番外編

狐狼になった日

 朝起きると、自分の手が獣の前足になっていた。

 猫……じゃないな。爪の出し入れができないし、形からして犬とか狼とか、そういった獣のものだ。


 身体を起こしてみる。身体をぶるぶると震わせて重ねた毛布から逃れると、寝間着が上着だけ引っかかっていた。ぶかぶかだが、一応前足に袖が通っている。歩いたら、絶対に引きずるな。

 なんで、俺が獣に?


「クゥン?」


 思考を呟いてみたが、それは言葉にならず、犬のような声に変わった。

 人間の言葉もしゃべれないのか。これは本気でまずいな。

 考えてみるが、答えが見つからない。いくら狐狼族ころうぞくだからといって、月に一度だけ獣の姿に戻るとか、そんな特異体質の話は聞いたことがない。とはいえ、朝起きたら虫になっているよりはマシ……なのか?


 しかし、困った。隣の部屋にいるはずのオデットは鼻が利かないから、俺を見てもイリヤだと気づかないだろう。

 いきなり自分の住んでいる家に見知らぬ獣がいたら、混乱状態に陥ってもおかしくない。普段のオデットなら生き物相手にそんなことはしないが、半狂乱になったあいつの魔法で攻撃されたら命に関わる。


 とりあえず、オデットに見つからないように一階に下りて、家を出よう。団員の中には獣の言葉が分かる恩寵を持っている者もいる。あいつなら、俺がイリヤだと分かってくれるはずだ。


 寝台を飛び下りた俺は袖を引きずりながら、扉の前に座った。四つ足で歩くのは妙な感覚だ。うしろ足で立ち上がりドアノブを前足でいじると、扉は呆気なく開く。鍵をかけていなくてよかった。


 廊下に出る。階段を目指して、足音を立てぬように歩いていると、隣室の扉が開いた。

 まずい。

 扉の前を走り抜けようと身構える。


 部屋の中からひょっこりとオデットが姿を現した。見上げると目が合う。いつもは見下ろしてばかりだから、不思議な感覚だ。

 愛しい緑の瞳に見つめられたからだろうか。あろうことか、一瞬、俺は固まってしまった。

 オデットも固まっている。


「狼……さん?」


 そうか。俺は今、狼になっているのか。

 いや、そんな悠長なことを考えている暇はない。逃げるぞ。

 駆け出そうとしたが、前足を覆う袖が邪魔でうまく走れない。絶体絶命だ。

 その時、オデットがしゃがみ込んで目線を合わせ、こちらに声をかけてきた。


「その服、イリヤさんの……?」


 それから、俺をじっと見つめる。


「その毛色……もしかして、イリヤさん……?」


 気づいたのか? 女は勘がいいというが、鋭すぎるだろ。

 立ち上がったオデットは俺の部屋の前まで歩いていくと、扉を開けて中を確認した。


「いない……やっぱり、あなたがイリヤさんなのですね」


 そうだ。


「ワオン」


 ……我ながら間抜けだ。

 まあ、いい。幸いなことにオデットは気づいてくれた。元の姿に戻れないか、二、三日、様子を見てみるとしよう。そう決めた俺は、とりあえず、この邪魔な上着を脱がしてもらえるように頼むことにした。前足を上げて訴える。


「キューン、キューン」


 オデットは首をかしげた。


「お腹が空いたのですか?」


 違う。服を脱がしてくれ。


「キュゥゥン」

「あ、もしかして、服が邪魔なのですか?」

「ワン!」

「ちょっと待ってくださいね」


 オデットは俺の上着を頭から引き抜くと、足を片方ずつ持って袖を引っこ抜いた。

 うん、なんだかすっきりした。

 オデットは俺の頭を撫でる。くすぐったいな。


「どうしてイリヤさんが狼の姿になってしまったのでしょうね。あ、姿見でご自分を見てみます?」


 オデットは彼女の部屋に俺を手招いた。家にひとつしかない姿見は、今や彼女の所有物なのだ。

 部屋に入り、姿見に自分を映してみる。


 狐のような少し大きめの耳をした、体格がいい狼がそこにいた。毛色は耳と尻尾の先端が黒い以外は全て銀色だ。瞳の色は元の姿と同じ金色。目つきは鋭く、人の姿だった頃の面影がある。

 これが狐狼か。初めて見るな。

 じーっと自分の姿を見つめていると、オデットがほほえんだ。


「朝食にしましょうか」


 そうしてくれ。なんだか朝から色々と疲れたから、せめて腹一杯になりたい。

 二人で階下に下りる。人間だった時はなんでもなかったが、この姿だと階段を下りるには慎重さが求められた。それに、爪が床に当たるカチャカチャした音がうるさい。やっと最後の一段に辿りついたので、鬱憤を晴らすように飛び下りる。


 オデットはそんな俺の様子をにこにこしながら眺めていたが、思い出したように台所へ向かった。

 食べ物を料理するいい匂いが漂う。やがて、台所から戻ってきたオデットが皿を俺の前に置く。肉と野菜入りの麦粥だ。

 うまそうだ。さっそく食べようとすると、オデットが皿を引いた。


「お座り」


 反射的に俺はいずまいを正してしまった。オデットは掌を差し出す。


「お手」


 なんで俺が犬みたいに媚びなきゃならんのだ。ツンとそっぽを向くと、オデットが「あら、いらないのですか?」と半笑いで訊いてきやがる。

 俺はムカムカしながらオデットの掌の上に右前足を置いた。……あとで見てろよ。

 オデットは再び皿を俺の前に置いた。


「いい子ですね。ほら、食べていいですよ」


「おかわり」とか言われなくてよかった。あっという間に飯を平らげてしまうと、眠くなってくる。いつもなら、これからオデットの訓練をするんだが。この姿ではそれもかなわんし、どうするかな……。

 同じく朝食を食べ終わったオデットが、食器を台所に持っていったあと、居間に戻ってきた。手には動物の骨を持っている。この匂い──豚か?


「イリヤさん、遊びましょう」


 オデットの持つ骨の匂いに惹かれ、あとをついていくと庭に出た。オデットが振りかぶって骨を投げる。


「ほーら、取ってきてください、イリヤさん」


 ふざけるな。そう言ってやりたいところだが、投げられたものを捕まえたいという本能には逆らえない。骨は魅力的だしな。駆け出した俺は空中で骨を捕らえた。


「イリヤさん、すごい!」


 このまま骨にかじりついてもよかったんだが、拍手しているオデットにくわえた骨を渡す。


「あら、また投げて欲しいのですか?」


 別にそういうわけじゃない。お前が「取ってこい」と言ったんだろうが。

 オデットは輝くような笑顔で再び骨を投げる。俺は駆け出して骨を捕まえる。そんなことを三度ほど繰り返し、遊ぶのに飽きた俺は骨をがじがじとかじった。

 骨にも飽きた俺が船を漕ぎ始めると、オデットが身体を撫でてくれた。あまりにも気持ちよすぎて、つい腹を出してしまう。くすぐったいが、もって撫でて欲しい。


「イリヤさん、犬みたいで可愛い」


 その声に俺は我に返った。

 いかん、このままでは本当に犬になってしまう。

 その後、俺はオデットとともに家の中に入り、長椅子の上に乗った。オデットが自主練習をしている間は寝て過ごす。完全に犬そのものだが、これでも元に戻る方法を必死に考えているんだ。うう、睡魔が……。


 時間はあっという間に過ぎ、夕食の時間になる。非常に申し訳ないが、今日は毎食オデットに作ってもらった。今の俺は狐狼だから、食事は朝夕の二食だが。オデットは昔、犬を飼っていたようで、そういうところはきっちりしている。

 夕食を終えた俺が床の上で丸くなっていると、同じく食事を終えたらしいオデットが近づいてきた。しゃがみ込むと、俺の頭を撫でる。


「イリヤさん、もし、イリヤさんがこの姿のままでも、わたしはずっと一緒にいますから……安心してください」


 はっとして顔を上げる。そうだ。獣の姿のままでは、俺はオデットを抱きしめることも、剣や魔法で守ることもできない。寿命はどうなんだ? 孤狼の寿命では、あと二十年も生きられないだろう。


 それに、考えたくはないが、オデットが獣の俺に愛想を尽かして他の男を選ぶ可能性だってある。

 オデットはもっと先回りしてそのことを考えてくれていた。だから、「ずっと一緒にいる」と言ってくれたのだ。胸の奥から喉にかけて熱いものが込み上げる。


「クーン……」


 オデットに身体を擦り寄せる。オデットは俺を抱きしめると囁いた。


「今夜は一緒に寝ましょうか」


 あまりの衝撃に、俺は硬直した。

 ……いいのか? いや、今は狐狼の姿だから構わないのか。別にやましいことをするわけじゃない。添い寝するくらいなら……。


 オデットが入浴を終えるのをそわそわしながら待つ。

 やがて、丈の長い白い寝間着に着替えたオデットが居間に姿を現した。綺麗な身体の線が引き立っているし、風呂上がりだからか妙に色っぽいな。それに、いつにも増していい香りがする。


 こうして見ると、やっぱりオデットは可愛い。誰だ、普通だなんて言った奴は。……ヴァジームか。あいつめ、いつかはオデットを侮辱しやがって。また会う機会があったら、絶対に殴る。


「じゃあ、行きましょうか」


 にっこり笑うオデットのあとをついて階段を上る。下りるのと違って、上るのは楽だ。オデットの部屋に入る。扉を閉めたオデットは毛布をまくると寝台の奥に座った。


「どうぞ」


 胸を高鳴らせながら寝台に飛び乗り、オデットの隣で丸くなる。オデットが毛布をかけてくれた。ランプの明かりが消え、オデットが横になる気配がする。


「イリヤさん、ふかふか……それにあったかい」


 オデットが身体を撫でてくれる。その手の温もりに艶っぽい気持ちは霧散し、俺はとろんと寝入ってしまった。


   ◇


 朝起きると、手が人のものに戻っていた。指を握ったり伸ばしたりを何度か繰り返す。顔を触ってみると、つるつるで毛皮に覆われていない。

 元の姿に戻ったのだ。今すぐ姿見で確認したい欲求を抑え、隣で眠るオデットを起こすことにする。……昨夜は一緒に眠ったからな。何もしていないし、不可抗力だ。オデットはびっくりするだろうが。


「オデット、起きろ」

「んん……」


 身体を揺すって呼びかけると、オデットは眠たそうに目を開けた。しばらく瞬きをしてこちらを眺めていたが、やがて真っ赤になって縮こまる。


「イ、イリヤさん……」


 ちょっと困らせてやろう。昨日の意趣返しに、オデットの頬を撫でる。


「元の姿に戻った」

「そ、そうみたいですね」


 なんだか残念そうに見えるな。さまよっていたオデットの視線が俺の首から下に固定された。

 釣られて、俺も彼女の視線を追う。狐狼だった時に脱いでしまったから、当然服は身につけていない。全裸だ。

 オデットの顔がさらに赤くなる。がばっと身を起こして彼女は絶叫した。


「いやあああああ! イリヤさんの変態!!」


 変態……。致命的な言葉の刃を食らった俺は、一番下にかかっている毛布を手早く腰に巻き、寝台から下りた。そのまま部屋を出て、自室に戻ると服を着る。

 それにしても、変態か……。そう呼ばれるくらいなら、狐狼の姿のままのほうがよかったかもしれん。


 しばらくうじうじと考えたあとで、一階に向かう。朝から色々あって腹が減ったからだ。

 自分で何か作ろう。そう思っていたのだが、扉を開けて居間に入ると、いい匂いが鼻孔をくすぐる。オデットが食卓に二人分の朝食の皿を並べていた。卵が使われ彩り鮮やかな、普段より豪華な朝食だ。

 俺に気づいたオデットが気まずそうに口を開く。


「……イリヤさん……さっきはごめんなさい」


 この朝食は仲直りの印か。口元が自然に綻んだ。オデットに近づいていくと、俺は彼女をしっかりと抱きしめた。



『狐狼になった日』──完



◇◇◇



続編『無才改め大聖女 ~狐耳王子は元聖女で婚約者のわたしに甘々です~』も完結済みです。是非お読みいただければ幸いです。

下記URLからどうぞ。

https://kakuyomu.jp/works/16816700427788631919

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無才の聖女 ~逆行して魔法の大天才になったら片想いの最強傭兵(狐耳、家事万能)と同居することに。でも彼の様子がなんだかおかしい。え、わたしの恋する匂いが原因?~ 畑中希月 @kizukihatanaka

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