第163話 海への道のり――パラシュートと空への道のり
人間が空を飛んだ、という、英雄の時代であってもあまり見る機会のない事件に興奮醒めやらぬ街の人々にとってはライカはまさに英雄であり、結果、ライカは大勢に囲まれることとなった。
その後ろで、パラシュートを回収したレンは、破けたり
すると、
「どうかね?」
と、ラウロがレンのそばに立つ。
「布はさすがにウェブシルクだから丈夫です。糸も蜘蛛の糸だから縫製も問題なし。ただ、紐の一部は多少毛羽が出てますね」
専用のハサミを用意しなければ裁断も出来ない丈夫な糸と布をふんだんに使ったパラシュートである。
ウェブシルクの性能を遺憾なく発揮した布には問題は生じていなかったが、開傘時に紐同士が擦れたのか、一部が軽く毛羽立っていた。
「大丈夫なのかね?」
「ええ、まあこの程度なら、ちょっと補修用の液に浸けてやれば……丈夫な素材使ってますけど、丈夫なもの同士が擦れれば、こういう事もありますね」
レンは未加工のウェブシルクを一枚取り出し、ラウロに渡した。
「イエロー系の蜘蛛の魔物素材で作った布です。刃物は殆ど通しませんし、これを力だけで引き裂ける人間を見た事がありません。試してみます?」
「良いのかね?」
「
ゲーム内イベントのために大量生産したウェブシルクの在庫は、まだまだ残っていた。
あちこちで使いまくっている筈だが、手持ちのポーチにもまだ数スタックが残っているし、何なら今回などは引っ張り強度に特化した糸を紡ぐために新たに素材を狩ってきて在庫を増やしてもいる。こうした事もあるため、共有が需要を上回っているのだ。
使い道が限られるマンティス素材などはライカに渡しているが、汎用性が高い布をついつい死蔵してしまうのはゲーマーのサガのようなものだろうか。
レンに渡された布を、ラウロはそっと撫で、普通の布と変わらないことを確認し、両手でそれを思いっきり引き裂こうとした。
「……ぐっ! むむっ!」
息を止め、真っ赤になって力を込めるラウロだったが、途中で力尽き、荒い呼吸をする。
「ナイフを使っても良いですけど、鉄のナイフだと、刃が傷んだりもするのでお薦めしません」
「……これで……服を作れば……防具になるのでは……ないか?」
「衝撃は通しちゃうから、防具としては微妙なんですよね」
例えば薪にそれを被せ、ラウロが鉈を叩きつければ、布は無事でも薪は真っ二つになるだろう、とレンは説明する。
「斬れずとも割れる……対応できるのは切れ味勝負の武器に限られるのか……しかし、マンティス系の攻撃には効果がありそうじゃないか」
「ヤツの怖さは斬撃だけじゃないですよ?」
カマキリのような見た目の魔物は、おそらく森でもっとも多くの人間を殺している魔物である。
レンであっても気付くのが困難なレベルの隠形を使い、森に潜み、場合によっては目の前にいても気付かないこともある。
そしてその鎌の切れ味は昆虫のカマキリのそれとは異なり、先端部に限れば鉄の鎧すら切り裂くほどに鋭い。
先端部が届けば切り裂かれ、根元まで届けば棘だらけの部分でがっちりとハグされて噛みつかれる。
「攻撃の内、切り裂きの方なら防げないかね?」
「そっちなら防げます。でもハグされて噛まれる方は圧力による攻撃ですから、ウェブシルクを過信するのは危険ですね」
「ああ、それはそうだろうな」
「学園の卒業生がオラクルの村で、裏地にウェブシルク、表面はイエロークレイジープラントとウェブシルクの混紡って服を出してますから、気になるようなら帰ったら探してみてください。あと、今ライカが着てるツナギってのは採算度外視で作った物ですが、布地が厚手だからクッション性もあります」
「しかし、あれでは暑くないか?」
『碧の迷宮』の舞台の大半は、亜熱帯のジャングルであり、日本よりも高温多湿である。
そのため、防具の類いも風通しが良い物が好まれる傾向があった。
そう言えば、ここまでプレートメイルを見ていないな、と思い出しつつレンは答えた。
「防具だと熱耐性とかしかありませんけど、衣類の範疇であれば付与魔法で色々付けられますので。体感温度を一定に保つとか出来るんですよ」
「
「村で売ってるのはそれですね。エンチャントなしで作れる物ですから、性能はそこそこです。ライカが着てるのはエンチャント版で、稀少素材を使ってるので値段も性能も跳ね上がります」
「機会があれば寄らせて貰おう……しかし、そうなると、パラシュートというのも高いのだろうな」
普通の衣類と比べ、どう考えても大きく、重そうなウェブシルクの塊であるパラシュートを眺めて呟くラウロに、レンは頷いた。
「丈夫さ重視で作ってますし、エンチャントも付けてますから、どうしても高くなりますね。それでも使う素材は転移の巻物の素材よりも手に入りやすいですけど。興味があるんですか?」
「飛べる者がおらねば使う機会もなかろうが、いれば色々と便利そうだな」
「あー、そうですね。最初のハードルが高いのか……」
レンの知る限りに於いて、人間が空を飛ぶ方法は限られている。
この世界には飛行機械などなく、空を飛ぶ人間は、自力で空を飛べる種族か、ライカのような個人の魔法に便乗するか、リオのように黄金竜の背中に乗るなどの派生しかない。
「熱気球なら飛べるだろうけど、この世界で飛ぶのは危ないしなぁ」
「熱気球? それはどういう物なのかね?」
「あー、帰ったら説明しますよ」
そう言って、レンはパラシュートを丸めてしまい、ライカに戻ろうと声を掛けるのだった。
◆◇◆◇◆
「それで、パラシュートの使い心地はどうだった? ええと、馬車に付いてるのを操作する、という観点で見たときに何か疑問とかは?」
クローネ邸に戻ったレンは、ライカにそう尋ねた。
「思っていたより随分と楽に降りられましたわ。紐を引いてから開くまでに随分と時間が掛かったのと、開いたときに一気に減速する割に、十分に減速するのにも結構時間が掛かったのに驚きましたが、大きな問題はありませんわね」
「下から見た感じ、開傘時間は想定通りだったよ?」
「だとすると、初めてのことで気持ちが逸っていたのかも知れませんわね。紐を引いた後、本当に開いているのかと不安でしたので」
「紐引いてもいきなり開くわけじゃないからね。丸まってたパラシュートが風に煽られて伸びて、空気が入り込んで開くのに多少時間がかかるんだけど、まあ想定から大きく外れてなかったよ」
「馬車のパラシュートも同じでしょうか?」
「二つあるからやや干渉するだろうけど、基本は同じだね。減速に時間が掛かったのは、水面を射るようなもので、水の抵抗を受けて矢は水中を少し進んだところで止るけど、水に触れた瞬間に全ての速度が失われるわけじゃないよね、それと似たようなものかな」
レンの説明にもなっていない説明を聞いたライカは、それでもそう言う物ですか、と頷いた。
「馬車の場合も同じなら、できるだけ高い所を飛ぶべきでしょうね」
「開くまでの余裕とか考えると高い方が有利だから、今回はかなりの高さから降りて貰ったけど。ライカは風の精霊が助けてくれたからまっすぐ降りてこられたけど、落下距離が伸びれば風に流されたりもするから、一概にどっちが良いとは言えないんだよね」
「なるほど。空を飛ぶ際は常に精霊と共にいるようにしますわ」
「ん。あと、クロエさんが話を聞きたがってるみたいだから、対応よろしくね」
「畏まりました」
レンとライカの話が一段落したと見て、ラウロがレンに話しかける。
「それでレン殿、熱気球とは?」
「英雄の世界にある空に浮かぶ道具ですね」
「そんな魔道具があるのかね?」
「魔道具じゃないです……説明するのにちょっとこちらへ」
レンはラウロとファビオを連れて、裏庭に出た。
そこに半ばまで割った薪を置き、割れた部分に油を掛けて
「着火」
と、火魔法を使って火を付ける。
数回着火を使ってしっかりと火が付いた所で、レンはまだ小さい火の上に手をかざす。
「さすがに熱いか……ラウロさん、火は、空気を暖めて、暖かい空気は上に上がるって知ってますか?」
「む? 煙と煙突の話かね?」
「なるほど、そうですね。あれも同じ理屈ですけど、火は空気を暖めて、暖かい空気は煙と共に上に向います。だから厨房の竈で火を焚いても煙は屋内じゃなく空に向うんです。こんな風に」
と、レンは油が燃える黒い煙を指差した。
煙は空に上がると知るのに熱力学やボイル=シャルルの法則は必要ない。
ただ目を向ければそれは見て取れる。
そして、その性質を利用した排煙装置などは、この世界でも様々な形で古くから使われていた。
「まさか、その力で空を飛べるとでも言うのかね?」
「正確には浮かぶのがせいぜいですけど、その通りです」
「だが、竈が空を飛んだなど、聞いたことがないが」
「俺も詳しくはありませんけど、温めた空気が持ち上げることが出来る重量は本当に小さくて、さっきのライカのパラシュートと同じかそれ以上の直径の大きな袋で、ようやくひとり、ふたりだと思います」
レンは熱気球に乗った経験はなかったが、実家から少し行った所の川原で、ぷかぷか浮いてるのを見た事があったため、気球部分の大きさを何となく覚えていた。
感覚的には、直径がワンボックスバン2台分、高さがワンボックスバンを縦に3台分ほどとざっくりした記憶だったが、これはレース用のかなり大きなものなので、乗るのがひとり二人で、かつ魔道具や魔法を併用するなら、その半分ほどでもそこそこの高さに上がることは可能である。が、レンはそこまでは知らないため、大きな気球が標準サイズだと思っていた。
「しかし、布に煙を入れれば、煤が付いたり燃えたりするのではないかね?」
「入れるのは煙じゃなく、熱した空気だけです。袋に煤は入れません。あと、布は耐熱のエンチャントを付与すれば行けるかと。袋の形は水を入れる革袋みたいな感じで、飲み口の部分を下にしてその下に熱源を置いて熱した空気を袋に入れる感じです。で、その袋の下に人間が乗れる大きさの軽い籠をぶら下げ、人間はそこに乗るんですよ」
レンが付けた火の上に手を差し伸べては引っ込めつつ、ファビオが首を捻る。
「レン殿を疑うわけではありませんが……本当にこの熱い空気にそれだけの力があるのでしょうか?」
「まあそう思うのが普通でしょうね。ちょっと火から均等の距離の温度を調べてみてください」
レンに言われ、ファビオは火の上、横、斜め下と手を動かす。
「上が一番熱いですな」
調べるまでもなく当たり前の事なので、ファビオはそう答えた。
「それ、熱い空気が上に上がってる証拠ですよ。薪をつついて火の粉を出せば、それも空に舞い上がります。その力を集めて飛ぶのが気球なんです」
「熱い空気には軽くなる魔力があるのでしょうか?」
「俺もそんなに詳しくはないので、うまく説明は出来ないのですけど、少なくとも魔力はあんまり関係ないと思います」
「それを試作して欲しいと頼んだ場合、どの程度で可能かね?」
ラウロの質問に、レンは腕組みをして考え込んだ。
「現時点では天井知らずですね。パラシュートよりも複雑な仕組みが必要になりますから研究や実験が必要です。いきなり完成品は作れません」
布の耐熱性能が十分であるか。
熱源は十分な熱量を発するか。
籠の素材と強度に重量、それらを繋ぐ紐の丈夫さ。
気球の場合、上下移動しか出来ないので、流されないように地面にロープで固定することになるが、その強度と重量。
ライカが結界の外を飛んでいるときに攻撃を受けていたことから、気球にも同様の危険がある可能性がある。それらへの対処も考える必要がある。
技術的な問題として、適当に挙げただけでもこのくらいの問題があるし、他にも沢山の課題がある、とレンは答えた。
レンの返事を聞き、ラウロはその研究に着手してもらうなら、幾ら必要かと尋ねた。
「着手のみなら費用は不要です。俺も興味がありますし。ただ、今の時点では何も分かってませんので、結果については何も言えません。そうですね、研究開始から一ヶ月後程度のところで、課題と、問題の洗い出しのための模型について相談ができるかも、というところですね」
その期間では各種技能があるレンでなければ、研究課題どころか、方針を挙げたところで終わりである。
レンは細工師、鍛冶師などの技能により、素材に必要な強度などはおおよその見当を付けることができる。
ただし、それは直感に近い物であり、なぜそれで良いのかを言葉で説明しようとすると、かなり感覚的な物になる。だからそれらを具体的な言葉に代えてやる必要もある。
「研究の助手として、鍛冶師を借りてくれば短縮できるかね?」
「必要なのは細工師ですね。鍛冶も必要ですけど、全体からするとほんの一部です。まあ、最初の一ヶ月は人数が増えても短縮はできませんけど……あ、でも一応言っておきますが、気球は軍用としては向いていませんよ?」
「ふたりほどのヒトを持ち上げるのでも先ほどのパラシュート並の大きさになるのだろ? それなら良い的になるしかないからな。目的は周辺の監視だよ。真面目な話、是非お願いしたい」
神の存在が抑止力として機能しているこの世界において、対人の大規模戦闘はまずあり得ない。
だから軍の相手は魔物達に限定される。
そして魔物素材を使っていても、魔物の攻撃に対しては良くて互角である。気球はその全体が弱点のようなものであるため、効果のある攻撃がどこかに当ればそれで終わりだ。
飛行する魔物がいる以上、気球が使えるのは結界内に限られる。
結界の外で上空から一方的に魔物を攻撃ということができないと理解しているならまあ構わないか、とレンは頷いた。
「戻った後、検討結果がまとまった所で相談って形で良いですか? ルシウスさん経由とかで連絡して」
「それで頼む」
「でももう一つ付け加えるなら、高い所からの監視が目的なら、街の四方に高い塔を作っておくとかでも出来ますよ?」
「それは理解している。ゼーニャの街の監視塔のようなものも良いのだが、固定式では難しいことも多いのだ。それに気球なら落とされることを前提として前線に出して、万が一の場合はパラシュートで逃げるという運用も可能だろ?」
ラウロの言葉に、
「パラシュートは、もっと早く降りられるのじゃないと、的になりますけどね」
「速度を変えられるのか?」
「方法はふたつありますね。ひとつは半径を小さくする。もう一つは、俺の作るパラシュートには中央に丸い穴がありますよね。あのスピルホールを少し広げるんです。どの程度が最適なのかを知るための計算式を知らないので、手当たり次第に作って実験する必要がありますけど」
「ふむ……気球の実運用を始められたら、そうした開発のために使うのが正しいのかも知れんな」
人間同士の戦争はそもそもないし、空を飛べても街や村の中限定だから、この世界の技術革新には繋がらない、と思っていたレンは、ラウロの言葉に顔を引きつらせるのだった。
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