第2話 既視感と予知能力

 オデットはまぶたを開けた。朝の淡い光が目に飛び込んでくる。

 ドッドッドッ……と、身体中に響き渡るくらい心臓が早鐘を打っていた。身体は強張っている。悪夢を見た時特有の嫌な感覚だ。

 天井は神殿内の見慣れた自室のものだった。


 それにしても、ロドリグが裏切っていて、イリヤが──殺されてしまい、自分も殺されかけるなんて、嫌な夢を見たものだ。

 あとを引く恐怖から逃れるために、寝台の上でぼんやりと仰向けのままでいると、扉を叩く音が響く。返事をしたら声が掠れた。


「……入ってください」

「失礼いたします」


 入室してきたのは、付き人の少女、ポーラ・エルディーだった。

 オデットの寝台を覆い隠している天蓋カーテンを左右にまとめ、つり目がちな愛嬌のある顔に笑みを浮かべる。


「起きていらっしゃったのですね、オデットさま」


 オデットは起き上がった。


「ええ。嫌な夢を見たせいで、早くに目が覚めてしまって」

「そうなのですか? わたしはてっきり、気が高ぶって早めに起きてしまわれたのかと思いました」


 今日は、なにか特別なことでもあっただろうか。思い出そうとするが、まったく思い当たらない。

 ……そういえば、今日は何日だっただろう。

 ぼんやりとした頭を回転させる。


 確か……一月の十四日。リュピテール暦三八二年の。オデットは先月に十八歳の誕生日を迎えたばかりだった。


(あれ……?)


 おかしくはないだろうか。

 ロドリグと婚約したあと、自分は宮廷のしきたりを学ぶために王宮で暮らしていた。それなのに、なぜ、住み慣れた神殿の自室で眠っていたのだろう。


 それに、今日が一月十四日だとしたら、オデットは戦場にいなければならない。

 そうだ。自分は自軍の天幕で朝を迎えたあと、閲兵し、戦勝を祈ったのだ。兵たちの中には確かにイリヤの姿もあった。

 もしかして、自分はまだ覚めない夢の中にいるのだろうか。

 混乱しながら、オデットはポーラに尋ねる。


「ポーラ、今日は何日ですか?」

「十四日ですけれど」

「そう……」


 こんなことがあるのだろうか。状況はちぐはぐなのに、日付だけが合っているなんて。

 きょとんとしていたポーラが吹き出す。


「嫌ですよお、オデットさま。王都に向かう日にちをお忘れになるなんて」

「王都? なんのために……? 公務でもあったかしら」


 もはや自分自身ですら信用できなくて、質問することしかできない。

 ポーラは困ったように答えた。


「なんのため……って、ロドリグ殿下との婚約式のためでしょう」

「え……!?」


 ロドリグとの婚約式が行われたのは半年前のはずだ。唖然としたあとで、オデットはポーラの肩を掴む。


「教えてください。今日は何年の何月何日ですか?」


 オデットの勢いに呑まれたのか、ポーラも唖然とした表情で答える。


「……リュピテール暦三八一年の七月十四日……ですけれど」

「──ありがとう」


 オデットは小声で礼を言うと、室内履きを履いて立ち上がった。

 まるで、夢遊病にでもかかったかのようにふらつく足取りで、寝台を離れる。

 暖炉を見たが、火がくべられていない。冬であれば、ポーラが薪に火をつけてくれるのに。それに、この室温は真冬の朝にしては暖かすぎる。

 オデットは窓辺に立ち、カーテンを開ける。


 外の景色は雪どころか冬枯れの木立の姿すらない、生き物が生を謳歌する夏の緑だった。


 自分を取り巻く状況に混乱したオデットは頬をつねってみる。

 痛い。ということは、これは夢ではないのだ。

 酷い悪夢を見たせいで、時間の感覚や記憶が混乱しているに違いない。


(ということは、わたしはイリヤさまに会ったことがない……?)


 むろん、イリヤという高名な傭兵隊長は実在している。

 しかし、王都を何度も訪れた際に会ったことのあるロドリグに対し、戦場で活躍するイリヤとは今まで顔を合わせたことはないはずだ。

 今日が本当にリュピテール暦三八一年の七月十四日だとすれば。


 絵姿を見たことがなくても、銀髪で見目のよい獣族の若者だということは噂に聞いていたから、無意識に姿形を想像して、夢に現れてしまったのだろうか。

 婚約式という将来の伴侶が正式に決定する儀式を控えて、少し神経質になっているのかもしれない。


 だからといって、婚約が内定している身で他の男性に心を奪われる夢を見てしまうなんて。


 ため息をついて振り返ると、心配そうな顔のポーラが控えていた。オデットは笑顔を作り、彼女に呼びかける。


「ポーラ、変なことを言ってごめんなさい。少し疲れているみたいです。支度をお願いできますか?」

「はい、もちろん」


 ポーラが嬉しそうに表情を緩めたので、オデットもほっとして着替えさせてもらう。

 王都に向かう日だけあって、衣装は華美ではないものの、高位の聖職者にふさわしい、金の刺繍の施された上質な白の衣だった。ゆったりと広がるスカートが優雅だ。


 化粧台の前に座ると、鏡に自分の顔が映る。

 ぱっちりした緑色の瞳に、癖のある栗色の髪。不細工ではないが、特に美人というわけでもない。

 体型だけは褒められるけれど、主にポーラからの賛辞なので、信頼性に乏しい。彼女は神殿の人間にしては珍しく、オデットに好意的すぎるのだ。


 お下げ髪を頭の左右の高い位置でまとめてもらい、薄く化粧を施される。

 ポーラと他愛もない話をしていると、これが現実なのだ、という感覚が少しずつ戻ってきた。


「オデット、わたしだ。入るぞ」


 扉を叩く音と同時に低い声が聞こえた。大神官だ。オデットは反射的に立ち上がり、姿勢を正す。


「どうぞ、お入りくださいませ」


 白と金という配色の、裾の長いローブをまとった老年の大神官が入室してきた。彼は貫禄のある顔に笑みを浮かべる。


「おはよう、オデット」


 このエウリサード神殿では、聖女であるオデットと大神官の二人が最も高い地位を占めている。

 といっても、ふたつの地位の役割は明確に分けられており、代表の役目は大神官が担い、聖女はもっぱら儀式を担うことが多い。


 神殿内には同格の指導者が二人いるわけだが、混乱は生じていない。いつの時代でも聖女のほうが大神官より年少だったし、この国の宗教的な指導者はあくまで国王だからだ。

 もっとも、歴史を紐解けば色々といざこざはあったようだけれど。


 国王が宗教的指導者と政治的指導者を兼ねているのには理由がある。

 強力な魔物がこの神聖リュピテール王国へ侵入することを防ぐ、聖なる結界を維持しているお方が国王だからだ。

 神官を始祖とする国王は古来より神意を受け、結界を張って人里を守ってきた。国の発展に伴い結界は拡張され、リュピテールはその恩恵にあずかり大国となった。


 必然的に国王には強い魔力が要求される。

 王位継承順位も他国のように生まれた順番ではなく、一定以上の魔力を持った王子・王女たちの中から、それ以外の能力や年齢を元にして国王が決める。


 そして、国王が病床にある時や空位の時は、聖女が結界維持の代行をする。

 国王に匹敵する魔力を持つ聖女は若いうちに引退し、王室の強い魔力を維持するために、王族に嫁ぐのが慣例となっていた。

 二十代の王太子は未婚だ。けれど、オデットは第二王位継承者のロドリグに嫁ぐことになった。


「ご機嫌よう。オデットさま」


 大神官のうしろから現れた、白と青の巫女装束を着た少女の姿を見て、オデットは身を硬くした。

 華やかな化粧のよく似合う、派手な美貌の持ち主──ジェルヴェーズ・ド・バレ。

 貴族の出身で、貧しい羊飼いの家に生まれたオデットとは、元々の身分そのものが違う。


 何より、彼女は魔力総量が多いだけでなく、表出している魔力も強く、魔法の才能に溢れている。

 オデットが結婚し、今の地位を退いたあとの聖女はジェルヴェーズに決定していた。

 おそらく、王太子に嫁ぐのは彼女になるだろう。


「……ご機嫌よう、大神官猊下げいか、ジェルヴェーズさま」


 オデットが挨拶すると、大神官は機嫌よさそうに笑う。


「いよいよ、出立だな。そなたの婚約が無事決まるか冷や冷やしておったが、ようやくこの日が迎えられた。まことに重畳重畳」

「はい……ご心配をおかけいたしました」


 オデットが聖女になり、婚約が内定するまでには、色々あった。

 先代の聖女の予知によって、オデットは聖女候補に選ばれ、家族と故郷から引き離された──のだが、すぐに困ったことが発覚する。


 魔道具によって測定されたオデットの魔力総量は水準を遥かに上回った。

 だが、表出魔力が弱く、いくら修行してもちょっとした魔法しか使えるようにならなかったのだ。

 それこそ、擦り傷の痛みを和らげるとか、指先程度の光を出すとか、その程度だ。


 神殿の会議はオデットを聖女候補から外すか否かで、揉めに揉めた。

 結局、先代の聖女の予知が外れた試しがないことや、結界に魔力を供給する分には、王都の大神殿に備えられている魔道具を使えば問題ないことを鑑みて、オデットは聖女候補のままでいることを許された。


 聖女候補から降ろされるとなれば、オデットは神殿から下がって、実家に帰されていただろう。

 多額の礼金と引き換えに自分を神殿に入れた両親と顔を合わせるのも気まずかったので、当時のオデットは胸を撫で下ろしたものだ。


 それに、国のものと見なされる聖女である間は、実家の姓を名乗ることも、家族に会うこともできないから、オデットにとってはちょうどよかった。

 もちろん、生家を懐かしむ気持ちはある。でも、それ以上に強いのは、自分を手放した両親に対する怒りだ。


 貧しくても、みんなと一緒に暮らせれば、自分は幸せだったのに……。


 オデットが聖女の地位を引き継いだのは十三歳の時だ。

 聖女になってからも、オデットの立場は不安定だった。結界への魔力の供給代行は差し障りがなくても、公務の際に民衆に見せる数々の奇跡をオデットは起こせない。

 強力な魔法の行使は、魔力の弱い民衆にとっては立派な奇跡なのだ。


 いつしか、オデットは陰で「無才の聖女」と呼ばれるようになった。


「羨ましいわ。第二王位継承者とご婚約なさるなんて」


 ジェルヴェーズのニヤニヤした笑みと台詞には、明らかな侮蔑が込められている。

 王太子とオデットの婚約については、王妃が明らかな難色を示したのだという。

 彼女も聖女だったから、奇跡を起こせないオデットのことを認められなかったのだろう。


 オデットに期待されていることはただひとつ。

 王太子に何かあった時の保険として、ロドリグと結婚し、魔力の強い子を産むことのみ。


(……別に構わないわ。今の状況から抜け出すことができるのなら)


 魔法以外のことを頑張ろう。聖女にふさわしい能力と人格を身につけなければ。

 そう思い続け、努力してきたけれど、それにも、もう疲れた。

 ジェルヴェーズが無邪気を装った態度で語りかけてくる。


「オデットさまがご婚約なさって、宮廷にお住まいをお移しになったあとは、わたくしが神殿での職務を引き継ぎます。何もご心配なさらないで。もっとも、わたくしは正式に聖女を拝命したあとも、それほど長く神殿に留まってはいないと思いますけれど」


 すぐに王太子に嫁ぐから、とでも言いたいのだろう。

 もやついた気持ちを抱えたまま、オデットはぎこちない笑みを浮かべた。


「ええ、よろしくお願いします」


 うわべだけの会話に、うわべだけの笑顔。

 ただ、何かが心に引っかかる。

 ジェルヴェーズが満面に悪意の笑みを咲かせた。


「それでは、オデットさま。どうかお幸せに」


 オデットは無意識に手の甲をさすっていた親指を、ぴたりと止めた。


「──ジェルヴェーズさま、今なんて?」


 ジェルヴェーズが怪訝けげんそうな顔をする。


「え? ……どうかお幸せに、と」


(前にもまったく同じことを言われたような気がする……)


 こんな場面でもない限り、ジェルヴェーズが「お幸せに」などと口にするはずがない。


 突如として、半年に渡る長い夢の記憶が再生される。

 そうだ。夢の中でも、自分は神殿を去る間際にジェルヴェーズと大神官の訪問を受けた。

 そして、憂鬱な気分のまま、ジェルヴェーズに嫌味たっぷりに「お幸せに」と言われたのだ。


 もちろん、ただの偶然かもしれない。だが、もし、あの夢が予知夢だったとしたら。

 あの夢はどこまでも現実味があった。身を切るような真冬の寒さや、イリヤの流した血の温かさまで。


 そして、夢から覚めた時に、オデットはリュピテール暦三八二年の一月十四日に生きていると思い込んでいた。

 ここまではっきりと記憶に残り、現実との境界が曖昧な夢は見たことがない。その上、この奇妙な符合だ。


 予知は魔法ではない。獣族の持つ「恩寵」と呼ばれる特殊能力に近い、未だ解明されていない力だ。

 なんらかの理由で、眠っていた自分の能力が目覚めたのだとすれば──イリヤと出会えるのは、まさに今日だ。


(……馬鹿馬鹿しい)


 自分にそんな才能などあるはずがない。妄想も大概にしなければ。


「オデット、どうしたね?」


 気遣わしげに尋ねてくる大神官の声に、オデットは我に返った。


「大丈夫でございます。少し立ちくらみがして……。婚約式にはさしつかえございません」


 オデットは弱々しい笑みを返し、ごまかした。

 いくらロドリグが夢の通りに非情な人物でも、自分に選択権はないのだ。

 大神官は安心したようだった。


「そうかそうか。それはよかった。くれぐれも、ロドリグ殿下にはご心配をおかけせぬようにな」


 せっかくこぎつけた婚約をオデットの健康上の理由で、ふいにしたくはないのだろう。やはり、このエウリサード神殿に自分の居場所はない。


「……はい。大神官猊下、ジェルヴェーズさま、今までお世話になりました」


 オデットは大神官とジェルヴェーズに別れを告げると、ポーラを連れて、なじんだ自室をあとにした。

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