十一 居待ち月

数日後の早朝、犬の鳴き声でヒミカは目覚める。また野盗だろうかと蔀戸を上げるのを躊躇った時、具親の声が聞こえた。具親が戻って来たのだ。ヒミカは急いで母や子らの朝の支度だけ整えると、着替えて具親の屋敷へと向かった。庭に放されていた犬たちは皆、具親の屋敷に戻っているようだった。


「おはようございます。具親様、お戻りでしょうか」

声をかけて様子を窺う。具親は驚いた顔でヒミカを見た。

「あ、おはようございます。すんまへん、今しがた戻ったばかりでして。ちょお失礼します」

具親は珍しく厳しい顔をして家司を呼び出すと、二人して奥の部屋に入って行った。ヒミカは家司とは顔はたまに合わせる折に挨拶はしていたが、寡黙な人のようで向こうから話しかけられることはなかった。葬儀で何かあったのだろうか?京は狭くて噂はすぐ広がると言っていた。もしや、自分が妻の振りをしてることで問題でも起きたのではないか。

具親は珍しく気が立っているようで、ヒミカの居る所まで声が筒抜けに聞こえて来る。立ち去ろうかと、そっと足を踏み出すが、鎌倉という言葉が聞こえてしまい、足が留まる。

「そうなんや。鎌倉から、父の屋敷に豪勢な祝いの荷が届いたんやて。妹の見舞いにいらはった人もおったさかいに、えらい困ったゆうて責め立てられたわ。どないなってん?健人、あんた六波羅の中原殿や北条五郎殿に一体何て言うたんや?」

「北条五郎なるお人は既に鎌倉に戻られたっちゅうんで、中原殿に、あのお方は左兵衛佐殿のご内室としてお迎えするつもりやから、どうぞお心安らかに早よ東国へお戻りやすとお伝えしただけどす」


「あんた、また嫌味たらしい言い方して。それに、言うた筈やろ。姫の前殿は妻の振りをしてくれてはるだけやて」

「はぁ」

「はぁ、やないわ。どないしてくれんの」

「どないて、そのままでええんとちゃいますやろか。まことの北の方になってもろたら」

「え、まことの?」

「へえ。殿が言い出せんのなら、あてが代わりにお伝えいたしまひょか」

「健人!」

具親が怒声を発した直後、戸が開いて家司の健人が顔を出した。ヒミカを見て驚く様子も見せなかったということは、ヒミカが立ち聞きしているのに気付いていたようだ。ヒミカは目を瞬かせて健人を見つめる。健人はヒミカに軽く目礼すると何のことはない顔でさらりと言った。

「お聞きにならはりましたでしょう。振りだけやのうて、殿のまことの北の方になっていただけませんやろか。姫の前殿」

「え、姫の前殿?」

具親が慌てて出て来る。

「御免なさい。聞いてしまいました」

具親は絶句して、ヒミカと、その前で頭を下げる健人を見比べている。

気まずいこと、この上ない。どうしよう。

とりあえずヒミカは頭を下げた。

「あ、あの。お帰りなさいませ」

「あ、ああ、うん。いや、ええ。いや、えーと。とりあえず着替えてきます」

そう言って、具親はそそくさとその場を後にした。

「では、私はこれにて」

健人は至極淡々とした様子で廊を歩み去っていく。置いて行かれたヒミカは、暫し呆然と部屋の中を見回した。まだ朝だから部屋の中が寒々しい。でも健人は火桶を用意してくれていた。火桶の傍へ寄る。それから笙の笛に手を伸ばすと、火桶の上で自らの手と共に笛を温めた。

「あったかい」

呟いて、ホッと肩の力を抜いた。

——良かった。

あの文が届いてからずっと、具親が六波羅の中原親広殿や時房殿に、ヒミカを妻にしたと嘘を伝えたのではないかと疑っていた。でも違った。家司の健人が気を回しただけだったのだ。勿論それも許し難い事だけれど、健人は彼なりに具親を大切に思っているからなのだろう。

「良かった」

もう一度口に出してからヒミカは笙の笛を口に当てた。静かに吸って、吐いて。高い音、低い音。少しずつ異なる音色が不思議に重なり、揺れるように震えて互いにぶつかり合い響き合う。佐殿は言っていた。笙の笛の音は天から差し込む光を表しているのだと。天から差し込む光ってお日様のことかとヒミカが尋ねたら、佐殿は頷いた後に、他にもあると答えた。月のことだったのだろうか?でも、もっと他にもあるような顔をしてたように思う。

——天から差し込む光。

まだ閉じられていた蔀戸を開けてヒミカは空を見上げる。薄青い西の空にぽっかりと白い月が浮かんでいた。少しだけ下の方が欠けた居待ち月。数日後には半分になって、三日月になって、そして闇夜が来る。でもやがてまた満月が廻ってくる。そうして、欠けては満ちてを繰り返しながら月は私たちを見守ってくれている。だからヒミカも弱くなったのならまた強くなればいい。力を満たせばいいのだ。

そう思ったらお腹の中から力が湧いてくる気がした。

遠い鎌倉も朝だろうか。コシロ兄もこの月を見ているだろうか。西にいる自分のことをたまには思い出してくれているだろうか。

——ええ、きっと。

ヒミカは月に向かって頷くと

「しょんない。やるしかないか」

かの人の言葉を 呟いた。

そう、しょんない。そういう流れであればしょんない。でも流されながらも自らの大切な芯だけはしっかりと保っていればいい。

その時、具親の問いが胸によみがえった。

——貴女は何をしに京へ来たのですか?

何を?それは決まっている。皆を護ること。子らも母も自分も、コシロ兄もアサ姫も鎌倉の皆も、そして全ての存在。

 そう、全てを護る為に泰平の世を作る手伝いをしたい。


「姫の前殿、先程は大変失礼した」

声をかけられて振り返れば、具親が立っていた。いつもの顔。いつもの直垂。その佇まいにホッとする。具親はヒミカの隣に腰を下ろすと、申し訳ないと頭を下げた。

「いいえ、健人殿は具親様のことをご心配されてのことなのでしょうから。でも良かったです」

「良かった?」

問われてヒミカは頷いた。

「私は健人殿に嫌われているのではないかと思っていたので、そうではないとわかって安心いたしました」

「貴女を嫌うなど、まさか。彼はあの通り愛想がありませんし、口もあまり良くありませんが、貴女のことをそんな風に思うわけがありません。彼は私の乳兄弟で、幼い時からずっと偏屈者の私のそばにいてくれる数少ない味方なのです」

「偏屈者?具親様が?」

とてもそうは感じられない。

「ええ、私は幼い頃から父に歯向かってばかりで折り合いが悪かった。父は祖父と比べて官位に恵まれず、それを恥じて私や兄に厳しく教育を施しました。兄は素直に受け入れていましたが、私はそんなのはごめんだと屋敷を飛び出したのです。まだ十になる前の頃のことでした。夏だったので、涼を求めて山を目指し、千代の道を歩いていた。そこで一人の僧侶に会いました。ボロボロの袈裟を纏っていたけれど、目がとても優しくて何だか妙に惹かれたので、私は彼に付いて歩いた。不思議な僧でした。私を煩がることもなく腹が空いたと言えば食べるものを恵んでくれ、美味しい水の流れる所を知っていた。夜には火を起こして色々な話をしてくれた。また和歌も詠んでくれた。句は忘れてしまいましたが、その和歌はそれまで父母から教え込まれたものとは全く違う、何というか強さと優しさと儚さに溢れた切ない和歌でした。私はそれを聞いた時に絶望したのです。自分にはこんな句は詠めないと。やはり自分は駄目なのだと泣き出した私を、その僧は皆それぞれ好みや感じ方が違うから良いのだと言って、和歌など、もっともらしく切り貼りして音遊び、言葉遊びにして楽しんでしまえばよいと、本歌取りの面白さを教えてくれました。それで私は言葉遊びとしてなら和歌を詠めるようになりました。それが何故か院のお気に召し、お蔭で私は能登守を経て左兵衛佐の位を得た。また和歌所の寄人にも撰出された。でも私はやはり和歌の心がわからないまま。あの日聞いた僧の和歌に憧れ続けながら遠く及ばない。寄人という責任ある立場と実の無さ。ちぐはぐな自分にほとほと嫌気がさしていた時に貴女が現れた。比企朝宗殿のご息女の貴女が。私の前任の能登守は比企朝宗殿です」

「あ」

思い出す。北陸に勧農使として出向いた父と、そんな寒い所へと文句を言っていた母。

——ヒミカ。

優しく名を呼んでくれた父の笑顔を思い出して、ほぅと息を吐く。その時、具親がまっすぐヒミカに向いて口を開いた。

「どうか浅からぬご縁と思し召し、私の妻になっていただけませんか?振りではなく、まことの妻に。貴女がもう泣かずに済むよう、神の手を使わずに済むよう、私の生涯をかけて守らせていただきたい」


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