無才の聖女 ~逆行して魔法の大天才になったら片想いの最強傭兵(狐耳、家事万能)と同居することに。でも彼の様子がなんだかおかしい。え、わたしの恋する匂いが原因?~
畑中希月
第一章 出会い直し
第1話 散華と悪夢
雪がちらついていた。
聖女オデットは馬を走らせながら寒さに耐える。降り積もった新雪の上に、次々と蹄の跡がついてゆく。
(なんだろう……嫌な予感がする)
敵国との戦で自軍が勝利した、という知らせを受けたばかりだというのに。
オデットは聖女として兵の士気を高めるために、国軍の勝利を祈りながら後方に控えていた。
だが、戦勝の報告を聞くや否や、なぜか胸騒ぎを覚え、こうして供もつけずに馬を駆けさせたのだ。
聖女の予知、ではない。オデットにそんな能力はないし、魔法すらろくに使えない。
予知能力を持っていた先代の聖女の予言と、なぜか軒並み外れて多いと測定されている魔力総量だけで聖女に選ばれた。
正体の知れぬ不安に押し潰されそうになりながらも、オデットは自分の予感に従い、馬を疾駆させた。
結い上げたうしろ髪はびくともしなかったが、顔の両脇に垂らした栗色の髪が風になびく。
倒れ伏すおびただしい数の兵馬が視界に入り、オデットは身をすくませた。味方か敵か、あるいはその両方か。怖気づく乗馬を励まして、前へ進む。
踏みにじられた軍旗には、王室の紋章である一角獣が描かれており、兵たちが身につけている甲冑も王国風のものだ。
オデットの危惧は、ますます強まった。
降りしきる雪の中、軍隊と、はためく一角獣の軍旗が目に映った。
婚約者であるロドリグ王子のまとう白い甲冑が見えたので、オデットは馬の速度を緩め、彼に近づいていく。
「ロドリグ殿──下」
オデットは息を呑み立ち止まった。
雪の上に立っているロドリグの足元が赤く染まっていたからだ。白い雪の上に広がる血液は、異様なまでに美しかった。
敵の流したものだろうか。
だが、血溜まりの中にうつ伏せに倒れている男性を見て、オデットは息が止まるかと思った。
長くまっすぐな銀の髪から覗く、
「──イリヤ──さま」
それは、味方であるはずの傭兵隊長、イリヤに違いなかった。
彼の長い指が動いた。おぼつかない動作で鎧の首元から細い鎖を引きずり出す。鎖には雪雲の下でもきらめく青い石がついていた。
イリヤのまぶたが開き、金の瞳でその石をしばし見つめる。安心したような表情で、彼はかすかに笑みを浮かべた。
それも一瞬のことで、まぶたは再び閉じられる。
「イリヤさま!」
オデットは下馬し、イリヤに駆け寄る。両膝を雪の上について、血に染まった彼の銀髪をかき分け、傷口を探す。
手にべっとりと血がついたが、怯んでいる暇はない。
大きな切り傷は首にあった。
オデットの全身から血の気が引いた。よりにもよって、頸動脈が切り裂かれていたからだ。
オデットは魔力総量は多いのに、表出している魔力は人並み以下だ。自分の魔力では治癒魔法を使っても、きっとこれほどの傷は癒せない。
でも、たとえ痛みを和らげることくらいしかできないとしても、何もしないなんて嫌だ。
元から白いのに、今は雪に溶け込むように白くなっている端正なイリヤの顔を眺めながら、オデットは傷口に手をかざした。
「無駄だ」
声がしたほうを振り返れば、兜を小脇に抱え、金髪をむき出しにしたロドリグが、青い瞳と口元に嘲弄の笑みを浮かべながら近づいてくる。手には血濡れた剣を持っていた。
「その男はもう事切れている。そんなことも分からないのか?」
婚約してから半年、常に王族然として優しく振る舞ってきたのが全て芝居だったかのような表情と口調で、ロドリグは問いかけてくる。
死んだ? イリヤが? まさか。あの王国最強の傭兵と謳われた彼が。
身体の芯が急激に冷えていくように感じられるのに、まぶたが熱くなった。涙がにじみ、頬を伝う。
ロドリグが首をかしげた。
「何を泣いている? そなた、その男が好きだったのか?」
オデットは自分でも驚いていた。婚約者のいる自分が他の男性に想いを寄せるなど、あってはならないことだったからだ。
半年前、イリヤは拉致されそうになった自分を救ってくれた。それ以来、気づけばオデットは自然と彼の姿を目で追うようになっていた。
長身で並外れた美貌の彼は、獣族や傭兵から連想されるような猛々しさはまったくなく、常に貴族の子弟のように礼儀正しく自分に接してくれた。
王宮で会うたびに一言二言、言葉を交わすだけで──いいや、廊下ですれ違うだけでも、その日は眠りに落ちるまで幸せだった。
その人となりを深く知る機会がなくとも、彼の姿を見かけるだけで本当に満ち足りていて……そして、酷く切なかった。
あの感情が、恋というものだったのだろうか。
だが、全てがもう手遅れなのだろう。がらりと変わってしまったロドリグの態度と、彼の持つ血濡れた剣を目にした今では、深い後悔とともにそう思う。
ロドリグはイリヤを手にかけたのだ。オデットはロドリグを睨み据えた。
「どうしてイリヤさまを──殺したのです」
「邪魔だったからだ。わたしが王位を得るためにな」
「王位?」
オデットは思わずオウム返しに尋ねた。
ロドリグの王位継承順位は第二位だ。王太子には彼の兄が立てられている。当然ながら王位など諦めているものとオデットは思っていた。今までは。
ロドリグは
「だからそなたは無才だというのだ。わたしの望みに気づきもしないで、何が婚約者だ。第二王位継承者だからといって、そなたのような名ばかりの聖女をあてがわれた屈辱が分かるか?」
胸をえぐるような言葉の数々だが、イリヤを殺された今では怒りのほうが大きい。オデットがなおもロドリグを睨みつけていると、彼はこともなげに言った。
「まあ、兄の栄光もあと少しだが。今は敗軍の将としてハーズ軍に追撃されているはずだ」
オデットは息を呑む。
「……どういうことです?」
「そなたから見れば敵国のハーズは、わたしにとっては後ろ盾だ。この戦でハーズを勝利させれば、わたしにかの国の王女を
オデットは目を見開いた。ロドリグは密かに国を裏切り、敵国と通じていたのだ。
だから、王国の勝利には欠かせない、国王の信頼厚い傭兵隊長のイリヤを手にかけたというのか。
先ほど受けた勝利の報は国軍のものではなく、ロドリグのものだったのだ。
二重の怒りで目がくらみそうだった。思わずオデットは口走る。
「──せん」
「なんだ?」
「あなたのような卑怯者に、イリヤさまが真っ向から勝負して敗れるはずがありません。一体、どんな汚い手を使ったというのです!」
ロドリグは、ふん、と鼻を鳴らした。
「罠を仕掛けた。国軍をハーズ軍と挟撃し、魔法を無効化させる罠にその男を誘い込んだのだ。そのあとは弱ったところを狙った。哀れだな。その男には、もう守ってくれる部下もいなかったぞ」
ロドリグは剣先で、イリヤのあとに続くように点々と倒れている獣族の傭兵たちの遺体を指し示した。
その中にはオデットの見知った顔もある。名前は覚えていないが、獅子の頭と尻尾を持ち、毛皮に覆われた男は獣族だけで構成されたイリヤの傭兵団の副団長だった。半年前、イリヤに逆らって自分をさらおうとした男だ。
ロドリグは剣先をイリヤに向けた。ぽたり、と血の雫が雪の上に落ちる。
「魔法無効化の魔法陣を用意するのは手間だったぞ。その男は厄介な魔導具を持っていた上に、魔法も使えたからな。……まったく、獣族風情が魔法を使うなど、神々の摂理に反している」
獣族は強い
魔力は神々が人族に与えた祝福なのだ、と聖典には書かれている。
例外があるとすれば、人族と獣族の混血児だけだ。獣族のイリヤが魔力を持っていたのも、人族の血を引いていたからだろう。
オデットは吐き捨てた。
「あなたに神をどうこう言う資格はありません」
「その男に惹かれていたくせに、聖職者面か。つくづく可愛げのない女だな。そなたとのおしゃべりにも、もう飽きた。ここに来なければ、命だけは助かったかもしれぬのにな。馬鹿な上に運の悪い女だ」
ロドリグがイリヤの血がしたたる剣を振り上げた。
うしろに控えていた騎士が、慌てたように「聖女さまを手におかけになるのですか」と口にしたが、ロドリグは何も答えなかった。
剣が振り下ろされる瞬間、オデットの頭を十八年分の記憶が駆け抜けた。
売り払われるようにして両親のもとを去り、聖女候補として神殿に入ったこと。
魔法を満足に使えるようにならず、陰で「無才の聖女」と呼ばれていたこと。
誰からも必要とされない、ろくでもない記憶ばかり。
でも、今では、はっきりと分かる。イリヤに助けてもらった時の胸のときめきは、今まで味わったことのないほどに甘美なものだった。彼を目で追った幸せな日々は、何物にも代えがたい。
他はため息が出るくらい、後悔ばかりの人生。悔やんでも悔やみきれないのは、命令とはいえロドリグのような男と婚約してしまったこと。そして。
(──好きだと気づけなくて、ごめんなさい)
もし、聖典に書かれているように生まれ変わることができ、再びイリヤと出会えたら、次の生では絶対に彼を死なせない。
(どんなことをしても、わたしがあなたを守ります)
自分はあなたよりもずっと無力で、小さな存在だけれど──。
ひゅんっ、と剣が空を切り裂く音を聞きながら、オデットは痛みと死に備え、固くまぶたを閉じた。
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