第26話 二人の誓いと幼き日のイリヤ
自室に入ったオデットが机の前に置かれた椅子を勧めると、イリヤは首を横に振った。
「お前の隣に座りたい」
さっさと寝台の上に腰かけたイリヤを見て、オデットは仕方なく、その隣に座った。
(イリヤさんって、結構甘えん坊なのかな?)
犬みたいで可愛らしいが、押し倒されたとしても文句は言えない。
自分の想像に赤面するオデットに反して、イリヤは膝の間で手を組み、語り始めるその時を待っているようだった。
やがて、イリヤは口を開いた。
「俺が親を知らないことは、さっき言ったな」
「はい」
「俺は十二歳になるまで、売り物として育てられた」
息を呑むオデットの頭をぽん、と優しく叩くと、イリヤは続きを語り始めた。
◇
物心ついた時、イリヤは既にペンダントをつけて、他の子どもたちとともに育てられていた。集団で読み書きや礼儀作法などの教育を受け、食事を与えられ、成長していく日々。
子どもたちは全て獣族で、時折、人族の大人が子どもたちの様子を見に現れると、一人、また一人と何も言わずに姿を消した。
とても自分に優しくしてくれた年上の少女がいなくなった時、イリヤは猛烈に彼女が恋しくなった。その欲求に応えるように、水の精霊オンディーヌが現れ、イリヤの話し相手になってくれた。
といっても、最初はお互いに言葉が通じなかった。イリヤはオンディーヌから精霊言語を学び、他の精霊たちも呼び出せるようになった。
イリヤが異質な存在を呼び出せることに子どもたちは驚いたが、最も驚いたのは、子どもたちの世話係をしていた「先生」と呼ばれる獣族の女だった。
あなたは人族の血を引いているのね、と彼女は言った。
それまでイリヤは知らなかったが、この力は魔法というもので、本来獣族には使えないのだという。しかも、精霊を呼び出せる召喚魔法の使い手は、それほど多くはないらしい。
魔法を使えることが判明したイリヤには個室が与えられ、以前よりも手厚く育てられた。そして、専用の付き人が与えられた。
付き人はイリヤより二歳年上の山猫族の少年で、ニコライといった。ニコライはイリヤや一緒に育てられていた子どもたちと違い、薄汚い格好をしていて、読み書きもできなかった。
一緒に育った子どもたちが容姿のよい者ばかりだったことにイリヤが気づいたのは、その時だ。
ニコライをかわいそうに思ったイリヤは、彼に身綺麗な服を着せてくれるよう「先生」に頼んだ。
ニコライは初め複雑そうな顔をしていたが、しきりに話しかけるイリヤに根負けしたように、好意的に振る舞うようになった。
付き人になる前は盗みの仕事をしていた、とニコライは話してくれた。「仕事」の話をする時の彼の顔は誇りに満ちていた。
イリヤは不思議だった。なぜ、同じ施設で育てられているにもかかわらず、子どもたちの間にここまで格差があるのか。
日々強くなっていく疑問を解消するために、イリヤは自分の立場を利用し、「先生」と上役の人族の話を盗み聞いた。
──イリヤは魔法が使える上に、頭もいいし容姿も一級品だから、十五歳になるまで待って市場に……。
──ニコライにはまた盗みをさせればいい。仮に捕まったり、殺されたりしても、いくらでも代わりはいる。
イリヤは理解した。ここはなんらかの形で集めた獣族の子どもを育て、商品として闇市場に出したり、商品にならない子どもに盗みなど非合法な行為をさせる犯罪組織なのだと。
商品になる子どもたちが教育を受けさせられるのは、上流階級に買い取られやすくするためだったのだろう。
物語の中にしか存在しないような組織だが、まず間違いない。
施設からの脱走を決意したイリヤは周到な準備をしたあとで、ニコライに組織の実態と脱走計画のことを話した。
薄々感づいていた、とニコライは答え、了承してくれた。
そして、決行の日がやってきた。十二歳の時だ。
深夜、イリヤたちは庭に出ることに成功した。あとは塀を登るだけだ。しかし、脱出を目前にして、ニコライが言い出した。
──俺はやっぱり行けない。他の奴らを見捨てて自分だけ逃げるなんて。
──脱出してから力をつけて、助けに戻ればいいだろう!
イリヤはニコライを説得しようとし、二人はその場で言い争った。
なんの前触れもなくニコライが前のめりに倒れた。その背には矢が突き立っていた。
とっさのことに、イリヤは動くことすらできなかった。
人族の男が近づきながら何度もニコライに矢を放ち、吐き捨てるように言った。
──イリヤを逃がそうとしやがって。こいつがいくらになるか分かってんのか!
ニコライは苦しげに呼吸をしながら、目に涙を浮かべた。
──イリヤ、ごめん……な。お前だけ……でも……逃げろ。
ニコライはそう言い残すと、目を閉じた。彼の首に手を当て、その死を確認したイリヤはサラマンドルを召喚した。男は瞬時に発火し、燃え尽きた。
こいつらは生きていても害悪にしかならない。
燃え盛るような怒りの中、イリヤは氷のような冷たい思考が回転を始めるのを自覚した。
イリヤは建物の中に戻ると、人族の大人たちを捜し出し、燃やした。
今まで無害な家畜だと思っていた子ども。それが人を喰らう猛獣だと知った時の彼らの表情は恐怖に引きつっていて、ひたすら腹立たしかった。
イリヤの渦巻く怒りに呼応するように、普段は気さくなサラマンドルは荒れ狂った。
イリヤは最後に「先生」の部屋に赴いた。自身が殺されると知った彼女は震えていた。
ここで生きていくためには、不条理に目をつぶり、子どもたちを育てるしかなかった、と訴える彼女を見て、イリヤは急速に怒りが萎えていくのを感じた。同時に、サラマンドルのまとう火勢が弱まった。
この組織に本部が存在する場合、彼女を逃がせば、この惨状を引き起こした自分に追っ手が差し向けられるのではないか。そういった考えが頭の奥にちらつきはしたが、今まで自分たちの世話をしてくれたのは彼女だ。
魂を持たない精霊は人の情というものを解さない。「こいつを燃やさなくてもいいのか?」と尋ねるサラマンドルに、首を横に振ってみせると、イリヤは部屋をあとにした。
その後の「先生」の行方をイリヤは知らない。施設を壊滅させた自分が追われることはついになかったから、彼女もまた、どこかに逃げたのかもしれない。
騒ぎを聞きつけ、起き出してきた子どもたちにイリヤは告げた。君たちは、もう自由だ、と。
子どもたちの一人が困惑したようにイリヤに問いかけた。幼い日のセルゲイだ。
──自由……? 先生たちはどこ……? 僕たちはこれからどうすればいいの?
イリヤは頬をはたかれたような衝撃を受けた。今まで逃げることだけを考えてきたが、家畜のように育てられた自分たちは自由になったところで、生活の糧も手段も持たない。
イリヤはみなで生き延びるための判断を迫られた。一度見捨てようとした彼らを置いていけば、ニコライは死後も自分を許さないだろう。イリヤは決断した。
──食べ物と大切なものを持ってここを出よう。あとは僕がなんとかする。
◇
イリヤは、ふーっと息をついた。
「俺はニコライを施設の外に埋葬した。死後はせめて、あいつを自由にしてやりたかった」
ニコライ。使い捨てられ、惨い殺され方をした少年。彼の死はイリヤのその後の人生に大きな影を落としたのだろう。
「それから、俺たちは盗賊になった。当時は廃村だったこのネリザ村を根城にして、強盗や盗みを繰り返した。そして、魔法士ギルドを通して領主の依頼を受けたパスカルとアドリーヌに討伐され、俺だけが引き取られた。他の奴らは、俺についてきたセルゲイ以外は堅気の仕事についているはずだ」
イリヤの話を聞いていると胸が苦しくて、オデットは彼の横顔を見つめながら何も言えずにいた。
「十八になって、俺は家を出た。傭兵になるためだ。風の噂で、組織が国によって壊滅させられたという噂を聞いてはいた。だが、相変わらず獣族が普通に生きていくのは困難だ。もう、俺たちのような子どもを出したくなかった。獣族が安心して暮らせる場所を作りたかった」
イリヤの過去は痛ましく、恐ろしいものだったけれども、オデットはそれでも彼を愛しいと思った。イリヤを
イリヤは首からさげたペンダントの石を撫でた。
「このペンダントの効果に気づいたのはパスカルだ。あいつは優れた魔導具職人でもあるからな。持ち主以外には外せないから、組織の奴らもこのペンダントを俺につけさせたままにしていたんだろう。俺が自分の親について考えるようになったのは、パスカルたちに引き取られてからだ」
窓から差し込む光を反射して輝く青い石は、澄んだ湖面のようで、とても綺麗だった。
「それまでは周りもみな孤児だったし、生き抜くことだけで精一杯だったからな。自分を庇護してくれる相手もいなければ、愛情を向けられることもなかった。……俺の親はどこの誰で、今どうしているんだろうな」
オデットはようやくイリヤに声をかける気になった。
「イリヤさん、イリヤさんのご両親が本当にあなたを捨てたのかどうかは分かりませんけれど……わたしも捨てられたようなものなのです」
「お前が?」
「ええ。八歳の時に神官たちが、わたしを迎えにきたのです。当時の聖女さまが次に聖女になるのはわたしだと予知なさったらしくて。両親はわたしを引き渡す時に、お金の入った袋を受け取っていました」
「そうか……」
イリヤは守るようにオデットの肩を抱いた。先ほどは慌てていて気づけなかったイリヤの体温を感じながら、オデットはほほえむ。
「でも、いいのです。こうして、イリヤさんに会えましたから」
「お前は……」
イリヤも少し笑った。
「あまり俺を煽るな」
「そ、そんなことしていません」
オデットが否定すると、イリヤは左手の人差し指でオデットの頬を撫ぜた。くすぐったくて、オデットは身をよじる。イリヤが再び抱きしめてきた。
「オデット、何年先になるかは分からないが、俺は爵位を手に入れて、獣族が安心して暮らせる地を作る。もちろん、人族を追い出すような真似はしない。ふたつの種族の融和は、俺の一生の課題だ」
イリヤが未来を語ってくれたことが嬉しくて、オデットは彼の腕の中で頷いた。
「イリヤさんならできます」
「……その何年、何十年先になるか分からない夢を叶える時も──いや、叶えたあとも、お前は俺の傍にいてくれるか?」
イリヤの声は少し不安そうだったが、オデットの答えは決まっている。
「はい、喜んで」
イリヤの腕の力が強まった。
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