議だ。顔は大鷲だというのに、感情が分かりやすい。


「……それは命か?」

「そうだね、じゃあ命令にしようか」

「……謹んで拝命しよう」


 そして、一瞬悩んだ素振りを見せたロバイドはすぐに口を開いた。


「ならば、主よ。アルバントと名乗られよ」

「アルバントだね。なら、これからはそう名乗ろう。僕の名はアルバント。君の主でありこの世界に諦観したどうしようもやつさ」


 少年はロバイドへと手を差し出す。


「さぁ、長口上も飽きてきただろう? 早く行こう。僕の友達がいるかもしれない場所へ」


 ロバイドが恭しく少年の手を取る。


「御意に」


 そして、空間のねじれを感じたところで少年の意識は暗闇へと落ちた。

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