第25話 告白とペンダント

 年が明けた。

 あの日から、イリヤはオデットに魔法を教えてくれなくなった。オデットは途方に暮れながらも、空いた時間に今まで教わったことを復習した。


 お前は戦場に連れていけない、とイリヤには言われてしまったが、来たるべき日が目前に迫っている以上、何もしないでいられるわけがなかった。

 その甲斐あって、一部の魔法なら無詠唱で使えるようになりそうだ。


 あのレーヌス傭兵は年末にイリヤが解放した。イリヤは理由を説明してくれなかったが、彼が家に戻ってきた以上、実害はないと判断したのだろう。

 ある日、居間ではなんとなく気まずいので、オデットが自室で瞑想をしていると、扉が叩かれた。


「はい」


 入ってきたのは、もちろんイリヤだった。イリヤは室内を無言で見回したあとで、おもむろに口を開く。


「お前に預かって欲しいものがある」

「預かって欲しいもの……?」


 オデットがオウム返しに問うと、イリヤは立ち襟の上着の中からペンダントを取り出した。

 銀鎖から涙型の青い石がつり下がったペンダントで、前の時間軸で瀕死のイリヤが見つめていたものと全く同じだった。


 イリヤは両腕を首のうしろに回し、ペンダントを外す。ペンダントを掌に載せると静かに告げた。


「これは、俺が物心ついた時から身につけていた。おそらく、俺の親が残した、たったひとつのものだ」

「え……?」

「俺は親を知らない。俺は獣族と人族の混血だから、親は持て余して捨てたんだろう。望んだ妊娠ではなかったのかもしれないな」


 イリヤの口からそんな推測を聞くのは、とても悲しい気がした。初めてイリヤから過去の一端を語られたこともあって、オデットは何も言葉を返せずにいた。

 イリヤは語り続ける。


「このペンダントは魔導具だ。持ち主の危機には防御壁が出現し、中程度までの魔法や物理攻撃なら防いでくれる。それに、身につけている者以外が外そうとしても外せない」

「どうして、そんな大切なものをわたしに……?」

「お前に持っていて欲しい。それだけだ」


 言い聞かせるようなイリヤの口調は、凪のように穏やかだった。オデットの脳裏を雷光が閃く。


(イリヤさんは、死を覚悟している……)


 だから、自分自身の代わりに、防御の術式の組み込まれている魔導具を渡そうとしているのだ。まるで、己の形見を託すように。


「預かれません」


 オデットの声は、知らず知らずのうちに怒りで震えていた。

 イリヤが驚いたように目を見開く。


「オデット……?」

「わたしは生きることを諦めるような人の持ち物は預かれません。イリヤさんは、どうしてわたしの意志を無視するのですか? こうしたほうがわたしのためになるだろうって、勝手に考えて! 話し合う余地すら与えてくれなくて!」


 オデットは溢れそうになる涙を必死で堪えた。


「イリヤさんは優しいけれど──でも、そんな優しさは酷です。少なくとも、わたしは嬉しくありません」


 イリヤは困ったようにこちらを見ている。


「……もしもの時のためだ。お前を泣かせたいわけじゃない」

「泣いてなんて……」

「今にも泣きそうだぞ」

「そんなことありません!」


 大声でそう言ったあとで、オデットはイリヤを見上げ、その切れ長の目を見つめた。


「死ぬつもりなら、そもそも戦場に行かないでください。もし、あくまで戦場に行くのなら、わたしを連れていってください。わたしにイリヤさんを守らせてください」


 イリヤの金色の瞳が揺れた。だが、それも一瞬のことで、冷静な表情を取り戻した彼はペンダントを軽く握りしめる。


「それはできない」


 イリヤは踵を返し、部屋を出ていく。

 今回は、前と違って涙はこぼれなかった。代わりに湧いてきたのは、絶対に戦場についていってやる、という怒りにも似た思いだ。

 オデットはイリヤのあとを追いかけ、扉を開けた。


「イリヤさん!」


 まだ廊下にいたイリヤが振り返る。


「……なんだ?」


 オデットは立ち止まって息を吸い込んだ。声とともに息を吐き出す。


「わたしを戦場に連れていきなさい!」


 イリヤが目を瞬く。オデットは構わず続けた。


「戦場に連れていくと約束してくれるまで、わたしはここを動きません! もう掃除も洗濯もしないし、料理も作ってあげません!」

「いや、それは別に……」


「大体、なんなのですか! 自分が全権を握っているような顔をして! 国王陛下がわたしに出征しろとお命じになったら、わたしは戦場にいくのです! そうしたら、イリヤさんとも離れ離れです! どうしてそんな簡単なことも分からないのですか!」


 イリヤはうつむいていたが、やがて、くくっと笑い始めた。おかしくて仕方がないとでもいうような彼の笑い声が廊下を満たしていく。ほどなく、イリヤは笑うのをやめた。


「……確かにそうだな。まあ、その場合、お前は王都の守りに回されそうだが」


 こんな時でも思考の回るイリヤにオデットは呆れた。


「本当に、イリヤさんって冷静ですね。腹立ちます」

「自分でもそう思う」


 真面目くさったイリヤの言葉に、オデットは少し怒りが和らぐのを感じた。胸に手を当てて、イリヤに語りかける。


「わたし、こう思うのです。この半年間で起こった出来事は、前の時間軸とは大きく変わりました。主に、あなたとわたしに関する出来事ですけれど。きっと、これからも変わり続けていくのだと思います」


 イリヤは切なげに目を細めた。


「俺は、お前の未来が変わって、お前が幸せになれればそれでいい」


 イリヤの声も口調も、真剣そのものだった。オデットは戸惑いを隠せない。


「……イリヤさん?」

「お前を手に入れたい、とも思った。だが、お前が生きて、笑ってくれなければ、全てが虚しいだけだ」


 手に入れたい?

 それは、つまり、自分がイリヤのものになるということで、彼がそれを望んでいたということだろうか。オデットの声は裏返った。


「そ、それは、どういう……?」

「まだ分からないのか?」


 イリヤは鋭い顔立ちに、いたずらっぽい笑みを浮かべると、近づいてきた。身じろぎすれば身体が触れ合うくらいの距離まで歩を進められる。だからといって、あとずさりもできないでいると、背中に手を回された。


「好きだ」


 イリヤが壊れ物でも扱うかのように、優しく抱きしめてくる。

 オデットは動揺しっぱなしで、されるがままになっていた。身長差があるので、イリヤの胸に顔を埋める格好になる。


「わ、わたしなんかの、どこがいいのですか……?」

「匂いと性格だな。顔も結構好みだ。声もいいな」


 匂い? イリヤは狐狼族ころうぞくだから鼻がよくて、自分の匂いが気に入ったということだろうか。

 そういえば、イリヤはいつも匂い袋を首から下げていて、ことあるごとに鼻に近づけていた。


 あれは、彼好みである自分の匂いをまぎらわすため……?

 そんな前から自分のことを気にしてくれていたのだろうか。恥ずかしさを追い払うために、オデットは必死で言葉を探す。


「性格はよく分かりませんけれど、わたしの顔、十人並みですよ? イリヤさんとは釣り合いません」

「そうか? 目が大きくて可愛いと思うが。お前のよさが分からん奴のことは放っておけ。お前は十分魅力的だ。その体型もな」


 そんなところまで見られていたのかと思うと、さらに恥ずかしさが込み上げてくる。


「……イリヤさんの意地悪」

「俺は褒めたつもりだが。けなされるほうが好みか?」


 聞いているだけでとろけそうな口調でそう言われ、オデットは頬を染めた。


「そ、そんなわけないじゃないですか」


 確かに、イリヤはきついというか、ちょっと意地悪なところがあるけれど、決して嗜虐しぎゃく的な性格ではない。というか、彼がそんな性格だったら、惹かれることはなかっただろう。


「お前は、俺のどこが好きだ?」


 不意打ちのように自分の気持ちを暴かれ、オデットは絶句した。様子に気づいたのか、イリヤが補足する。


「ああ、まだ説明していなかったな。俺がお前の匂いを気に入ったのは、お前から俺に恋をしている匂いが色濃く漂ってきたからだ」

「え? え? そうなのですか!?」


 では、この時間軸で出会った時から、オデットの好意はイリヤにバレバレだったというわけだ。頭を拳骨で叩かれたような衝撃を受けたオデットは、ある重要なことに気づく。


「で、でも、わたし、多分、発情期になっていません!」


 イリヤに対して、淫らな欲望を抱いたことは一度もない……と思いたい。


「……発情期のことをどこで聞いた?」


 顔が見えないながら、イリヤが不穏な空気を発し始めたのが分かったので、オデットは正直に答えることにした。


「……アドリーヌさんから」

「あいつめ……まあ、いい。人族の女が発情する時期はバラバラだからな。お前はまだその時じゃないんだろう。女が恋をするだけでも匂いは変化するから、恋愛対象の俺が反応してしまっているだけでな。……もっとも、俺がその気にさせてやってもいいが」


 さらりととんでもないことを言われ、オデットは慌てふためく。イリヤの腕から逃れようとするが、逆にしっかりと抱きすくめられる。体術初心者にはとても振りほどけそうにない。


「安心しろ。冗談だ。おそらく、お前が発情したら、俺の理性でもどうにもならん。せいぜい、覚悟だけはしておけ」


(そんなこと言われても……)


 想像するだけで頭が沸騰しそうだ。

 イリヤがオデットの髪を撫でながら、耳元で囁く。


「話を戻そう。オデット、お前は俺のどこが好きだ?」

「ぜ、全部」

「全部……?」


 そうなのだ。イリヤの強くて優しいところも、ちょっと意地悪なところも、口が悪いところも。綺麗な長い銀髪や神秘的な金色の瞳、姿形、時々感情を表現する耳と尻尾も、耳触りのよい名前さえも。


「イリヤさんの全てが好きです」


 渾身の告白は、するりと口から滑り出た。

 イリヤは何も言わなかった。ただ、オデットを抱きしめる力が強まっただけだ。

 しばらくして、イリヤが掠れた声で言った。


「──オデット、お前に話がある」

「イリヤさんのお話なら、なんでも聞きます」

「ありがとう。俺の昔話を聞いてくれないか? 気分が悪くなるような話かもしれんが、お前に聞いて欲しい」


 以前、アドリーヌは言っていた。イリヤがパスカルとアドリーヌのもとに身を寄せた経緯は、彼が話したくなった時に訊いて欲しい、と。

 その時が、ようやく訪れたのかもしれない。


「わたしでよければ」


 オデットが答えると、イリヤはようやく腕の力を弱め、解放してくれた。


「お前の部屋でいいか?」


 それほど広くない部屋でまたイリヤと二人きりになるのは、先ほどとは違う意味で胸が高鳴りそうだったが、オデットは小さく頷き、自室の扉を開けた。

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