第23話 イリヤの帰宅と不穏な事件

 イリヤは無事だろうか。

 冬期は短い間しか姿を現さない太陽が沈もうとしている。窓外の赤と紫に染まった空を眺めながら、オデットはイリヤのいるであろうエルス砦に想いを向けていた。


 いくらこの時間軸が前の時間軸と違うとはいえ、イリヤはきっと無事だ。

 自分にそう言い聞かせながら、オデットは軍神でもある火の神フォーテガに静かに祈りを捧げた。


(フォーテガよ、どうかイリヤさんをお守りください)


 魔法は神に祈ることで発動するものだ。ならば、この祈りにも、きっと意味があるのだろう。聖女がそんなことを考えてはいけないのかもしれないけれど。

 そろそろ夕食の用意をしなければならない時間だ。


 一人きりの食事はわびしい。それでも、お腹は空くし、イリヤが戻ってきた時にやつれた姿を見せるわけにもいかないので、オデットは料理の準備を始めることにした。


 一人だから、多少手を抜いても構わないだろう。オデットは台所へ向かおうとした。

 カンカンと扉を叩く音が響く。


 オデットは踵を返して玄関広間へと出た。

 こんな時間に誰だろう。村人が調味料でも借りにきたのだろうか。

 疑問に思いながら玄関の扉を開ける。


 そこには、獣族の男が三人立っていた。しかし、妙だ。今、怪我人や病人以外のパドキアラ団の団員は、全員エルス砦にいるはずなのに。

 豹の耳と尻尾を持つ男が口を開いた。


「こんばんは」


 訛りのある挨拶。その声が合図だったかのように、男たちはオデットの返事を待たず、家の中に押し入ってくる。

 本能的にまずいと感じたオデットは扉を閉めようとしたが、力で競り負けてしまう。無理やり玄関に入ってきた男たちの一人──豹耳の男がオデットのうしろに回り込もうとした。


(ロドリグ王子の手の者……!)


 自分をさらうために、イリヤの留守を狙ったに違いない。

 助けを呼ぶために叫ぼうにも、この家は村の奥まったところにある。

 短い間に様々な思考が泡のように浮かび、オデットは決断した。


「土の神エーダよ!」


 オデットは全方位に向け、鋭い土の矢を作り出して発射した。

 矢は命中した。前方にいた二人の男が肩と腕を負傷し、表情を歪めながら外へと逃げ出していく。

 助かった、と思い、へなへなと座り込もうとしたオデットは気づいた。うしろに回り込もうとしていた男が胸と腹に土の矢を受け、うめきながら座り込んでいる。


 オデットが呆然として硬直している間に、男は床に倒れた。

 我に返ったオデットは男に近づいていく。首筋に手を当てると脈がある。

 ほっとしたオデットは術を解いた。土の矢がさらさらと崩れていく。


「光の神ミルラよ」


 オデットは男の患部に手をかざし、治療を始めた。傷はふさがったが、男は意識を失ったままだ。

 苦悶が消え、穏やかになった男の顔を見つめながら、オデットはふと震えが込み上げてくるのを感じた。


 人を傷つけたのは初めてだった。


 自分は今まで、命のやり取りというものを想像の中でしか知らなかった。

 今回はたまたま急所が外れていたからよかった。だが、当たりどころが少しでも悪ければ、この人は死んでいた。自分はこの人を殺してしまっていた。


 イリヤはいつもこの恐怖を抱えながら、戦場に立っているのだろうか。

 恐ろしさの中でも彼への愛おしさを覚え、オデットは冷えた身体に熱が戻ってきたような気がした。

 この人を寝台に運ばなければ。自分一人では無理だ。オデットは人の手を借りるために、家の外に出ていった。


   ◇


 宵闇の中、イリヤはほとんど休憩も取らずに馬を駆けさせ、ネリザ村を目指していた。

 鎧は馬にとって重荷になるので、セルゲイに頼み、あとで村に届けてもらえるよう手配してある。

 エルス砦の将軍は「パドキアラ団は一万の兵に勝る」とイリヤを称賛し、砦で休んでいくように勧めたが、イリヤは謝絶した。


 今は一刻も早く、オデットの無事を確認したかった。

 ようやく村についた時には、月が煌々と夜の闇を照らし出していた。もう村人たちはとっくに夕食を終えて、眠るための準備をしている時刻だ。家々の窓からは明かりが漏れている。


 イリヤは人通りのない村の中を進んだ。自分の家が村の最奥にあることが、今は苛立たしい。

 我が家の前についたイリヤは下馬すると、厩には行かずに馬を庭に放した。元々、気まぐれに遠くへ行ってしまっても、口笛さえ吹けば自分のもとに駆け戻ってくる馬だ。


 扉の前に立ち、ノッカーを叩いたが、なかなかオデットは現れない。いい加減心配になり、無理やり扉をこじ開けようかと思い始めた頃、扉の内側からくぐもった声が聞こえてきた。


「誰だい?」


 女の声だが、オデットのものではない。彼女に何かあったのだろうか。イリヤは眉をひそめた。


「俺だ。イリヤだ」


 扉が内側からゆっくりと開いた。


「団長……?」


 扉の隙間から覗いた顔は団員の妻の一人だった。

 なぜ、彼女がここに? ただならぬものを感じ、イリヤは急いで家の中に入った。


「イリヤさん……」


 長椅子で休むオデットの安堵に変わる表情を見たとたん、熱い感情が身体の内から溢れてきた。

 オデットの隣に座っていたもう一人の団員の妻が立ち上がる。


「団長! オデットさん、さらわれそうになったんだよ!」


 氷塊が背筋を滑り落ちるような感覚を覚え、イリヤは身体を強張らせた。


「……詳しい話を聞かせてくれ」


 二人の女たちの話をオデットが補足する形で、状況確認が行われた。

 夕刻、オデットは見知らぬ獣族の男たちにさらわれそうになり、撃退した。深手を負った男の一人はオデットの治療を受け、二階に運ばれたらしい。


 男を運ぶために、オデットが助けを求めたのが団員の妻たちだった。家で子どもが待っている女たちは夕食前に帰宅したが、子どものいない二人の女たちがこうしてオデットについていてくれたらしい。


「まったく、男ってのは肝心な時にいないんだから」


 そう言われてしまったイリヤは心持ちうなだれた。


「……すまない」

「そういえば、団長が帰ってきたってことはうちの人も?」

「いや、俺一人だけで帰ってきた。お前たちの旦那は砦で休んでいる。明々後日しあさってには帰ってくると思うが」


「そうかい。団長はオデットさんのために早めに帰ってきたんだね。さっきは言い過ぎてしまってごめんよ」

「ねえ、団長も戻ってきたことだし、そろそろあたしたちはお暇しない?」


 もう一人の女に促され、団員の妻はにやりと笑った。


「そうだね。二人とも、うまくやりなよ」


 オデットが赤面する。イリヤが女たちを睨むと、彼女たちは笑いながら玄関広間へと向かった。オデットが何度も礼を言いながら二人を見送りにいく。

 困っていたオデットを助けてくれたのは事実なので、イリヤも一応礼を言って、彼女たちを見送った。


 騒がしい女たちが去ってしまうと、イリヤはオデットと二人きりで玄関広間に残された。

 イリヤはオデットに向き直る。


「オデット、すまん。お前が危険な目に遭ったのは、俺が留守にしたせいだ」

「そんな! イリヤさんのせいではないです! こうして、わたしも無事でしたし」


 ふるふると首を振りながら自分を見上げるオデットを見て、イリヤは彼女を強く抱きしめたい衝動に駆られた。そんなことをしたら、ただでさえ動揺しているオデットの心を余計にかき乱すだけなので、ぐっと我慢する。

 オデットは表情を緩め、ほほえんだ。


「でも、嬉しいです。イリヤさんがこうしてわたしを心配して、戻ってきてくれるなんて」


 オデットからはとても甘やかな、いい匂いがした。

 堪えきれず、イリヤは右手で彼女の頬を包み、そっと撫ぜる。

 オデットが戸惑ったように呟く。


「……イリヤさん?」


 オデットに想いを伝えるのは、彼女を妻にもらえるよう、国王に渡りをつけてからだ。イリヤは努めて冷静さを取り戻し、オデットから手を離した。


「……オデット、お前をさらおうとした男のところに案内してくれないか」


 オデットは頷くと、階段を上り始める。イリヤもあとに続いた。今は使われていない、パスカルとアドリーヌが寝起きしていた部屋の前で、オデットは立ち止まる。

 イリヤはオデットと扉の間に割り込み、戸を開けた。


 室内の寝台に横たわっていたのは、光属性の鎖に縛られた豹族の男だった。イリヤにも見覚えのない顔だ。

 この男がオデットをさらおうとした。イリヤの胸を静かな怒りが焼いた。


「……わたし、この人をもう少しで殺してしまうところでした」


 オデットがぽつりと言った言葉に、イリヤははっとした。

 彼女は自分と違い、他人を傷つけることに慣れていない。さらわれそうになっただけでなく、そんな体験までしたのだ。どれほど恐ろしかったことだろう。

 目の前の男に憎悪を感じるとともに、オデットへの愛しさが募った。イリヤはオデットにできるだけ優しい微笑を向ける。


「もうお前にそんな思いはさせない」


 イリヤは決意した。絶対に、オデットを戦場には連れていかない。

 その前に、まずはこの男がどこの誰で、ロドリグの命を受けたのか、それとも別の者の命を受けたのかを調べなければならない。

 イリヤは男の枕元に立つ。男を目覚めさせるためだ。


「光の神ミルラよ」


 戦場でだいぶ魔力を消費したが、これくらいの魔法なら使える。掌に出現させた淡い光球が、男の頭に吸い込まれていく。

 男のまぶたが動いた。すっと目を開けた男は、今がどんな状況なのか呑み込めていないようだ。

 イリヤは殺意を込めて男を見やる。


「貴様はどこの者だ? 誰に頼まれて聖女をさらおうとした?」


 沈黙ののち、男は答えた。


「──言えない」


 訛りのあるリュピテール語。

 聞き覚えがある。男の訛りは、レーヌスのものだった。

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