第22話 エルス砦の戦いとイリヤの不安

 結局、オデットはイリヤに魔法の訓練をして欲しい、と改めて頼んだ。イリヤはほほえんで頷き、二人の間に再び師弟関係が成立した。

 イリヤに接近しすぎて集中が乱れることはあったものの、もうコツを習得しているので魔法が暴走することもなかった。


 それよりもオデットが心乱されたのは、イリヤが優しくなったことだ。

 いや、彼は出会った時から口は悪いながらも優しいところはあったのだが、それがより顕著になったのだ。


 そして、身体に触れてくることが多くなった。もちろん、嫌らしい触れ方ではない。それでも、オデットとしては気もそぞろになってしまう。

 けれど、イリヤと毎朝おはようと挨拶をして、一緒に食事を摂り、訓練を受け、おやすみなさいと言い交わして眠る毎日はとても満ち足りていた。


 こんな日がいつまでも続けばいい、と思うと同時に、オデットには気がかりなことがあった。

 十二月二十四日はリュピテールと領土問題で揉めていたハーズとの戦端が開かれる日なのだ。


 イリヤも出征する。もちろん、彼には伝えてあることだし、来たるべき日は来年の一月十四日だ。

 だから、何も心配はいらないはずなのだが、オデットは不安だった。


 そして、十二月十九日の朝に、王宮からの使者が召集令状を持って現れた。パドキアラ団出征の時が来たのだ。

 玄関広間でオデットは息を詰めて、イリヤと使者のやり取りを見守った。


「国王陛下は聖女猊下げいかのご出征をお命じになりましたか?」


 イリヤの問いに使者は首を横に振った。


「いいえ。聖女猊下は真に国難の時にご出征なさるようにと」


 イリヤは安堵したようだった。オデットは落ち着かない。使者が帰ったあと、無理を承知でイリヤに訴えた。


「イリヤさん、わたしも連れていってください」

「無理だ。お前も聞いていただろう。まだ、その時じゃない」

「でも……」

「今、お前を連れていったら、俺が国王から叱責される。場合によっては罰を受けるかもな」


 そこまで言われてしまうと、オデットとしては取りつく島もない。


「……いつ出発を?」


 召集令状を眺めながら、イリヤは答えた。


「今日を準備に費やして、明朝には発つ。目的地のエルス砦までは村から三日ほどで行けるから、二十四日までには十分間に合うだろう」


 オデットはイリヤの整った顔を見上げる。


「わたし、心配です。未来は少しずつ変わり始めているから……」

「ハーズとの外交に俺たちが関わっていない以上、大きく何かが変わるということはないだろう。それに、緒戦はリュピテール軍の勝利だったんだろう?」

「はい。イリヤさんなら大丈夫だと思いますけれど、油断だけはしないでくださいね」

「当たり前だ」


 イリヤは柔らかい表情を浮かべたが、ふと笑みを消した。


「お前に伝えていないことがある。今、聞いてくれ」

「はい……」


 イリヤが居間に入っていったので、オデットもあとに続く。一人がけの椅子に腰かけたイリヤはオデットに長椅子を勧めた。


「端的に言うと、時魔法は危険だ。何があっても二度と使うな」

「え、それはどういう……」


 驚くオデットにイリヤは説明した。

 時魔法が六属性の魔法全てを自在に操れる者にしか使えない、この世界の原理原則に反したものであることを。

 何度も使うと、時の牢獄に閉じ込められてしまうであろうことを。


 そこは、同じ時の流れが繰り返されるだけの恐ろしい場所だという。

 話を聞き終えたオデットは、指先が冷たくなっていることに気づいた。


「時魔法に、そんな反作用があったなんて……」


 一度目で発動しなくてよかった、と今のオデットは思うしかない。

 イリヤがこちらを見つめる。恐ろしく真摯な眼差しだった。


「俺がお前を連れていきたくない理由が分かるな? 命の危険が迫ったら、お前は無意識に時魔法を使ってしまうかもしれない。それに、お前は戦場慣れしていないから、俺や団員が怪我をしただけで、動転して時魔法を使ってしまう可能性もある」


 確かにそうだ。訓練の機会がなかった時魔法の発動は、制御できるかどうか分からない。

 さらに、次に使えば時の牢獄行きになってしまうかもしれない以上、不用意に戦場という不確定要素の多い場所に向かうことは、危険が大きすぎる。


(でも、一月十四日にはわたしも戦場に行きたい……)


 イリヤを直接守りたい。魔法の修行と比べれば割いている時間は少ないが、体術の稽古もイリヤにつけてもらっている。

 オデットがじっと見つめると、イリヤは優しく目を細めた。


「オデット、明日、団のみんなに聖女の祝福を授けてくれないか」


 オデットはしっかりと頷いた。


「はい、喜んで」


 翌朝、長い間、袖を通していなかった聖女の衣装に着替えたオデットは、広場に居並んだ戦地へ向かう団員たちを祝福した。

 戦勝と無事の帰還を祈り、魔法の幻影で作り出した鳥を飛ばしてみせると、みなは喜んでくれた。以前は起こすことができなかった奇跡だ。相性のよくない光属性魔法と風属性魔法を組み合わせてあるので、実は結構難しい。


 銀色の鎧を着込み、パドキアラ団の先頭に立った騎馬姿のイリヤがこちらを見下ろす。


「みんなを鼓舞してくれてありがとう。オデット、俺は必ず帰ってくる。心配するな」

「はい。イリヤさん、どうかお気をつけて」


 言葉にならない感情が溢れ出してきそうだ。オデットはイリヤたちのうしろ姿が点のようになるまで、残された村人たちとともに彼らを見送った。


   ◇


 ネリザ村を出てから三日後の朝、イリヤたちパドキアラ団はハーズとの国境近くのエルス砦に到着した。

 国境には雪をかぶった山脈が横たわっている。その景観を一望できるエルス砦は、歴史を感じさせる石造りの要塞だ。中に入り、砦を守る国軍や他の傭兵団との合流をすませる。


 このまま配置されるのを待つだけだと思っていたイリヤは、砦の守備を任されている将軍に招集された。

 中心に国境付近の地図が置かれた長机のある広間には、将軍をはじめ駐屯している国軍の高級将校や参謀、他の傭兵隊長がいた。傭兵隊長といっても、獣族ではない。確か貴族出身の人族ひとぞくだ。


 パドキアラ団の他にも獣族の傭兵団はいたはずだが、ここには呼ばれていないらしい。

 イリヤが入室すると、みながいっせいにこちらを見る。


(嫌な雰囲気だな……)


 平静を装って将軍の前に立ち、拳を水平に左胸に当てて敬礼をする。


「パドキアラ団の団長イリヤ、参りました。なんの御用でしょうか?」

「今回の戦い、そなたの意見も聞け、と国王陛下からお達しがあった」


 イリヤは少し意外に思った。確かに国王フィリップはパドキアラ団を買ってくれているが、軍略会議で戦略的見解を述べさせるとは。パドキアラ団が獣族の小規模な傭兵団であることを考えると、酔狂もいいところだ。


 それにしても、不思議だ。あの国王は別段、獣族に対して慈悲深いわけではなかった。むしろ、以前、王女が獣族と恋仲になったとかで、獣族を嫌っているという噂を耳にしたものだが……。

 イリヤはかしこまって応じる。


「それはもったいのうございます。……して、ハーズ軍の陣容は?」

「斥候によると兵数は三万、その内、騎士が七千強といったところだ」

「では、我が軍はいかばかりでございましょう」

「合わせて四万だ。騎士は八千」


 こちらのほうが多少優勢だが、戦力にさほど差はないようだ。

 それにしても、この大軍の前では約五百名のパドキアラ団など塵芥に等しい。

 そのゴミ屑に等しい集団の長を会議に呼ばねばらないのは、先方にとってさぞ屈辱だろう。


 前の時間軸でも自分がこの会議に呼ばれ、案が採用されたかは分からない。だが、オデットの記憶通り、おそらくリュピテールは勝つ。

 奇をてらわず、手堅い意見を具申しておくことにしよう。そして、戦果は必ず挙げる。


(戦功を立てれば、爵位の代わりにオデットを妻に所望できるかもしれない)


 イリヤはささやかな希望を胸に秘めていた。

 初志貫徹しないのか、とわらわれても構わない。オデットを妻にしたいという夢は、今まで仲間と獣族のために生きてきた自分が初めて抱いた欲求だった。

 思考を冷まし、イリヤはもしも自分が将軍であったならばどう兵を動かすかを述べる。


「兵力はこちらに分がございます。必要最低限の兵を砦に残し、進軍してくる敵の側背を大軍で突くのが妥当かと思われます」

「なるほど」


 将軍は軽く頷くと、イリヤに残りの会議も出席するように命じた。

 イリヤの案は少し手を加えられはしたものの採用された。

 ただ、イリヤは首脳部の悪意を勘ぐらざるをえない。パドキアラ団が側背を攻撃する集団の先鋒を命じられたからだ。


「一歩間違えれば、戦端が開かれてすぐにあの世いきだ」


 イリヤがぼやくと、正式に副団長になったセルゲイが笑った。


「うちの団は先手必勝が持ち味だよ」


 翌日の夕刻、パドキアラ団を含めたリュピテール軍は砦の北東にある山裾の森に兵を置き、ハーズ軍を待ち伏せた。

 森の入口に近い場所から木々の間を透かし見つつ、数時間は待っただろうか。獣族ゆえに夜目が利くイリヤの目に、黒々とした軍隊の列が山裾の前方に伸びる街道を進軍していく様が映った。彼らが南西のエルス砦を目指していることは明白だ。


 戻ってきた斥候が、相手がハーズ軍であることを先頭の端にたたずむ将軍に告げる。将軍はパドキアラ団の両脇に展開する弓兵の一団と魔法兵の一団を見渡すと、高く挙げた手を振り下ろした。


「撃て!」


 弓兵がアルバレートから矢の雨をハーズ軍に向けて浴びせかけ、リュピテール自慢の魔法兵が長距離射程の属性魔法を撃ち込む。火球が飛び、氷柱が降り注ぐ。

 混乱の渦に投げ込まれた敵軍を確認した将軍は、かすかに緊張した面持ちで再び手を振り下ろす。


「全軍突撃!」


 イリヤはパドキアラ団の面々を振り返る。


「俺に続け!」

「はいっ!」


 整然とはしていないが元気のよい返事を聞く前に、イリヤは森の外へと躍り出た。

 傭兵は隊長であっても、部下たちと同じく馬から降りて戦うのが基本だ。まして、獣族は馬と遜色ない速さで走れる上に、持久力もある。


 攻撃がやんだ隙に態勢を立て直そうとしているハーズ軍に近づき、突進していくと、兜の中で目を剥いているであろう敵の騎兵が次々と武器を手にする。

 イリヤは既に抜き放っていた剣を垂直に構える。精霊には、人間のようにそれぞれ固有の名がある。その名を唱えると魔法陣からグノームが現れ、イリヤの命に従い、敵兵たちに向けて岩のように鋭い土槍を放つ。


(オデット、許せよ……俺は人を殺す)


 お前を手に入れるために。お前を死なせないために。

 優しい彼女のことを思い出すと、戦意が挫けそうになる。イリヤは今この時に意識を集中し、魔法を使い、剣を振るった。


 勢いを緩めず、パドキアラ団は後衛の魔法士部隊にまで斬り込む。

 敵の魔法兵が応戦しようと風属性の真空波を撃ち込んでくるが、イリヤはシルフを呼び、風の防御壁で阻む。


 二発目を撃たれる前に、イリヤはすれ違いざま、相手の首筋に剣を打ち込んだ。

 敵を屠りながら、イリヤは敵将の姿を捜し、陣形を崩さずにパドキアラ団を率いながら戦場を駆けた。敵将を倒せばこの戦は終わる。


 血の臭いに嗅覚が麻痺しそうになる中、ようやくイリヤは見つけた。魔法士部隊に守られながら、指揮を出す騎士の姿を。

 あれが敵将だ。おそらく、奇襲を受けたために後方に下がったのだろう。


 確信したイリヤが敵将に肉薄すると、周囲の魔法兵たちが一致団結して炎を放ってくる。

 イリヤはオンディーヌを召喚し、半球形の水の防御壁で炎を防いだ。

 即座に精霊言語でオンディーヌに命じる。


『氷柱を放て。兵に守られている甲冑を着た敵にだ』

『イリヤはいつも精霊ひと使いが荒いわねえ』


 おどけながら、オンディーヌは繊手を空に向けた。

 次の瞬間、巨大な氷柱が空から降り注ぎ、敵将の身体を斜めに貫く。即死した敵将は馬から転げ落ちた。

 動揺が魔法兵を中心にしてハーズ兵たちに伝わっていく。


「将軍が、将軍がおたおれになった……」

「退け! 退けー!」


 潮が引くようにハーズ軍は退却していく。


「深追いするな!」


 オンディーヌをアストラル界に帰したイリヤは団員たちに告げた。

 実質的な戦いは終わった。

 先鋒であるパドキアラ団の奮戦に勢いづいたリュピテール軍は、退却せずに抵抗を続けていたハーズ軍の一部も制圧し、ついに全軍を潰走させた。


 先ほどまで戦場だった街道は、多くの屍を残しながらも静けさが戻り始めている。

 日付はとうに変わっているはずだが、まだ陽が昇らぬ冬の夜空をイリヤは見上げた。太陽の下で見れば、自分の銀の鎧はさぞ返り血にまみれていることだろう。

 戦時とはいえ、人を殺し続ける自分がロドリグに殺されることは、ある意味では報いなのかもしれない。だが、それでも。


(俺はオデットと、ほんの少しでも長く、ともにありたい)


 この願いは強欲だろうか。


「ひとまず、終わったね」


 無事だったセルゲイが近づいてきた。イリヤは剣を鞘に納める。


「……レーヌス兵がいなかったな」


 レーヌスの傭兵たちは、揃って黒い鎧を身につけている。だが、黒い鎧をつけた獣族の姿は、ついぞ見なかった。

 セルゲイが首を捻る。


「レーヌスは今回の戦争には参加しないんじゃないかな」

「希望的観測で物事を考えるな」

「はいはい。『常に最悪の予想を立てろ』。イリヤの口癖だもんね」


 だが、そんな自分でも、前の時間軸ではロドリグにしてやられた。正確には、その背後にいるハーズにだが。

 今回は同じ撤は踏まない。時間を戻したオデットは数ある可能性の中から、自分を救う道を選んでくれた。彼女の想いに応えたい。


(オデット……)


 思い出してしまうと、一刻も早く会いたくなってくる。村に家族を残している団員の気持ちが今なら分かる。

 それに、何か、うまく言い表せないような嫌な予感がする……。

 イリヤはセルゲイに顔を向けた。


「セルゲイ、団員の生死を確認したあと、砦に戻って将軍に報告をすませたら、戦後処理を待たずに俺は村に帰る。すまんが、あとを任せられるか。みんなを休ませてやってくれ」


 セルゲイはこげ茶色の目を見張った。


「別に構わないけど……どうしたの? いきなり」

「心配なんだ」


 それだけ答えると、イリヤは砦に戻るため、団員たちを集め始めた。

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