第45話 賢者
街に戻ったレンは、クロエとフランチェスカ、それにエドと共に領主の館の厨房に足を運んでいた。
本来そこは平民が働く場所であり、そんな場所に貴族であるエドとフランチェスカがくれば使用人達は緊張する。そしてそんな場所に、貴族や下手をすれば王族にすら命令ができるクロエが入り込めば、大半の平民は逃げだす。もちろん、他の場所の掃除などの、その場から立ち去っても不自然にならない仕事を見付けてのことなので職場放棄とはならないように、だが。
エドならば厨房にいてもそれほど問題はないのだ。騎士爵ではあるが、叩き上げの騎士で元は平民であるし、元々騎士達は厨房に足を運ぶことが多く、それなりに人柄も分かっている。フランチェスカもまだ耐えられる。付き合いはないが、フランチェスカにもエドと似た雰囲気があるので使用人達の緊張の度合いはそれほど高くはない。
しかし神託の巫女ともなれば別格である。平民からすれば、神託の巫女は遠くから眺める、祈りを神に届けてくれる存在であって、間違っても、手が届くほどの近間で仕事をしながら片手間にお相手をするような存在ではない。
実際のクロエがどうとかに関係なく、もしも何か失礼があれば首が飛ぶというのが平民の偽らざる考えだった。
そして場所は厨房で、刃物も火も水もある。緊張して手が滑って水でも掛けてしまったらどうなるか、ましてや手を滑らせて飛んでいくのが包丁だったらどうなるのか、とそのように考えた者から、ひとり、またひとりと厨房を後にし、最後に残ったのは、本日の夕食のため、芋の皮むきを命じられていたアリアという少女だった。
「アリア、他の皆はどうした?」
「みんな、他の場所でお仕事があって……あ、あの、何をしに厨房に来た、の?」
貴族の館で働く以上、アリアにもそれなりの教養があり、普段なら敬語も使いこなせる。
しかし緊張のあまりか、アリアは敬語を忘れ去っていた。
エドと顔を見合わせたレンは、アリアに訪問の目的を告げた。
「あー、うん。手持ちの果物を見せて貰いたいのと、可能ならそれを分けて貰って、変わった飲み物のレシピを教えようと思ったんだけど……えーと、君は料理はできる?」
「できるよ? 難しいのは無理だけど、一応料理人だよ?」
「なるほど、それなら変わった飲み物のレシピを教えるから必要なものを用意してね。フランチェスカさんもメモとってくださいね……それでは、まず、炭酸水……これは森で汲んできたのがあるから、この樽の中身を使って貰うとして、
「ハムの薄切りを作るのに鉋みたいなの使うけど……他のものも全部あるよ? でも氷はないと思うけど」
アリアはレンに言われた物を食品庫や棚から取り出して厨房の中央にある作業用の台の上に並べつつ、氷という所で首を傾げた。
「今回は氷は俺が出すよ。俺がいなくても、タチアナさんも氷を出せるから、必要ならタチアナさんに頼んでね。多分、アイスボールの氷で足りると思うから」
レンは、アリアが用意したボウルの中に、アイスボールの魔法で球状の氷を作る。ざっくり直径30センチほどの氷を見て、アリアが嬉しそうな声を上げる。
「氷! 氷菓とか作れるね」
「今から作って貰うのも氷菓の一種だね」
レンは、アリアに何を作ろうとしているのかを教え、具体的な作り方を指示しながら、実際にアリアに作らせる。
「……これ、氷をここまで細かくする意味あるの?」
「氷が一気に溶けてなくなるから、短時間でしっかり冷えるのが利点かな。砕いた氷でもいいけど、適切な分量の削った氷を入れると、氷が一気に溶けてなくなるから、後から味が薄まったりしないし」
「でもそれって、食卓に出す直前に作らないと温くならない? 食後の飲み物は出すタイミングが読めないんだけど……」
「食卓に出すまで、氷の入った桶にでもデキャンタを入れておけばいいよ……それか、敢えて氷が少しだけ残るようにしても食感が面白いし……さて、完成したけど、エドさん、これ、アレッタさんに飲んで貰うんですか?」
レン達の後ろで、飲み物が出来上るのをみていたエドは頷いた。
「せっかくじゃしの。どれ、儂が持っていこう」
「え? エドワード様、そんな、給仕なんて私たちの仕事です」
慌てたようにアリアがそう言うが、エドはアリアからコップの載ったトレイを受け取ると、すたすたと厨房を後にした。
「レンは一緒に行かないの?」
「今日は特に用事もないしね……そうだ、アリアさん。グリーンベアを狩ってきたんだけど、解体とかできる人はいるかな?」
「ここだと騎士様達かな……後は、街の冒険者ギルドか、精肉店とかで頼めばやって貰えるけど」
「ありがとう。それじゃ俺は練兵場に行くけど、クロエさんはどうする?」
「行く」
クロエとフランチェスカを引き連れ、レンは練兵場に向かった。
練兵場の壁際にはアイスブロックが並んでいた。
練兵場そのものも少し冷えていて、隅の方で騎士達が氷を採取していた。
「タチアナさん、ちょっと良いですか? 採取のために森に入った際に狩ったグリーンベアの解体を騎士の皆さんにお願いしたいのですが。胆嚢と心臓と魔石以外は街に寄付します」
「グリーンベア、ですか?」
狩ったら速やかに血抜きをして冷やしてやらねば肉が臭くなる魔物の名を聞き、タチアナは困ったような顔をする。
エドたちが戻ってきてから、少し時間が経っていることを考えると、状態はそれほど良くないだろう、と考えたのだ。
「3体分ですけど、ここに出しても良いですか?」
「ええと……とりあえずこちらに」
タチアナは魔力回復ポーションを一本煽り、2本を手にすると、レンを練兵場脇の水場に案内しつつ。氷を取りに来ていた騎士に、ベア3体の解体のため、人手と道具を持って集合、と指示する。
レンが連れて行かれたのは、練兵場の横手に作られた水場だった。
井戸があり、その横にはモルタル製の流し場がある。
街を作る際に、人が立って歩けるギリギリの高さの本下水道と、そこに繋がる溝を作り、その上に街の基礎を作っているため、サンテールの街には下水道が敷設されている。
なお、川から引いてきた水を使い、下流に流すだけの単純な構造である。川の水を上水道として利用する習慣がないからできることだが、下水が流れ出ていく側は、時折酷い悪臭に見舞われる。
ちなみに、下水道に繋がる溝が近くにない住宅の場合、トイレは汲み取り式になるが、人糞を堆肥として使う習慣がないため、汲み取った物は下水本管のそばの公衆トイレに捨てられる。
地球の中世の西欧あたりと比較すると、窓から道路に捨てないだけマシだが、その理由は、街を汚染し尽くした場合、簡単に逃げ出せるほど人間の生活空間が広くないため、下手なことをすると処罰の対象にされてしまうから、というものであった。
レンがクロエを通してフランチェスカから下水事情を聞いていると、騎士達が集まってきた。
大きな鉈と、色々入っていそうな道具箱、それにかなりの長さのある角材を持ってきた彼らは、タチアナの前に整列した。
「タチアナ特務隊長。副隊長以下、やることのなかった6名、集合しました」
「副隊長、その特務隊長っていうのは何ですか?」
「ん。エドワード様が、タチアナには氷魔法強化の特務を与えるとおっしゃっていたからな。単独任務ならお前が隊長だろ?」
ニヤニヤと笑みを浮かべる副隊長に、タチアナは笑顔を見せる。
「では、副隊長の権限で、特務隊長分の手当増加をお願いしますね」
「それは副隊長の権限じゃ無理だって。それで、解体する魔物はどこにある?」
「レン殿、先程出すとおっしゃってましたが、こちらに出せますか?」
「ああ、流し場の周りに出せばいいか?」
タチアナが頷くのを確認し、レンは洗い場を中心にしてグリーンベア3頭をポーチから取り出す。
頭の部分も新鮮なら食用になるので隣に並べるが、それを見て、タチアナは呆れたような表情をする。
「随分と量が入るんですね……それにまだ暖かいし、まるで狩ったばかりみたいです」
「まあ、その辺りはクロエさんから特殊なポーチ貰ったしね」
クロエから貰ったポーチは、かなりの容量が入る代物で、それはエドたちも知っていることなので、レンはあまり誤魔化さなくても問題はないだろうと判断した。
「では、解体をお願いします。胆嚢と心臓と魔石だけは俺にください。他は差し上げます」
レンが騎士達に向かってそう言うとタチアナも頷いた。
そして騎士達が手に手に道具を持ってグリーンベアの腹を割き始める。
「クロエさんは、解体とか平気か?」
「グリーンホーンラビットくらいなら解体したことある……ここまで大きいのは初めて見るけど」
まだ新鮮な死体であるため、腹を割くとそれなりに血が流れる。
辺りに血の匂いが立ちこめ、これ以上は不適切と判断したフランチェスカはクロエを少しだけ後ろに下がらせる。
「レン殿!」
タチアナに副隊長と呼ばれていた男がレンを呼ぶ。
「胆嚢、一応縛っておいたがこれで良いかな?」
胆嚢は、切り出す際に胆管を縛っておかなければ、そこから貴重な胆汁が流れ出てしまう。
錬金術師がいる街の騎士なら、その辺りは任せても問題ないだろうと放置していたレンだったが、副隊長は思いのほか優秀だった。
「あと、心臓と魔石だな。肝臓は持っていかないのか?」
「ええ、錬金術の材料としても使えますけど、他の材料で代替可能ですから、食料にして下さい」
胆嚢と魔石と心臓をポーチにしまったレンは、タチアナに後を任せて屋敷の部屋に戻るのだった。
翌朝、レンが目を覚ますと、部屋の中の椅子に腰掛け、クロエが本を読んでいた。
寝る前に鍵は掛けた筈だが、とレンがぼんやりと考えていると、クロエと目があった。
「おはよう、レン」
「あー、クロエさん? どうやって入ってきたの?」
「シルヴィに頼んだら開けてくれた」
神託の巫女からの『頼み』である。それはシルヴィに取っては命令に他ならないだろう。とレンが考えていると、ドアの前が騒がしくなった。
「で、クロエさんは、エミリアさんたちに、ここに来るって言ってきた?」
首を横に振るクロエに、レンはため息を吐くと、ベッドから起き上がり、ドアへと向かった。
ドアを開けると、そこにはエミリアとフランチェスカがシルヴィに、ドアを開けろと詰め寄っていた。
「ドアは開けたよ? なんか、クロエさんが部屋に潜り込んできてるけど、護衛はどうしたの?」
「クロエ様がお手洗いに行くだけだからとおっしゃって、少し目を離したら抜け出されました」
「……で、クロエさんに命じられてシルヴィは部屋の鍵を開け、ドアの前にいたわけだね?」
レンの言葉に、シルヴィはホッとしたような表情でこくこくと頷いた。
そして、レン達がそんな話をしていると部屋の中からクロエが出てくる。
「結局、クロエさんは何をしたかったの?」
「錬金術の勉強。シルヴィに本を借りて読んでた」
「あ、そう言えば貸して欲しいと言われて錬金術大系を貸しました」
「なるほど……それなら、勉強は見てあげるけど、寝てる部屋には入ってこないこと」
「なぜ? レンはエルフだから心配はないだろうってエミリアが前に言ってた」
クロエのその言葉に、レンはどういう意味かと視線をエミリアに向けた。
するとエミリアはフランチェスカに視線を流す。
「……ええと、言いにくいことなら言わなくても良いけど」
「いえ、その、エルフは人間の中でもっとも性欲が薄いと言われてますので……それにその、ヒトに対してはその、あまりそういう目で見ないとも伝わってまして」
「あー、なるほど」
そう言えば、とレンは首を傾げた。
レンがこちらの世界に来てから半月ほどが経過しているが、その間、レンは一度もそういう欲求に悩まされたことはなかった。
どういう事だろうか、とレンが思考を巡らせると、知らない筈の知識がレンに答えを教えてくれた。
エミリアが言うように、エルフという種族は基本的に同族以外に発情することは希である。というか、そもそもエルフの男性は、常に賢者モードが続いているような状態なのだ。
だから、そういう衝動に襲われることはほとんどない。
エルフの寿命がヒトの10倍もある割りに、生涯通して、生まれる子供が少ないのは、そこに理由があった。
(常時、賢者モードってのは喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか……器質的な障害じゃないから勃たないってことはないんだろうけど。まあ、性的嗜好は元が人間……ヒトだから、ヒトでも大丈夫かな?)
どうなんだろう、と目の前にいたシルヴィをまじまじと見つめるレン。
「お師匠様?」
「うん、俺はエルフ以外でも大丈夫かもしれないから、クロエさんは部屋に勝手に入ったりしないようにね」
「……善処する」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます