第119話 海への道のり――美味しい料理と過ごしやすさ

 街に戻った一行は宿に入る。

 珍しい景色を見たことで、クロエがやや興奮しているが、食事の支度が出来たと聞くとすぐに大人しくなる。


 食事は宿の食堂で食べる。

 部屋に運んで貰うこともできるが、それではクロエが身分を偽って旅をしている甲斐がない。


 食事をするのは宿併設の食堂である。酒場ではなくあくまでも食堂。

 メニューには酒もあるが、気楽に飲めるほど酒は安くない。

 加えて、この店では、遅くなると酒は出さないと決めていた。


「普通は逆だよな」


 と、レンがライカに同意を求めると、ライカは苦笑いをした。


「そう言えば、英雄たちは関係なく飲んでましたね……砂漠の環境下で夜、泥酔して外で寝たりすると危険なんですけど」


 ライカの話では、砂漠では昼夜の寒暖の差が激しく、泥酔した者が、砂が暖かいからと地面に寝転んでいる内に寒さにやられることも珍しくはないとのことだった。

 氷点下になるわけではないため、凍死というわけではないが、運が悪いと低体温症になり、動けないままに息を引き取ることもあると聞き、暑い砂漠で低体温症か、とレンは驚いたような表情を見せる。


 そんなわけで、フェオの街で酔って騒ぐほどに飲むような者はおらず、宿の食堂は比較的静かだった。


「はいよ。砂ナマズの揚げ物だ」


 既に幾つかの皿が並んでいるテーブルに、大皿が乗った

 大きなナマズの骨を揚げ、その上に、揚げた身が並んでいるそれを見て、クロエは目を輝かせる。


「ナマズ!」

「おや、好きなのかい? なら、美味しい食べ方を教えてあげようかね」


 女将さんから、ナマズの揚げ物の食べ方を伝授され、クロエは楽しそうにそれを実践する。

 クロエの満面の笑顔を見て満足した女将さんは、すぐに厨房に引き上げていく。


 レンも揚げ物をひとつ口に運ぶ。

 まだ熱々のそれをサクリと噛めば、中にはしっかりと火が通った白身魚。味は薄めだが、近くで採れた岩塩を削って掛けると、細かな塩の粒が舌を刺激する。


「うん。これは美味しい」

「レンも気に入った?」

「ああ、クロ……じゃなくてお嬢様はナマズは村とかで?」

「たまに川で獲れる。美味しい。私もマリーも好物。でもこれは普段食べてるのより美味しい」

「オラクルの村の方でも同じようなのが獲れるのかな?」

「砂ナマズは砂漠に流れ込む川の固有種と聞きますわ」


 ライカもこのナマズは好物であるとのことで、前に食べたときに調べた情報を披露した。


 曰く。細かな砂に潜って獲物を捕まえるため、砂漠近辺の川に多く見られる種類であるとか、他の環境にも適応するが、その場合、見た目も味も変化してしまうという話で、クロエはライカの話に耳を傾けつつも揚げたナマズをパクパクと食べていくのだった。




 食事の後、それぞれの部屋に分かれる。

 今回は大部屋、中部屋、個室をそれぞれ1つで、男女に分かれ、かつクロエは個室となった。

 なお、個室にはクロエと共に、不寝番としてエミリアが入っている。


「昼は暑かったけど、夜は涼しいですね」


 窓から外を眺めつつ、レンは宿の主人にこっそり売って貰ったこの街特有の酒を口に運ぶ。


 公爵家の人間がいると、さすがに融通がきく。


 などと感心しつつ、干しぶどうが原料だという酒に添加されたハーブの香りを楽しむ。


「砂漠では、日中でも日を遮れば、そこそこ涼しくなると聞きますな」

「ふむ。あの暑さでも涼しく感じるというのは不思議な話だ」

「ああ、湿度の問題ですかね」

「湿度? 湿気のことか? どういうことだろうか?」

「空気に水蒸気をどれだけ含むことが可能かっていうのは温度で決まるんですけど、その上限となる水蒸気の量に対して、今、これだけ湿気が空気に含まれてます、という割合を示したものが湿度です」


 空気中に水蒸気をどれだけ含むことができるのか、という上限を飽和水蒸気量というが、これは様々な条件で変化する。そして、他の条件が同じなら、温度上昇によって飽和水蒸気量は増加する。

 一般に言われる湿度は、この飽和水蒸気量に対する割合であるため、湿度80%と言っても、気温によって含まれる水蒸気の分量は変化する。


 そして日中の砂漠は暑い。

 つまり、飽和水蒸気量も多いわけで、だから、他の場所と湿気が同程度であっても湿度は低くなる。

 そんなことを説明したレンだったが、理解の色を示したのはファビオだけだった。


「それで、その湿度と涼しく感じることの関連は?」


 そして、ファビオは新しい知識に触れたことで、更なる知識を貪欲に得ようと欲する。


「……ええと、生き物には適正な温度とかがありますが、快適と感じるかどうには湿度も大きく関係します。例えば暑くて湿度が高いというのは、蒸し暑いということです。同じ暑さでも、湿度が低いなら、それほど苦痛ではありません。まあ、風や日差しの影響でも感じ方が変るので、あくまでも目安ですけど」

「ふむ。英雄は蒸し暑いという状態をそのように分析するのですか」

「まあ人それぞれでしょうけど、砂漠の昼でも日陰に入ると涼しいのは、湿度が低いためだと俺は考えます」

「しかし、その湿度が低いとなぜ涼しく感じるのですか?」


 湿度が高いと蒸し暑いから、湿度が低いと涼しく感じると、漠然と考えていたレンは意表をつかれた、という表情で少し考え込んだ。


「そこまでは考えた事がなかったので、これは今考えた仮説ですが」

「拝聴します」

「人間は汗をかきます。暑いと沢山の汗が出ます。そして、暑いときは汗が体温を下げます。英雄の世界では、水分が蒸発するときに周囲の熱を奪っていくと考えていて、これを気化熱と呼びますが、汗が蒸発するときにも、体表からこの気化熱が奪われるため、若干、体温が下がるのです。ここまでは英雄の世界の常識です」

「気化熱……なるほど。確かに心当たりのある現象が幾つかありますね」

「で、ここからが仮説ですが、さっき話した空気中に水蒸気を含むことができる上限――飽和水蒸気量と呼んでいますが、これに対する割合が湿度です。湿度が100になると、これ以上蒸発されても空気は受入れられないという状態で、湿度が低いなら、水分は簡単に蒸発できます」


 実際には、十分に加熱すれば水は水蒸気になるのだが、それは、水蒸気の温度が気温を超えたりした場合の話であるため、レンはその説明を省いた。

 そこまで聞いたファビオは、なるほど。と頷く。


「つまり、湿度が高いと汗が蒸発しにくいため、体温が下がらない。湿度が低いと汗が蒸発しやすいため、体温が効率的に下げられ、同じ気温で涼しく感じられる、と?」

「俺が今考えた仮説ですけどね。英雄の世界だと、湿度が高いと蒸し暑いと教わるだけで、なぜ体感温度が変化するのかまでは考えた事がなかったもので」

「いや、うまく説明出来ているように思います。しかし、そう聞くと、このまま砂漠に住みたくもなってきますな」

「砂漠にですか?」


 ファビオのその言葉に、レンは首を捻って、分からない、と答えを尋ねる。


「なぜそのように思ったのでしょうか?」

「温度だけなら、この宿の部屋と王宮なら、こちらの方が高いでしょうけれど、どちらが過ごしやすいかと言ったら、こちらですから」

「……ああ、なるほど。屋内にいる分にはそうかも知れませんね」


 そう言われてみると、砂漠というのは、いずれ拠点を作るには良い選択肢なのかもしれない、とレンは考えた。

 この島はどこに行ってもそこそこ蒸し暑いが、砂漠の暑さは日陰に入って、少し風を当てるだけで耐えられるレベルになる。

 夜ともなれば、それなりに気温が低下するため、寝苦しい夜というのは少ないだろうし、大きな川もあり、川の魚も食べられる。

 砂漠特有の素材もあると考えれば、選択肢のひとつとして、アリではないか、と思えたのだ。


 日本人の常識から、砂漠は大変そうだと考えていたが、真剣に考えてみるか、とレンが思案を巡らせていると


「……ぐぅ……」


 いつの間にかラウロが寝落ちしており、それに気付いたファビオが毛布を掛けるために立ち上がり、話はお開きとなった。




 翌日はノンビリと街の中を見て回る。

 これまで通過した、サンテールの街と大して変らない街とはまったく違う景色に、移住先にどうだろうかとレンの目もいつになく真剣である。


「乾燥した空気というのも悪くはないけど……これはちょっと面倒だな」


 街の中には大量の砂があった。

 山になるほどではないが、路面は砂に覆われているのだ。

 それが魔物由来であれば、結界が食い止めるだろうが、砂は砂でしかなく、しかも石の塀がないため、どこからでも入り込む。

 近くに大きな川があるおかげで、砂が入ってくる方向が限られるのと、塀がないことで砂が入り放題であるように、出る方も好きに出ていくため、街そのものが砂に埋もれるということはないが、部屋だろうと髪の毛だろうと、どこにでも入り込む砂に、レンは溜息を漏らした。


(ここまで入り込むんじゃ、ポーション作成時に砂が入る可能性もあるか)


 乾いた砂漠の空気は薬草を干すのには役立つが、薬草や容器に砂が付着する。


 錬金術師を生業のひとつとするなら、砂漠の街はやや厳しいかもしれない、と思いつつも、ただ蒸し暑いだけの他の街や村との違いに、レンは興味を惹かれ、クロエと共に、あちこちを見て回るのだった。



 砂漠の街は、様々な点で目新しさがあり、これなら面白いかも知れないと思いつつも、それも慣れるまでの事だろうと、レンは結論を急がず、まずは海まで行ってから考えようと、砂漠の街を隠居後の住処の候補に入れることにした。


 翌日、馬車の御者台に座ったレンは、何か違和感があると首を傾げる。


「あ、そうか。砂漠なのに馬車なんだ」

「何かありましたか?」


 レンの独り言を聞きつけ、ジェラルディーナが馬を寄せてくる。


「あ、いや、ちょっと気になってね。ラクダをみなかったな、と」

「ラクダですか? いましたけど、確かに目につく場所には少なかったですね」

「いたんだ」

「他の砂漠の街から、輸入したものがいるそうですが、用途は魔物を狩る際の砂地での荷運びのようです。この街道を行くなら、馬の方が向いてますから、街道ルート向けの宿屋の近くにはいませんでしたね」

「でも、ジェラルディーナは気付いたんだろ?」

「疲れて足がもつれる寸前まで、砂地で槍の基本動作を繰り返せと言ったのはレン殿ではないですか。砂地での訓練の際に見掛けて、少し話を聞いただけです」


 ジェラルディーナの訓練を見てやると言いつつも、レンが命じたのは、砂地で疲労困憊寸前まで槍の型をなぞることだった。

 見てくれるんじゃないのか、と言いたげなジェラルディーナに、


「君の場合、似た状況を経験してるだろ? その時との違いを意識するのが課題だ」


 とレンに告げられ、ジェラルディーナは藁をも掴む思いで、レンに言われた訓練を行った。

 ラクダはその際に見たとのことで、それなら訓練を見に行ってやってもよかったかも、などと気楽に考えるレンに、ジェラルディーナは憧憬を含んだ視線を向けた。


「それにしても……今までも似たような訓練はしていましたが、ただあれだけの訓練で、ここまで自分の成長と欠点を知る事になるとは思いもしませんでした」

「得るものがあったのなら良かったよ」


 騎士が訓練で疲労困憊するまで槍を振るうことは滅多にない。

 地球の軍隊の実弾演習で、弾薬を使い果たす軍隊がないように、訓練の直後でも必要であれば戦いに赴く必要があるからだ。

 それでも他の部署と連携し、上司の許可があれば、訓練のあと数時間は身動きができないようなキツい訓練を行うこともできる。

 実際、自分たちの限界を正しく理解する目的で、ラウロの許可を得て、そうした訓練は年に数回実施されていた。


 その訓練とやっている事は同じなのだが、レンに言われて今までの訓練とは異なる目的意識を持って訓練にあたったジェラルディーナは、何かヒントを掴んだらしい。

 レンとしては、過去の自分との比較で数値化しにくい成長を理解してもらう、程度の意味合いだったのだが、ジェラルディーナが何かを掴んだのなら、それについて水を差すことはない、と、そこは飲み込むことにした。


「自分の欠点が分かったので、しばらくは自主訓練で対応できると思いますが、もしも何かあればご教示ください」

「いや、まずは訓練で欠点を消すことを意識してみて。ああ、だけど欠点が本当に欠点なのか、それとも、強力な利点の一要素なのかはちゃんと意識してね」

「利点の一要素、ですか?」

「槍じゃないけど、例えば使い手の技量が同じなら、棍棒の威力は、硬さ、形状の他、重量でも大きく変化する。というか、棍棒は重量物を相手にぶつける武器だからね。重たくないと話にならない。逆に言うと、威力のある棍棒は重いわけだけど、一般論として道具は重すぎない方が良いよね? 視点によっては重いのは欠点と見える。だからと言って棍棒の重さを削って行けば、それはただの棒だよ。軽くするついでに、工夫して形状を鋭くすれば、槍か剣になるかな? まあ、棍棒として、高い威力を得るには重さは必須条件なんだ。そういうのを利点の一要素と表現したんだ。欠点に見えても、なぜそうなっているのか、というのはしっかり考えてみて欲しいって話だね」


 レンの話を聞き、ジェラルディーナはなるほど、と感心したように頷いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る