第16話 企みと神殿からの客人

 オデットがネリザ村に滞在するようになってから約三か月後。一人の獣族の男がネリザ村にほど近いキャルムの街の酒場に現れた。

 獅子の頭と黒いたてがみ、毛皮に包まれた身体と先端が房飾りのような尻尾を持つヴァジームである。


 オデットの拉致をイリヤに阻まれてからというもの、ヴァジームはいらついた日々を過ごしていた。

 この三か月、王都付近に出た魔物の討伐くらいしか仕事がなかったのもあるが、もっと重大なことがあった。イリヤの態度が変わり始めたのだ。


 以前は挑発するとそれなりの反応が返ってきた。だが、今はオデットにかかりきりで、そのようなこともなくなった。こちらを軽く見ている、というより無関心なのだ。


 一度だけ、イリヤの前でオデットを侮辱してみたことがある。

 その時のイリヤの目つきは凄まじかった。「二度とつまらんことは言うな」と低く押し殺した声ですごまれた時の恐怖は未だに消えていない。


(くそっ! 人族の女なんぞに肩入れしやがって!)


 ダン! と乱暴にいつもの席に腰かけると、向かいに座っていた人族の先客が口の端をつり上げた。


「どうした? 荒れているな」

「なんでもねえよ。……今日の要件はなんだ?」


 目の前の男は笑みを消した。


「聖女オデットの修行の進捗状況について教えて欲しい」

「ああ。イリヤが人族の知り合いを呼んで、修業をさせているらしいが……魔法なんぞ、使えるようになっても大した意味はねえだろう」


 イリヤが人族を村に入れることも、ヴァジームは気に食わない。

 天井からつり下がったランプの明かりに照らされ、男の目がうっすらと光った。


「そんなことはない。獣族と違って恩寵を使えない人族にとっては、重要なものだ。それに、イリヤが『最強の傭兵隊長』などと謳われているのは、魔法が使えるからだろうが」

「……あいつは、魔法なんぞ使わなくても強いんだよ」


 そうだ。自分がイリヤに従って副団長に甘んじているのは、奴が圧倒的に強いからだ。

 しかし、イリヤが魔法に傾倒しすぎ、あんな小娘の力を頼りにするようになったら……。

 ヴァジームは我知らず拳を握りしめた。

 男は硬貨の詰まった袋をテーブルの上に置いた。


「まあ、いい。指示は追って伝える。お前だって、団長になりたいのだろう?」

「ふん……」

「あのお方は、お前を買ってくださる。それを忘れるな」


 男は席を立った。

 ヴァジームは男が去ったあとも酒を頼む気になれず、ただ袋を眺めていた。


   ◇


 その日、オデットは居間の中心に置いた椅子に座り、瞑想をしていた。

 傍にはアドリーヌがついていて、表出魔力の循環が悪くなったり、姿勢が崩れたりすると教えてくれる。


 パスカルは主に座学と実技を教えてくれるので、今は長椅子でイリヤと話しながら、くつろいでいる。

 パスカルとアドリーヌが教えてくれるようになってからは、変な緊張をしなくてすむようになったこともあり、修行は順調に進んでいた。


 イリヤの教え方もうまかったけれど、弟子を二人も育て上げただけあって、パスカルの教え方の分かりやすさは群を抜いていた。

 神殿で彼のような教師に出会えていたら……と思わずにはいられないほどに。

 まあ、魔力腺が閉じている状態では、さすがのパスカルでもどうしようもなかったとは思うけれど。


 無の境地になって、ただ自分の呼吸と魔力の流れに集中していると、突然、玄関の扉を叩く音が響いた。

 人が立ち上がる気配がして、居間の扉を開ける音とともに足音が玄関広間へと消えていく。玄関の扉を開ける音がして、話し声が聞こえてきた。

 再び居間の扉が開かれると、二人分の足音がした。


「オデット、少しいいか」


 イリヤの声にオデットは目を開けた。

 イリヤが団員のセルゲイを連れて目の前に立っている。

 セルゲイは狸の耳と尻尾を生やしたやや小柄な青年で、傭兵らしからぬ温和そうで少し可愛らしい顔立ちをしている。パドキアラ団の実務を一手に引き受けていて、団員たちだけでなくイリヤからの信頼も厚い。

 そのセルゲイが困ったような顔をして、口を開いた。


「実は、エウリサード神殿からいらっしゃったという人族の女性をお待たせしているのです。オデットさんに会いたいとおっしゃっているので、申し訳ないですが、いらしてくださいますか?」


 神殿から来た女性と聞いて、オデットの脳裏に浮かんだのは付き人のポーラだ。だが、一応名前を確認しておく。


「お手数をおかけしてしまってすみません。あの、その女性の名前は……?」

「ジェルヴェーズ・ド・バレとおっしゃっています」


(そっちかあ……)


 約三か月半前に別れて以来、特に思い出すこともなかった次期聖女候補ジェルヴェーズ。神殿で顔を合わせるたびに、こちらに嫌味ばかり言っていた彼女のことだ。多分、ろくな理由で会いにきたのではないだろう。


 だが、会いたくないと正直に言ったら、セルゲイや今彼女を接待しているであろう村人たちに迷惑がかかってしまう。

 オデットは立ち上がった。


「今すぐ行きます。セルゲイさん、案内していただけますか?」

「はい、もちろん」

「ところで、彼女は今、どなたのお宅に?」


 セルゲイは眉を下げて苦笑した。


「馬車の中でお待ちになっていますよ。どこかの家でお待ちになっていただこうとしたのですが、獣族の家になど入りたくない、と頑なにおっしゃって」


 ダメすぎる。礼儀もわきまえない馬鹿貴族を一刻も早くなんとかしなければ。


   ◇


 オデットがセルゲイに先導されていくと、村の入口付近にエウリサード神殿の馬車が止まっているのが見えてきた。

 ちなみに、なぜかイリヤもついてきている。


「……イリヤさん、わたし一人でも大丈夫ですよ。セルゲイさんも一緒ですし」

「お前が口を滑らせないか心配だからな。俺も行く」


 信用がないなあ、と思いつつ、オデットは歩を進める。馬車の手前に到着すると、乗馬を近くの木に繋いで待機している護衛の神官兵にセルゲイが声をかけた。


「聖女猊下げいかをお連れしました」


 護衛が馬車の扉を開ける。

 護衛に手を取られ、中から豪華な巫女装束姿のジェルヴェーズが現れた。オデットの姿を認めると、小馬鹿にしたような笑みを浮かべる。


「あらあら、オデットさま、お久しぶりね。そんな下々の者が着るようなものをお召しになって……すっかりこの獣臭い村になじんでしまわれたのかしら?」


 オデットが今身につけているのは、庶民の女性が着るチュニック型衣服コットを重ね着したものだ。平民出身の自分にとっては別に嘲られるいわれはないし、村のことを悪し様に言われるのも腹立たしい。

 胸のむかつきを抑えて尋ねる。


「……なんの御用ですか? ジェルヴェーズさま」


 ジェルヴェーズは嫣然えんぜんと笑った。


「あなたに聖女を辞めていただくために」


 聖女を辞めるなど、個人の一存でどうにかなるものではない。オデットは思わず声を出した。


「え……?」

「あなた、ロドリグ殿下との婚約を取りやめておいて、どうしてまだ聖女の座に居座っておられますの? さっさと聖女をお辞めなさい。でないと、わたくしが次の聖女になれませんわ」


 そんな無理難題を言われても困る。第一、今聖女を辞めさせられたら、イリヤと一緒に暮らす口実が失われてしまう。これは、ちょっと個人的すぎる事情だけれど。


「そのようなことをおっしゃいましても……」


 ジェルヴェーズが柳眉をつり上げた。


「聞くところによると、あなた、王太子殿下を狙っておられるそうね?」


 確かに、イリヤがオデットとロドリグの婚約を白紙に戻すべきだと上申した際に、代わりに王太子との婚約を考えるべきだとも言っていた。

 だが、自分は一度だって王太子と婚約したいと思った覚えも言った覚えもない。


「は?」

「王太子殿下と婚約するのはわたくしです。あなたのような無才がいくら魔法を学び直したとしても、無駄な努力です。さっさと聖女の地位をわたくしに譲って引っ込んでいらして」


 あまりに偏見に満ちすぎている上に一方的なジェルヴェーズの中傷と要望に、オデットは言い返す気も失せて、心の中で嘆息した。

 その時、今まで黙ってたたずんでいたイリヤが前に進み出る。


「失礼ですが、聖女猊下は無才ではあられませぬ。それどころか、魔法の才能だけで言えば、歴代の聖女の中にも猊下を凌ぐお方は存在なさらないでしょう」


(イリヤさん……)


 胸の奥がじんとして、オデットはイリヤをただ見つめた。


「お黙りなさい! 獣族風情が!」


 鋭い声を発したジェルヴェーズがイリヤを睨みつける。彼女はよくこうやって気に食わないことをした付き人を叱りつけていた。

 あの頃は、貴族出身のジェルヴェーズを注意することができず、付き人に同情しながらも何も言えずにいた。

 でも、怒鳴られたのがイリヤとなれば話は別だ。オデットはジェルヴェーズの目を見据えた。


「謝ってください」

「はぁ?」

「イリヤさんに謝ってください。種族が違い、あなたより身分が低いからといって、何を言っても許されるわけではありません」


 イリヤが目を見張る。


「オデット……」


 ジェルヴェーズも驚いたらしく、目を瞬いていたが、すぐに唇を歪めた。


「まあ、身分卑しき者の肩をそこまで持つだなんて……さすが現役の聖女さまはお優しいですわあ。わたくしは謝りませんわよ。出過ぎた真似をしたその者が悪いのですからね」


 怒りのあまり、オデットの中で魔力が暴れ狂っている。何かきっかけがあれば、魔法の形を取って放出されてしまいそうだ。


「オデット、やめろ」


 イリヤの大きな手が肩に置かれた。そのとたん、頭と身体の熱が急速に静まり、代わりに温かな感情が内側から溢れてくる。

 イリヤが囁いた。


「俺のことはいい。国王の名前でも出して、相手を帰らせろ」


 そういうわけにはいかない。想い人を侮辱されて引き下がったとあっては、女がすたる。オデットは深呼吸するとジェルヴェーズに言い放った。


「ジェルヴェーズさま、魔法で勝負しましょう」

「勝負?」

「はい。あなたが勝ったら、わたしは聖女の地位を退きます。ですが、わたしが勝ったら、イリヤさんに謝ってください」


 しばし呆気に取られていたジェルヴェーズだったが、やがて可憐な唇をつり上げた。


「構わなくてよ。魔法でわたくしがあなたに負けるはずがありませんもの」


 ジェルヴェーズと睨み合う中、イリヤのため息が耳に届いた。

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