第107話 海への道のり――思い出の料理と子犬たち
大きめの飯ごうに米を入れ、ほどほどに研いで水に浸けておく。
2人で1合ほど、だと足りなくなる可能性もあるので、多めに。
ちなみに、炊き上がったものがこちらにあります、とアイテムボックスから出せなくもないが、今回は時間に余裕があるため普通に炊く。
レンは大きな猪の肉のブロックを取り出し、やや薄目に18枚を切り分ける。
それに隠し包丁を入れ、塩胡椒で下味をつけ、薄力粉をまぶして、軽く叩いて余分な粉を落とす。
平たく薄い皿に溶き卵を用意し、肉を潜らせ、卵に濡れた表面にしっかりとパン粉を付ける。
「温度調整……170度」
錬金魔法の温度調整で油の温度を一気に170度に上げ、そこに肉を入れて魔石コンロを点火して温度を保つ。
ちなみに、錬金術師であっても温度調整は水だけと思っている者も多いが、そんな制限はない。
液体の温度を変えるための魔法と、錬金術大系にも記されている。
その誤解が生じた原因はひとえに、初級の錬金術レシピに水以外の温度調整を行うものが存在しないための思い込みである。
実際は、最初から液体であればその液体は温度調整の対象となる。逆に、氷の温度は変更できない。
後者についてはよく知られているが、前者については知らない者が多い。
だが、例えば生き物の体液を対象とすることは難しい。
そうした働きを魔法抵抗と呼ぶこともあるが、要は、生物は他者からの干渉によって自らが害されることには魔法、物理を問わず抵抗するように出来ているのだ。
だから、温度調整で変更可能なものは、曖昧な表現となるが、生物に直接影響にしない液体全般となる。
表面の色がパン粉そのままの色から色づき、油の音が変化する。
パン粉が揚がる独特の香りが、それまで生肉の匂いが立ちこめていたキッチンに広がる。
二分経過後、綺麗にきつね色になった肉を鍋からあげて、油切りの上に置き、油温を調整する。
「温度調整……180度」
やや高めの温度にした油に、再度肉を入れ、今度は30秒ほどで取り出し、ザクザク切って、調理専用の、時間遅延に全力を注いだアイテムボックスに肉をしまう。
ライカの気配にレンが振り返ると、調理場の椅子に腰掛け、ライカが楽しそうにレンが料理する様子を眺めていた。
「つまみ食いは禁止だからな?」
「しませんよ……それ、昔作ってくださったお料理ですよね?」
「作ってやったこと、あったっけ?」
「ええ、私とディオが引き取られて少しした頃に」
言ってしまえばそれは、ただ単にNPCの信頼度を上げる。そういうクエストだった。
レンが作ったNPCは元孤児という設定で、ふたりを迎えたレンには、そういうクエストが発生したのだ。
信頼度を上げるというクエストで最初にレンが思いついたのがプレゼントで、失敗してもまあ後を引かないものと考えて作ったのが料理だった。
「よく覚えてるな」
「
揚げたら米を炊く。3合炊ける鍋が4つ。
専用の砂時計を置き、時間を計測しつつ、待ち時間を使って今度はタマネギを薄く切って卵を割り溶く。
「そうか? でもあんまり旨そうに食ってるようには見えなかったんだけど」
「あまり見慣れない食材でしたから、引き取られて早々養い親に見捨てられないようにと、孤児なりに必死でテーブルマナーを頑張っていたんです……でも、食後、ディオと二人で、美味しかったね、と話していたんですのよ? それからも、
「食べたかったのなら言ってくれればいくらでも作ったのに」
「いえ。お料理だけなら自分たちでも再現できるようになっていますわ。ただ、私とディオにとって、そのお料理は、とても思い出深いものなのです」
なるほど、思い出補正か、と頷きつつ、レンはこの料理のために自作した薄い小さな鍋に、薄切りにしたタマネギを敷き、ミリン、醤油、白出汁を入れて加熱する。
タマネギがしんなりしてきたら、切ったカツと割り溶いた卵を入れ、蓋をして30秒ほど強めの弱火で加熱する。
卵にまだ生の部分があるかな、というあたりでカツを鍋から皿に移してアイテムボックスに入れておく。
というのを通算18回。3つ並行で行う。
独特の香りがキッチンに立ちこめる。
揚げた肉の処理が終わるころ、飯ごうを火から下ろしてひっくり返して別の砂時計で時間を計測する。
待ち時間で石からどんぶりを人数分作り、それに洗浄を掛け、お湯を用意する。
そろそろ砂が落ちきるかな、というタイミングで、レンは皿に移したカツをアイテムボックスから取り出し、それぞれにミツバを乗せ、全員を食堂に集めた。
「なんか良い匂い。レン、これは?」
出汁と醤油とミリン、それに脂の匂いが混ざり、食堂には良い香りが漂っていた。
「カツ丼って料理だね。英雄の世界での俺の大好物。できたてを食べて欲しいからね。今から完成するところ」
皆が集まったところで、レンは米を丼に入れ、そこにカツを乗せる。
やや早めにカツを出したため、卵はやや生が残る状態から、余熱でしっかり火が通っている。
ライカに配膳を任せ、レンはお湯で簡易スープを作り、番茶を淹れる。
食器はナイフとフォークとスプーン。
申し訳程度にスープがあるが、貴族の食卓としてはあまりにもシンプルだ。
だが、その匂いには皆が引きつけられていた。
「それではどうぞ」
レンがラウロに視線を向けると、ラウロの視線はクロエに向かう。
「では、常と変わらぬ日々に感謝を。そしてこの料理を用意したレンにも感謝をしつついただきましょう」
クロエはそう言って、フォークでカツを口に運ぶ。
まだ熱いそれの端っこを囓り取り、目を見張る。
そして敷かれた米を口に運び、フルフルと震える。
一口食べたレン自身も、そのあまりの旨さに瞠目していた。
味見はしていたが、完成品の味がここまでになるとは思ってなかったのだ。
「なるほど。これが調理人の基本技能の力か」
基本技能は剣術で言えば、運足や素早い動き、視線の動かし方など、技とも言えない技である。
しかし、それらがしっかりと育っていないなら、どんな剣士も素人と同じだ。
そこそこ強い必殺技を使えたとしても、それを放つタイミングを作れず、その前に倒されるのであれば意味がない。
料理人の場合、材料の目利き、火加減、味加減、包丁の扱いなどがそれに該当する。
熟練の剣士が基本技能だけで戦ってもかなり戦えてしまうように、料理人も基本技能だけでかなりのものが作れるのだ。
そこに、日本で自炊していた経験が加わり、レシピにない料理ではあるが、レンの作ったカツ丼は、レン自身、今まで食べたことのないレベルの出来に仕上がっていた。
醤油をほんのひと垂らしや、軽く鍋を揺する、等が絶妙とも呼べるバランスで行われた結果である。
それらは誰にでもできることではあるが、愚直な訓練の賜でもある。基本技能を十分に育てた者の動き――ただ前に歩を進めるだけ、ただ振り下ろすだけ、が最強の剣技に匹敵する動きになるのと同じレベルの話なのだ。
「レン殿……あとでこの料理の作り方を教えては貰えないだろうか?」
「ええと、ラウロさんが作るんですか?」
「いや、当家の料理人をオラクルの村に預けたいのだが」
「それだと、王立オラクル職業育成学園への入学相当になってしまいますから……なら、普通に作り方を書いた紙をお渡ししましょう」
魔法屋にあるような、レシピ伝授のための本ではなく、普通に材料と作り方を記した紙であれば、技能レベルが足りなかったとしても問題は生じない。
レンは、レシピの提供を約束し、食事に戻るのだった。
レンがいっぱい目を片付けるのを待ち、クロエ達はもう少し食べたいと言った。
「うん。まあ、あといっぱいずつなら準備してあるから」
アイテムボックスからカツと米を取り出し、各自の器に米を盛り、ほんの少し待ってからカツを乗せる。
「レン、なんで、肉をすぐに乗せないの?」
米も肉もあるなら、乗せるだけなのに、とクロエが不満そうに言うと
「うん。余熱でしっかり火を通してからじゃないと危ないんだよ」
「なるほど。確かに」
基本、この世界では大抵の食材は火を通す。
生卵、生野菜、生魚などは危険なので食されることは希である。
卵の場合、半熟は許容されるが、半生は拒否されるのが普通だ。
レンもサンテールの街に来て、中級の料理人になるまで知らなかったが、例えば中級の料理人になると、生野菜のサラダが作れるようになる。
逆説的に、初級の料理人は生野菜のサラダを作ることはできない――いや、作るだけなら誰でも作れるが、非加熱のそれを食べるのはリスクがあるのだ。
だから、中級の料理人がいなくなった後、この世界からは生野菜を食べる習慣はほぼなくなっていた。
だが、中級の料理人になると、錬金魔法の洗浄に似た効果のある魔法を使えるようになり、それを使えば食材を安全に処理できるようになる。
対象は生物全般で、利用者が食材と認識しているモノから、寄生虫や雑菌を取り除くことが可能というかなり限定的な魔法である。
そのため、使用者が食材と認識できないものの表面の汚れを落とすことはできないが、錬金魔法の洗浄と異なり、表面だけではなく、内部の寄生虫を排除することもできる。
レンは手に入れた時点で食材に対してそれを使っているので、生卵でも安全ではあるのだが、これは食べ物ではないと教えられて育った者からしたら、易々と信じられるものではない。
だからクロエはレンの言葉に頷き、素直に待つのだった。
この世界には気象観測衛星などはなく、天気予報も老人の経験頼みとなる部分が大きいが、荒天がいつまでも続くものではないということは子供でも言い当てることができる。
雨期などもあるが、大抵の雨は3,4日で降り止むものだ。
カルタの村への滞在は、本来は数時間と予定していたレン達だったが、クロエが殊の外犬と猫を気に入ってしまったため、滞在期間を街への宿泊と同じ、2泊3日とすることとした。
「レン! レン! 小さくてかわいいのがいた!」
食事の後、雌の犬猫を集めたエリアに移動したクロエは子犬を見て興奮していた。
大人になったら、性別ごとに区画を分けるが、授乳のため、子猫、子犬は性別関係なく、雌の親と同じエリアに隔離されている。
猫は見知らぬ人間の登場に、子猫を隠してしまったが、ここで飼われている犬は皆、人間が大好きで、クロエ達が近付いても警戒もせず、軽くゆらゆらと尻尾を振る程度で、子犬を好きに遊ばせている。
「小さい。よちよちしてる。あ、来た、ええっ?! さっきの猫みたいな手触り?」
種類にもよるが、犬の多くは成長すると硬い毛が生えてくる。
だから、クロエが先ほど触れた柴犬なども、毛皮の手触りはヒトの髪よりも硬く感じられた。
だが子犬となると、全身を和毛が覆っており、しかもその毛が全部立って空気の層を作っているため、その手触りは大人の猫のそれよりも柔らかく感じられる。
クロエの伸ばした手が背中を撫でるのを避けつつ、その手が気になるのか体を捻ってクロエの手に鼻先を押しつけ、小さな舌で舐め、前足で抱きつき、最後には4本足全部で抱きついてじゃれる子犬に、クロエを始めとする女性陣は目がハート状態になっていた。
いや、レベッカとジェラルディーナはやや冷静である。
狩人の師匠を持つ彼女たちは、害獣と認識すれば、それが可愛い小動物に見えても殲滅する必要があるため、そのような訓練を受けているのだ。
柴の子犬に加えて、ハスキー、レトリバーの子犬もやってきて、尻尾を振りつつ、遊んでくれるのか、とクロエを見上げている。
やや落ち着きの出ている2歳くらいのシェパードの子犬は、少し放れたところからその様子を眺めているが、遊んで貰えるなら乱入すると言いたげに尻尾を振っていた。
「しかし、意外に数が多いんだな」
増えすぎれば食糧が不足する。だからしっかりとした頭数制限があるのではないかと考えていたレンは、コロコロとあたりを走り回る子犬と、子犬や母猫の尻尾を獲物に見立てて飛びかかる子猫の数に驚いていた。
いや、決して数は多くない。
多くはないのだが、普通に生まれて数年以内の子犬と子猫がいるということにレンは驚いたのだ。
「一応、下限と上限が決まっていて、その範囲で調整しているそうですわ」
村人から話を聞いてきたライカがそう報告する。
「数が少ないと、流行病などがあったときに取り返しがつきません。それに、親兄弟との交配を避けるには複数の家系が必要ですから、頭数が多くないと難しくなります」
遺伝子については知られていなくても、近親婚は避けた方が強い子が生まれる、というのは大昔から知られている。
時代を遡るほど、相互に往き来できる範囲は狭まり、近親婚が避けられなくなることもあるため、文化的に遅れていた頃の方がそうした危険性を肌で感じる機会が多かったのだ。
また、貴族などは近親婚の危険性が高い人種である。
元々それほど多くない貴族家同士で婚姻を繰り返せば、数世代遡って血のつながりがない家というのは稀になる。
だから近親婚が危険であるというのは、この世界では他人事ではなく、現実の問題として扱われており、家畜の家系についても、ある意味では人間以上に厳しく管理されているのだ。
「しかし、それだと随分と頭数が増えないか?」
「ええ、上限までは増やさず、どうしても越えてしまった場合は、次の世代を少し減らしたり、場合によっては間引いたり――森に放したりもするそうです」
「……まあ、共倒れになってしまっては元も子もないから、言いたかないけど仕方ないんだろうな……増えることを許容したら、どこかにシワ寄せが行くんだろうし……でもライカ、例えばこんなのはどうだろうか?」
そうして、レンとライカは、犬や猫の限界頭数を緩やかに増やしていく取り組みについて相談を始めるのだった。
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