第29話 時魔法と戦の行方
まだ夜の明けきらぬ翌早朝、リュピテール軍の天幕で休んだオデットは自然に目を覚ました。
今日はリュピテール暦三八二年の一月十四日。とうとう来たるべき日がやってきたのだ。
雪はやんでいた。記憶通り、数時間後にはまた降ってくるだろう。
閲兵が始まった。前の時間軸でも目にしていたが、騎士と歩兵を合わせて約十五万の兵が、
ルイに請われたオデットは、全将兵の前で祝福の儀式を行った。奇跡を起こせなかったオデットが使う、光の雪を降らせる魔法に、ルイもロドリグも驚いていた。
ロドリグの目が邪な光を浮かべたように見えたのは、多分気のせいではない。
閲兵が終わると、薄闇の中、リュピテール軍はパドキアラ団を先頭に、陣形を組んで進み始めた。
イリヤとセルゲイを除き、パドキアラ団は徒歩だが、オデットは騎乗している。戦闘が始まっても馬から降りないよう、オデットはイリヤから固く言い渡されていた。
本当はオデットも、みなと同じように馬から降りて戦いたかった。
けれど、もしものことがあってもすぐに逃げられるように、とイリヤが頑なに了承しなかったのだ。団のみなも黙認してくれた。
リュピテール軍が敵のいる方角へと街道を進むのではなく、大きく迂回して進軍していることにオデットは気づいた。
イリヤはこちらの側背を突こうとしているハーズ軍のさらに後背を突こうとしているのだ。
ロドリグはそのことに感づいただろうか。それとも、こっそりと自軍から離れることに精一杯で、それどころではなかっただろうか。
やがて、すっかり白んだ曇り空の下、雪の中を進むハーズ軍の軍旗が見えてきた。鷲が描かれた三角旗が風に翻っている。
獲物を狙う猛獣のように慎重に進むリュピテール全軍に、総司令官である王太子ルイが号令をかけた。
「全軍突撃!」
正規兵も貴族の兵も傭兵も、いっせいに喚声を上げる。
イリヤとセルゲイがしなやかな動作で馬から飛び降りる。先鋒のパドキアラ団はハーズ軍の後背に食らいついた。予期せぬ奇襲にハーズ軍の陣形が大きく崩れる。
隣のイリヤが大声で命じた。
「進め!」
イリヤは剣を抜いて構えると、オンディーヌを召喚する。無数の氷柱が敵を刺し貫く様に目を背けそうになりながらも、オデットは前方の敵兵に向けて片手を突き出した。
(眠れ!)
この日のために、無詠唱で使えるようにした闇属性の魔法を、味方には効果がないように組み上げながら四方に飛ばす。
現時点でオデットが使える無詠唱魔法は二種類。
眠りの魔法の射程範囲は、以前ヴァジームに使った時よりも拡大している。敵兵たちが次々に昏倒し、あるいは落馬していく。
イリヤのあとに続くパドキアラ団をはじめとしたリュピテール軍の兵たちも勢いづき、ハーズ軍は劣勢に立たされたかに見えた。
突如として、敵軍の中から巨大な魔獣が現れた。頭と鼻先に合わせて四本の角を生やした、硬そうな皮膚に覆われた魔獣だ。
イリヤが止まった。
「魔獣使いがいる。魔獣を従わせる恩寵を持った
「はい!」
イリヤは前に出た。手強そうな魔獣を自分一人に引きつけるつもりなのだろう。援護するためオデットもイリヤのうしろにぴったりとつく。
イリヤがオンディーヌに何事かを命じる。魔獣の足元から冷気が漂い、その四つ足を氷が覆い始める。やがて、身動きが取れなくなった魔獣の全身を氷が覆い尽くした。
と、凍りついたはずの魔獣が身じろぎした。澄んだ音を立てて氷が割れる。魔獣は身体をぶるぶると震わせ、咆哮を上げた。
イリヤの従える精霊でも太刀打ちできない相手。おそらく、この魔獣には魔法耐性がある。
これほど強力な魔物は通常なら結界に阻まれ、リュピテール国内には入れないはずだ。
イリヤも同じ疑問を感じたらしく、低い声で呟く。
「一時的に弱体化させて、結界を通ったか」
なるほど、魔獣の能力を落とし、結界に弾かれないようにしたのか。おそらく、魔法か魔導具を使ったのだろう。
オデットは思考を全速力で回転させた。魔法耐性があるならば、眠らせることも無理だろう。だとしたら、残された手段はふたつ。
イリヤは剣で直接魔獣と渡り合い始めた。魔獣の突撃を避け、跳躍して上から首めがけて剣を突き立てる。
剣は皮膚に少し食い込んだようだが、致命傷は与えられなかった。表皮も恐ろしく硬い。イリヤはすぐに魔獣から飛び降りる。
剣でも精霊の操る魔法でも、さしたる痛手を与えられない魔獣。ならば、残された手段はひとつ。魔法を組み合わせ、耐性以上の威力を持たせて放つしかない。
異なる属性同士を組み合わせた魔法は詠唱を短縮することはできない。だが、イリヤが魔獣と戦ってくれている今なら撃てる。
「土の神エーダよ、御身のお力により、巨大な槍を作り出したまえ!」
空中に魔獣の体長よりも長大な土槍が作り出される。
「風の神アネモスよ、御身のお力により、突風を引き起こしたまえ!」
瞬間、イリヤが飛び
突風が吹く時機に合わせ、オデットは強風で推進力の増した土槍を魔獣に向けて放つ。
狂風が吹き荒れる中、周りの騎兵たちが必死に馬の首にしがみつき、歩兵たちが地面に突き刺した武器にすがりつく。
魔獣の胴に土槍が深く突き刺さるのと、突風が止むのが同時だった。
(……ごめんなさい)
血飛沫を上げ、どう、と雪原に横倒れになる魔獣をオデットは悲しい気持ちで眺めた。
いや、感傷はあとにして、イリヤの傍にいかなければ。そう思った時、倒れた魔獣のうしろから獣族の傭兵たちが押し寄せてきた。レーヌス傭兵だろう。事前にイリヤが教えてくれたように黒い鎧を身につけている。
オデットはイリヤのもとに向かうために、眠りの魔法を使った。レーヌス傭兵たちが昏倒した隙に、オデットは馬を駆けさせる。だが、イリヤの姿は見えない。
はぐれてしまったのだ。オデットは呼吸が浅く、荒くなっていくのを自覚した。白い息が風に乗って流れてゆく。
(イリヤさん……イリヤさん……!)
どうしよう。彼を守ると誓ったのに、見失ってしまった。もし、イリヤがレーヌス傭兵たちに囲まれ、苦戦していたら。前の時間軸とは違う状況で、結果だけが同じになってしまっていたとしたら──。
オデットは自分の魔力が急速に高まっていくのを感じた。いや、高まっていくというより、暴走し始めているといったほうがいいのかもしれない。
(わたしが……わたしが判断を間違えたから──)
「オデットさん! オデットさん!」
セルゲイの声が聞こえたが、その声は半ばオデットの耳には届いていなかった。
オデットの身体を魔力の奔流が包み込む。上空に向かって流れており、水のように透き通っていて温かい。
この魔力の流れには覚えがある。欠けていた記憶がオデットの脳裏に蘇った。あれは、前の時間軸でロドリグに殺されそうになった時のことだ。
命の危機に際して魔力腺が開き、身体から凄まじい量の魔力が溢れ出した。オデットはそのまま魔力の渦に呑み込まれ、気を失った。そして、気づいたらエウリサード神殿の自室で目を覚ましていたのだ。
(わたし──時を戻そうとしている)
もう一度、イリヤに会いたい。彼と会うためなら、どんなことでもする。
そう思った時、襟元から何かが魔力の奔流に巻き上げられる。目の高さまで持ち上がったそれは、イリヤから預かった青い石のペンダントだった。
二重にかけてある、誕生日祝いにイリヤから贈られた翠玉のペンダントも目に入る。
(イリヤさん……)
そうだ。もし時を戻してしまったら、この時間軸でイリヤと過ごした思い出は、彼の中から消えてしまう。この時間軸で出会い、半年間を過ごしたイリヤとはもう会えない。
それに、自分が時の牢獄に囚われてしまったら、どれほどイリヤを悲しませることだろう。
目からぽろぽろと涙がこぼれ落ち、次々に頬を伝った。
彼との約束を破ってはならない。
オデットは青い石を右手で、翠玉を左手で握りしめた。
だが、心が落ち着いても、自分を巻き込む魔力の渦は消えない。それどころか、どこか別の空間に引きずり込まれていくような感覚に陥る。
もしかして、時魔法を使おうとしたから、時の牢獄に送られようとしているのだろうか。オデットの全身が総毛立った。
オデットの身体は魔力の奔流に吹き上げられ、鞍から宙に浮き始める。身体が何もないはずの後方に凄まじい力で引きずられ、オデットはとっさに前に向けて手を伸ばした。
「──イリヤさん!」
愛しい人の名が口からこぼれる。いつしかオデットは、異空間としか呼べない虚ろな場所に浮いていた。暑くもなく、寒くもない。伸ばした手だけが外界の冷たい風を感じている。
次第に、その手も完全に異空間に取り込まれた。
ここが、時の牢獄なのだろうか。何もない空間が雪の舞う雪原にさっと変わり、オデットは再び馬に乗っていた。服装は革鎧ではなく、前の時間軸で身につけていた聖女の衣だ。急激に温度が下がり、寒気が頬を刺す。
何かに急き立てられるように馬を駆けさせると、踏みにじられた一角獣の軍旗と、倒れ伏すおびただしい数の兵馬の姿があった。
ロドリグの白い鎧が見える。オデットは恐怖に身体を強張らせた。これ以上、進んではならないと分かっているのに、身体が言うことを聞かない。
「ロドリグ殿──下」
何者かによって強制的に呼びかけさせられたあとで、ロドリグの足元に散る赤に気づく。そこにはうつ伏せに倒れる銀髪の青年の姿があった。
(嫌! 嫌──!!)
イリヤが死ぬところを目にしたくなくて、オデットは心の中で叫び声を上げた。
その刹那。
空がひび割れた。ガラスが割れるような音とともに、欠けた空から底光りのする大きな青い瞳が覗く。もう一度空に衝撃が加えられ、鉤爪が空間に押し入ってくる。
翼を広げた、トカゲのように長い首と尾を持つ生き物がオデットの前に降り立った。硬そうな白銀の鱗に覆われた、人の五倍はありそうなその姿は、まさしく最強の妖精、
その背から飛び降りたのはイリヤだった。
イリヤはこちらを目がけて駆け寄ってくると、馬上の自分をぎゅっと抱きしめた。
「──よかった。間に合った。お前が消えたと聞いた時は、心臓が止まるかと思った」
「イリヤさん……」
自分の思い通りに声が出る。空間が破壊されたせいだろう。
「どうして、ここに?」
温もりも抱きしめ方も、間違いなく本物のイリヤだ。無事なイリヤの姿を目にして、オデットが泣きそうになりながら尋ねると、彼は満開の花のような笑みを浮かべた。
「竜のおかげだ。こいつら妖精は
いつの間にか馬は消え、オデットは何もない空間に立っていた。服装も元の革鎧に戻っている。周囲を見回すと、倒れていたイリヤもロドリグも消えていた。あれは幻だったのだ。
空間が常温に近い温度に変化し、上空の穴から冷気が流れ込んでくる。
イリヤは竜言語らしき言葉で、竜に何事かを命じた。竜が姿勢を低くして、こちらに背を向ける。
「オデット、こいつの背に乗れ」
イリヤに促されるままに、オデットは彼のあとについて、よじ登るように竜の背に乗った。竜の身体は意外に滑らかだった。
前に座るイリヤが声をかけると、竜は二、三度羽ばたき、穴の空いた上空へ吸い込まれるように飛んでいく。
時の牢獄の外は、幻影の空と同じように雪雲が広がっていた。雪はまだ降っていない。
空を飛ぶという不可思議な体験に、オデットは恐怖を感じることさえ忘れて空と地上を眺めた。上空では大地の上で受けるよりも風が冷たく、胃が持ち上げられるような落ち着かない感覚がある。
竜は旋回すると、人々が武器を持って戦い続ける戦場へと舞い降りていく。
竜に驚いた兵たちが、ざっと四方に散る。竜は悠々と雪原に降り立った。
オデットがイリヤとともに竜から降りると、近くにいたセルゲイが走り寄ってくる。
「よかった! オデットさんが無事でよかった! あなたが魔力の渦に包まれて姿を消した時は驚きましたよ! オデットさんが戻ってこなかったら、僕がイリヤに殺されてしまうところでした!」
どうやら、セルゲイは戦場でイリヤとはぐれた時の、オデットのお目付け役を言付かっていたらしい。
「ご、ごめんなさい、セルゲイさん」
「……俺も戻ってきたんだがな、セルゲイ」
イリヤがぼそりと指摘すると、セルゲイはくすりと笑う。
「君なら絶対に戻ってくると思っていたよ。ああ、話をしている暇はなさそうだ。敵が来るよ」
セルゲイに促され、オデットは正面を向く。竜に恐れをなしてか、遠巻きに近づいてくるレーヌス傭兵に眠りの魔法を放つが、彼らは昏倒しなかった。
(魔法が効かない!?)
剣を構えたセルゲイが独語する。
「魔法無効化の恩寵か」
近くに潜む、その恩寵を用いる敵を倒さない限り、魔法は使えないということだろう。
魔法が使えなければ、自分はただの小娘に過ぎない。オデットは歯噛みした。
イリヤが前に出る。長い銀髪が冷たい風になびいた。
「オデット、お前は下がっていろ。行くぞ、セルゲイ」
イリヤとセルゲイは剣を構え、レーヌス傭兵部隊に向かっていく。イリヤの無事を確認して士気の上がったパドキアラ団が彼らに続く。
魔法を使えなくてもイリヤは強く、次々と敵を薙ぎ払う。その上、こちらには竜がいる。炎を吐きながら前進していく竜を阻む敵はいなかった。
そのうち、イリヤが魔法無効化の恩寵を用いていた敵を見つけ出して倒し、オデットは再び魔法を使えるようになった。放射状に放った眠りの魔法が、立ち塞がる敵兵を一瞬で薙ぎ倒していく。
余裕のできたイリヤが口笛を吹く。
ほどなく、オデットの乗馬が戻ってきた。彼は自分の馬だけでなく、オデットの馬にも呼び戻すための調教をしてくれていたのだ。
オデットは馬の無事を喜んだあとで、イリヤに守られながら再び騎乗する。
イリヤについて敵陣の奥深くに食い込んでいくと、立派な甲冑を着込み、馬上から兵を指揮している騎士が目に入った。
こちらを見た周りの騎士たちが「お逃げください、陛下!」とハーズ語で口々に叫ぶ。
ということは、あれが前の時間軸でイリヤが死に至る原因を作り出した、ハーズの国王なのだ。オデットは彼に片手を向けた。
(眠りなさい!)
意識を失ったハーズ国王は落馬し、戦いの趨勢は決した。
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