第14話 パスカルとアドリーヌ
イリヤが手紙を王都に向かう団員に託したあとも、オデットは一人で基礎訓練に勤しんだ。
イリヤは自身がいるとオデットの修行がはかどらないと思ったのか、外で農作業をしていることが多くなった。そんな気遣いにもかかわらず、屋内に戻った折に汗を拭うイリヤを見るだけで、オデットの集中はかき乱されてしまうのだが。
手紙を出してから九日後の昼前、昼食を作っていたオデットは畑で育てているキュウリをイリヤにもらうために外に出た。
採れたての野菜でサラダを作るのは、なんだか贅沢でオデットの楽しみのひとつだ。
腕によりをかけて作った料理をイリヤに食べてもらえるのは嬉しいし、たまに味を褒めてもらえると、天にも昇る心地だ。もちろん、イリヤの作ってくれる料理を食べるのも好きだ。
戸外ではイリヤが来客の応対をしていた。村人ではない。人族の男女だ。二人とも乗馬を連れている。
イリヤが頭を押さえてぼやく。
「……なんで、あんたまで来るんだ」
「手紙の内容が穏やかじゃなかったからな。それに、教えることに関しては、アドリーヌよりも俺の本分だ。俺自ら出向いたんだ。礼金は弾んでもらうぞ。稼いでるんだろ?」
「仕方ないな……。それで、あんたの見解は?」
「ま、それはあとでな」
三十代後半くらいに見える、無精髭を生やし、ややくたびれた印象の男性がイリヤの肩を叩いて脇にどく。
そのとたん、彼の横に立っていた女性がイリヤにがばっと抱きついた。
(え……!?)
「イリヤ~! 元気だった? ご飯ちゃんと食べてる?」
「……相変わらずだな、お前……」
イリヤは女性を軽く抱き返し、背をぽんぽんと叩く。
オデットの中で何かが崩れた。
「可愛い~! 尻尾振ってる! モフモフ! モフモフ!」
「おい! 尻尾はやめろ! 触るな!」
オデットは自分が石像になって、びしりとヒビが入りつつあるのではないかと思った。
男性が苦笑する。
「おい、アドリーヌ、いくら相手がイリヤだからって、旦那の前でそれはないだろ」
アドリーヌと呼ばれた女性はイリヤから離れると、男性に向き直る。
「ごめんなさい、あなた。久しぶりで、ちょっと興奮しちゃった」
(……え? 夫婦? え?)
では、イリヤとアドリーヌはそういう関係ではないというわけか。……それにしても、ちょっと親しすぎるような気がするけれど。
気持ちを新たにしたオデットは、二人を紹介してもらうことに決めた。
多分、アドリーヌがイリヤの言っていた教師を務めてくれるという魔法士なのだろう。先ほどの会話の流れから察するに、彼女の旦那さまが代わりに教えてくれるのかもしれないが。
「あの、イリヤさん」
オデットが前に進み出てて声をかけると、イリヤの肩がびくっと跳ねた。
「オデット……お前、いつからそこに?」
イリヤの尻尾が下がったままゆらゆらと揺れている。
どうやら彼は不安を感じているらしい。実家で牧羊犬を飼っていたオデットには分かる。
自分は彼の恋人ではない。だが、想いを寄せる者として、なんらかの意趣返しをしてもいいのではないかと思う。オデットは正直に伝えた。
「そちらの方が、手紙がどうとかおっしゃっていたあたりから」
「……………………そうか」
若干うなだれたイリヤは、疲労
「……彼らが今日からお前に魔法を教えてくれる」
「パスカル・ブランシュです」
「アドリーヌ・ブランシュです。よろしくお願いいたします」
赤い巻毛に青い瞳のアドリーヌは二十代後半だろうか。イリヤの隣に立っても見劣りしないくらい綺麗な女性だ。優しくほほえむ彼女の顔には悪意の欠片もない。
仕方ない。彼女はこちらに気づいていなかったし、自分がイリヤを好きなことを知らないのだから。
オデットは気を取り直すことにした。
「聖女オデットと申します。よろしくお願いいたします。わたしは一応、現役の聖女ではありますが、教えていただく立場なので、敬語などは特にお気遣いなく。わたしのことは『オデット』とお呼びください」
「まあ……いいお嬢さんね、イリヤ」
アドリーヌに同意を求められたイリヤは、むすっとして何も答えない。
家主がこれでは仕方がないので、オデットはパスカルとアドリーヌに家の中に入ってもらうことにする。
「あの、お二人とも、暑いでしょうし、中にお入りください。お口に合うがどうか分かりませんが、今、昼食を作っていますので、あとで召し上がってくださいね」
アドリーヌが目を輝かせる。
「まあ……! 本当によくできたお嬢さんね、イリヤ」
イリヤは意地でも答えたくないらしい。無言を貫く彼がちょっとだけ面倒になったオデットは「イリヤさん、キュウリを二本お願いしますねー」とだけ声をかけ、二人を家の中に導き入れた。
居間に通されたパスカルとアドリーヌは顔を見合わせ、くすりと笑った。歳は離れているが、気心の知れた夫婦なのだろう。
居間の長椅子を二人に勧めたあとで、オデットは気になっていたことを尋ねる。
「あの、失礼ですが、お二人はイリヤさんとはどういうご関係なのですか?」
パスカルが長椅子にかけながら頬をかく。
「うーん、まあ、師匠と弟子ということになるのかな。まだガキだったあいつを引き取って、五年ほど一緒に暮らしたんだ」
パスカルの隣に腰かけたアドリーヌがほほえむ。
「わたしは言わば姉弟子ね。この人とは師弟だったから。今は旦那さまだけど」
師匠に姉弟子。少し意外だった。イリヤは初めから誰の手も借りずに、独力で今の彼になってしまったかのような印象があったから。
オデットは新たに生じた疑問もぶつけてみる。
「アドリーヌさんも、一緒に暮らしていらっしゃったんですか?」
「ええ。わたしは住み込みの弟子だったから。子どもの頃のイリヤは本当に可愛かったのよ。いつもひよこみたいにわたしのあとをくっついて歩いて……」
(いいな! 子どものイリヤさん、わたしも見たかった!)
イリヤの子ども時代を想像し、心の中でひとしきりもだもだしたオデットに、アドリーヌが感慨深げに言う。
「ここに来て安心したわ。イリヤが傭兵になるって言い出した時は反対したものだけど、村の雰囲気はいいし、あの子はオデットさんみたいなしっかりしたお嬢さんと暮らしているし」
オデットは気恥ずかしくなった。
「い、一緒に暮らしているといっても、期間限定なので……」
アドリーヌが立ち上がる。
「ね、オデットさん、ちょっとこっちへ来て」
「は、はい」
オデットはアドリーヌとともに居間の隅へと向かう。
アドリーヌが囁いた。
「違っていたらごめんなさいね。もしかして、オデットさん、イリヤのことが好きなの?」
頬から耳たぶのあたりまでが熱くなる。今、自分の顔は真っ赤なリンゴみたいになっているに違いない。
「えーと……その……」
アドリーヌは優しく笑った。
「やっぱりそうなのね。さっきはごめんなさい。驚いたでしょう」
正確には驚いたなんてものじゃないのだが、言葉を濁しておく。
「はい……まあ」
「イリヤはわたしにとって、弟とか息子みたいなものだから。あの子もわたしのことを、姉みたいに思っているんじゃないかしら」
オデットにも兄弟がいるけれど、疎遠になってしまったので、今の彼らへの感情は、曇り空から覗くお日さまのようにぼんやりとしている。
ただ、元気かな、と時々思い出し、あの家に残れて羨ましいと思うだけだ。
だから、イリヤのアドリーヌへの想いも想像するしかなかった。それは姉に対するような感情なのか、母に対するような感情なのか。それとも……。
考えても仕方ない。元々、こちらが勝手にイリヤを好きになったのだ。彼が誰を好きでいようと、イリヤを守れるようになるために精進するだけだ。
それにしても。
(イリヤさんは、どうして二人に引き取られることになったんだろう)
どうも彼は普通の家庭で育ったわけではなさそうだ。イリヤに料理を教えたのも母親ではなく、アドリーヌなのだろう。
オデットは意を決して、疑問を声に変えた。
「あの、アドリーヌさん。イリヤさんは、どうしてお二人のところに?」
アドリーヌの顔が憂いを帯びた。
「それは、あの子が話したくなった時に訊いてみて。わたしから話していいようなことじゃないから」
朗らかなアドリーヌらしからぬ答えに、オデットは焦った。
「す、すみません。わたし、出過ぎたことを訊いてしまって……」
アドリーヌは再びほほえんだ。
「いいのよ。好きな人のことを知りたいと思うのは、自然な感情だもの。オデットさん、わたし、あなたがイリヤを好きになってくれて嬉しいの。応援するわ」
「あ、ありがとうございます。ですが、それよりも、魔法のご教授を……!」
「うふふ、そうね。教えるのは夫で、わたしはその補助をすることになると思うけど、よろしくね」
心強い味方を得たと喜んでよいものか悩みながら頷くと、イリヤが居間に入ってきた。
「なんだ、話し込んでいたのか。飯を作らないなら、俺が代わりにやる」
イリヤは手に二本のキュウリを持っている。ちゃんと話を聞いてくれていたのだ、とオデットは嬉しくなった。
「いえ、わたしがやります」
オデットはイリヤに駆け寄ってキュウリを受け取ると、アドリーヌに目礼して台所に向かった。
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