第9話 時魔法を使った張本人と薔薇園
国王フィリップの沙汰は翌日に出た。
再び謁見の間に召し出されたオデットとイリヤが告げられたことは二点。オデットとロドリグの婚約を白紙に戻す旨と、イリヤがネリザ村でオデットの魔法教育を行うことを許可する旨だ。
期限は半年。ちょうど、前の時間軸で起こったハーズとの戦が始まる頃だ。
フィリップは成長したオデットを近いうちに勃発すると予想される実戦に投入したいのだろう。
イリヤを守るためには戦場に出る必要があるのだから、望むところだ。
これでロドリグとは婚約する必要がなくなった。
あんな卑劣漢を夫にしなくてもすむのだと思うと、今すぐ神々に感謝の祈りを捧げたくなる。
それに、大手を振ってとはいかないが、イリヤに想いを寄せても誰も咎めはしない。
フィリップに感謝を述べ、謁見の間をあとにすると、扉の前にロドリグがたたずんでいた。
ロドリグはイリヤに剣呑な目を向けたあとで言い放つ。
「獣族風情が、父上に気に入られているからといって、いい気になるなよ……今に見ていろ」
イリヤの返事を待たずに、ロドリグは歩き出す。
「まあ、なんてことを! 捨て台詞もいいところです!」
オデットが憤慨の気持ちを表に出すと、イリヤが不思議そうにこちらを見る。
「……そういえば、あなたさまは獣族を差別なさらないのですね」
オデットはきょとんとしてしまう。
「え? 子どもの頃、獣族の子と仲良くしていましたし、親から注意されることもありませんでしたよ。わたしの両親は羊飼いでしたから、家畜の扱いに慣れた獣族の方にはだいぶ助けられたようで。確かに、神殿にいた頃は嫌な話も聞きましたけれど……本来、人が人を差別するなど、あってはならないことでしょう?」
「一般的な人族は、獣族のことを人とは思っていないのですよ。あなたさまは、少し特殊なお考えをお持ちのようだ」
自分が変わっているということだろうか。少し納得できなくて、オデットがイリヤをじっと見上げると、彼はほんの少しだけ笑みを浮かべた。
「少し、お時間をいただけますか?」
イリヤが比較的柔らかな表情になるのは珍しい。オデットは少しそわそわしてしまう。
「は、はい。それは構いません。わたしもイリヤさまに訊きたいことがありますし……」
「では、わたしについてきてください」
こちらに背中を向け、廊下を歩き出すイリヤにオデットはついていく。イリヤは回廊に出ると中庭を突っ切り、ある一角で足を止める。
そこは、手入れの行き届いた薔薇園だった。
ロマンティックな場所だが、イリヤの性格からして、そういう理由で自分を連れてきたわけでないだろう。
イリヤは辺りを見回した。銀に黒毛の交じった彼の両耳が様々な方向に動く。こうしてイリヤの耳が動くのは初めて見た。
(可愛らしい……)
イリヤが安心したように口を開く。
「誰もいないようです。話を始めましょうか」
「はい」
「わたしがお伝えしておきたいのは、聖女
「その通りです」
「これは、まだ仮説にすぎませぬが──おそらく、原因は猊下がご体験なさった前の時間軸にあると思われます」
やはり、そうなのか。オデットは自分の考えをイリヤに話してみることに決めた。
「わたしも考えていました。前の時間軸で殺されかけた時に、わたしは強く後悔したのです。それがきっかけで、魔力腺が開いたのですね」
イリヤは重々しく頷いた。
「さようでございます。そうとしか考えられませぬ。命の危機を前にして生存本能が目覚め、常識では考えられぬ力が発揮されるのは珍しいことではございませぬから」
イリヤの表情がさらに真剣味を増す。
「それと、もうひとつ。これは、なぜ、時魔法などというものが発動し、時間が巻き戻ってしまったのかに関することなのですが──」
すごい。イリヤはもう、そのことについても仮説を立てているのか。
イリヤは間を置いたあとで、ゆっくりと告げた。
「時魔法をお使いになられたのは、魔力線が開放されたあなたさまです、猊下」
一瞬、イリヤが口にした言葉の意味が分からずに、オデットは声を失う。
しばらくして、オデットはようやく声を絞り出す。
「……わ、わたしが……? そんな、時魔法のような伝説級の魔法を、いくら魔力腺が開いたからといって、わたしが使えるわけが……」
「しかし、それ以外に説明がつきませぬ。おそらくは、あなたさまの強い後悔が時魔法を誘発したのでしょう。猊下は『やり直したい』と強くお念じになったのではございませぬか?」
正確には「もし生まれ変われたら、絶対にイリヤを死なせない」と思ったのだが、似たようなものだろう。
それにしても、自分の身内にそれだけのことを可能にする魔力が存在しているという事実が空恐ろしくて、オデットは自分の身体をぎゅっと抱きしめた。
うつむいていると、たとえようもなく落ち着くイリヤの静かな声が降ってくる。
「このことは、国王陛下にも決して申し上げませぬ。今のままでもあなたさまの魔力は、権力者の格好の餌食となりうるのです。ロドリグ王子も昨日の謁見で、あなたさまの価値にようやく気づいたのでしょう」
ロドリグは小物だが、前の時間軸の記憶を思い起こしても、既にハーズと通じていると見て間違いないだろう。
そのロドリグが自分の魔力を狙っているかもしれない。王子の冷たい目と声が蘇り、オデットは手に力を込めた。
イリヤはオデットに言い聞かせるように語を継いだ。
「今のままでは、時を巻き戻した時のように、いつ何時、魔力が暴走するかもしれず、その意味でも大変危険です。ですから、わたしはネリザ村で、あなたさまの魔力と魔法を操る技術を鍛えます。……わたしの役にお立ちなさい、猊下」
オデットは顔を上げた。言い方は
そうだ。元々、自分はイリヤが死ぬ未来を変えたかったのだ。そのために時を巻き戻してしまったのなら、もう迷うことはない。
オデットはイリヤの金の瞳をまっすぐに見つめる。
「……はい。わたしでよければ、あなたのお役に立ちたいです、イリヤさま」
イリヤは目を見張った。何度か薄い唇を開閉し、ようやく言葉を紡ぎ出す。
「──前から思っていましたが、そのイリヤ『さま』というのはおやめください。あなたさまはわたしより、ずっとご身分が高くておいでになるのですから」
「でも、イリヤさまはイリヤさまです」
イリヤはため息をつく。
「では、『さん』でよろしいです。それと、敬語もおやめください。くすぐったくてかないませぬ」
「これは、癖なので直せません。イリヤ……さんこそ、わたしに過剰な敬語を使う必要はないでしょう? わたしに魔法を教えてくださるのですから。普通は、弟子が師匠に敬語を使うものです。『猊下』と呼ぶのもなしです」
両拳を握りしめて力説すると、イリヤはさらにため息をついた。
「……勝手にしろ」
イリヤが初めてオデットに向けた、敬語で飾られていない言葉は、そっけないが温かい響きを帯びていた。
やっぱり、わたしはこの人のことが好きだ。その気持ちだけでとても幸せで、オデットはにっこり笑った。
イリヤは戸惑ったような顔をしていたが、すぐにくるりとオデットに広い背中を向けてしまう。そのまま、彼は言った。
「オデット」
初めて名前を呼ばれた。喜びが溢れてきて、オデットはイリヤが見ていないのにもかかわらず、続けざまに笑みを咲かせた。
「はい」
「お前には誰にもない才能がある。くだらない奴らにその才能を利用されるな。そのためにも強くなれ」
さっきは「わたしの役にお立ちなさい」と言っていたのに、イリヤは自分自身のために強くなれと言ってくれている。
あれは、オデットの反発心を刺激し、奮い立たせるための言葉だったのだろう。オデットの胸の中に温かなものが満ちていく。
「はい……!」
答えると、先端だけが黒い、イリヤの銀の尻尾がゆっくりと左右に揺れる。
イリヤでも、尻尾で感情表現をすることがあるのだ。なんだかほほえましくて、オデットはにこにこしてしまう。
オデットは歩き出したイリヤのあとについていくために、足を踏み出した。
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