十二 宇津田姫

 返事をしようと顔を上げたヒミカの横にピョコンと頭が覗く。

「駄目だよ。五郎叔父の了解取らないと」

トモだった。

「五郎叔父?もしや北条時房殿のことでしょうか?」

「うん、そう。俺、京に着いた時に五郎叔父に言われてんだもん。母上が誰かと結婚しそうになったら知らせろって」

「まぁ」

ヒミカは驚いて二の句が継げない。いつの間にそんなことを。

「でも北条五郎殿は鎌倉では?」

「今は京の六波羅に居るらしってミヤが言ってたから、六波羅に行けば多分会えるよ」

「ミヤ?」

「ほら、佐殿のお屋敷の飯炊きの子。祖母上と仲良しの。あの子が言っててん。六波羅に鎌倉からえらい綺麗な顔の武士が来はったって。光源氏みたいやわぁって女衆が覗き見しに押し掛けてるって噂」

「光源氏ですか。それはそれは。では、早速お会いして了解をいただいてきましょう」

「具親様、でも」

「まず北条時房殿のご了解を得てから、先程の続きをお話しさせてください」

ぐっと手を握られ、ヒミカは呑まれるようにして頷く。

「はい」

「じゃあ、俺がお供してやるよ」

トモの言葉に具親は顔を輝かせた。

「それは心強い。時房殿が光源氏なら、トモは夕霧かな」

笑う具親にトモは口を尖らせる。

「夕霧?俺、あいつ嫌い」

「じゃあ柏木?」

「もっと嫌いだよ。大体さぁ、源氏物語なんて男の読むもんじゃない。俺は源為朝がいい」

「それは勇ましい。でも確かにその通りですね。では為朝公、宜しく頼みますよ」

そう言って二人は仲良く出掛けて行った。時房に何と話をするのだろう?

 ヒミカは落ち着かずに時を過ごすが、二人はなかなか戻らない。やがて夕刻になって、やっと戻った具親の頰は腫れていた。

「具親様、一体どうなされたのですか?」

問うたらトモが答えた。

「五郎叔父が一発殴らせろって言って殴ったんだ。小四郎兄上に殴られた分を回してやるって」

「え」

確かに京に向かう前に三島大社の前でコシロ兄に殴られたとかいう話をしていたような記憶はあるけれど。

「でも、相手が佐殿じゃあ、しょんねぇ。小四郎兄上にもそう言っとくって言ってたよ。だから了解は得たってこと。だよね、佐殿?」

そう言ってトモは具親の背に飛び付いた。

「良かったぁ。これで遠慮せず佐殿の屋敷に居て、あのハァッてヤツとフカンて目を教えて貰えるね」

「おや、もしやトモは今まで遠慮してたのですか?」

「そりゃあ少しはね。でも佐殿が母上と結婚したら佐殿は俺の父上になるってことだろ?もう遠慮せずにこっちで遊べるじゃん」

ヒミカは苦笑して駆け回るトモを眺めた。連れて来た子らの中で一番年長のトモ。ヒミカや弟妹らを護ろうと責任を感じながら生きていたのだろうと思うと申し訳なさと共に愛おしさが胸いっぱいに広がる。トモは具親の背によじ登りながら聞いた。

「やけどさぁ、なして避けんとそのまま殴られたん?ほんまは軽くかわせたやろ?」

具親はトモの両の膝裏を持って背におぶうとゆらゆらとあやすようにして揺さぶり始めた。

「え、佐殿?わぁ、俺、赤子じゃないって!下ろしてくれよ」

「元服するまでは子どもです」

「やけどさぁ」

「元服していつか大人になったらわかりますよ」

「え、何が?」

「男はたまに黙って殴られなあかん時もあるんどす。覚えておきなはれ」

「えー、やだよ!そんなん堪忍したってや」

「おやおや、京言葉が大分と混じり始めましたなぁ。やけど、そゆうもんやで仕方あらへんのや」

「ちゃいますえ」

「え?」

「仕方あらへんやのうて、しょんないやねん」

「しょんない?」

「母上と結婚するなら覚えといて。母上の口癖だから」

「成る程。しょんないやねん、ですか」

「ちゃうねん、しょんないだけや」

「しょんないだけやどすか」

「ちゃうちゃう!」

「ちゃいますのんか?」

「そうや。ちゃいますのんや。えーと、何だっけ?」

「へぇ、何どしたかなぁ?」

多分にからかっているだろう具親に大真面目なトモ。微笑ましい二人の姿を見ながらヒミカは左手の薬指に巻いていた青い紐をそっと外していった。

「トモ、こちらへいらっしゃい」

トモを膝の上に座らせて、その髪を束ねている紐を外し、くしゃついた髪を丁寧に櫛けずると色褪せた紐で綺麗に結わえる。トモが元服する時には、鎌倉のコシロ兄の元へ多分戻ることになるだろう。そうしたら、この紐も鎌倉のコシロ兄の元へ帰るのだ。コシロ兄の母君の形見。


「おー、いてて。あの北条時房という方は、あんな美麗な顔でにっこりと美しく微笑みながら、思いっ切り遠慮なく殴ってくれましたよ。彼は前のご夫君の弟君なのですよね?貴女の義理の弟だったということですか」

「はい。でも彼はまだ三つくらいの年の頃から私に懐いてくれていたので、本当の弟のような存在です」

そう答えながら、冷やした布を具親の頬にあてがう。

「成る程。それは殴られて当たり前ですね。それにしても、鎌倉の方々にとって、佐殿、源頼朝公はとても大きな存在なのですね」

——佐殿。

「ええ」

ヒミカは頷いた。もっと生きていて欲しかった。護れなかった人。



「さて。では、先日私に聞きたいことがあると仰っていた、そのことについてお伺いしても宜しいでしょうか?」

 トモを隣の屋敷に戻して具親と二人きりになるなり、具親が問うてくる。

あ、と思う。あの時は阿波局からの文の宛先が具親の内室となっていたのを、具親が六波羅に嘘を伝えたのではないかと疑っていた。でもその疑いはもう晴れていた。

——どうしよう?あとは何を聞きたかったのだっけ。えーと、と頭を巡らす。

「具親様はずっと独り身でいらっしゃるのですか?どなたかお相手はいらっしゃらなかったのでしょうか?」


口にしてからハッと気付く。もっとやんわりと、それとなく尋ねてみるつもりだったのに、真正面から明け透けに問うてしまった。


「ご、御免なさい。私ったら何てはしたない。大変失礼いたしました」

頭を下げる。耳が熱い。きっと真っ赤な顔をしてる。

具親はその大きな目を更に見開いてヒミカを見たが、すぐに噴き出した。

「ええ、私はずっと独り身です。この屋敷を祖父から譲られてより、女人は下働きの者以外、屋敷内に上げておりません。妻にしたいと願ったのは貴女が初めてです。男としてはお恥ずかしい話なのでしょうが、そういうわけで妻子や妾などは全くおりませんので、その点はご安心ください」

 具親はきっぱりとそう言うとヒミカに向かった。

「失礼だなどと。貴女が私のことを憎からず思って気にかけて下さっていたのだとわかって嬉しかったです。それに、そのように真っ直ぐに聞いていただけてとても気持ちが良かった」

気持ちが良い?」

「ええ。貴女のそういう真っ直ぐで裏表の無いところが私は好きです。京の町は狭くて縁戚ばかりだからでしょうか。言わずと察せられることも多く、ありのままに言葉を発することが厭われる。言葉の裏の意味を読み取れと言われ、また発する言葉も、意図するそのままではなく、相手にそれとなく伝わるくらいに留めるよう身に染み込まれています。でも私はそんなまどろっこしい遣り取りがずっと嫌でした。思うことと口に乗せる言葉の間に隔たりがあるのに憤りすら感じていた。表に出さぬ裏の意味を読めと強いられる。それは心という見えない感じられない不確かなものを詠みあげる和歌と同じくらい、私には遠く意味のないものに感じられた。 だから必要のない時には京言葉は使わないようにしています」

「それで具親様は京言葉を使ったり使わなかったりなさるのですね」

「ええ。こんな頑固で偏屈な性質が悪いのでしょう。気付くと周りの人達と距離を置こうとしてしまう。だから妻を娶るなど、何を考えているのかわからぬ他人と暮らすなど考えたこともなかった。自分一人、死なぬ程度に程々に生きていければ良いと考えていた。自分勝手でひどい男です。私はきっと心を固く頑固に閉ざしていたのでしょう。水が欲しい。温かい日の光を浴びたい。心の奥底ではそう望みながら、冷たい風しか吹かない寂しい冬の田のひび割れた土のようにじっと縮こまって冷めた目で生きていた」

 冷たく、自嘲気味に話す具親の言葉をヒミカは黙って聞いていた。

「初めて貴女を見た時、黒い冬の姫、宇津田姫だと思いました」

「宇津田姫?」

ええ、と頷いて具親は続けた。

「春の佐保姫、夏の筒姫、秋の竜田姫、そして冬の宇津田姫」

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