三 東雲の
「おい、あれは何だ?」
その声を聞いた途端、ヒメコは阿波局の袖を引っ張った。床下からそっと抜け出て、小屋へと這い寄る。小屋の向こう側には松明を持った男たちが数人いるようで声が聞こえて来る。
「あ、これは江間様。如何なさいました?」
「あれを見よ。火がおかしくないか?まるで鬼火のようだ」
「え?」
「うん、御所には霊が出るとは聞いていたが、あれがそうか」
「えっ、た、祟りですか?」
「そうやも知れんな。この鎌倉は元は寺社町。それに御所に恨みを残して死んだ者も数多くいる。お前も噂は色々聞いておろう」
「は、はい、でも、あの」
「見て参れ」
「えっ?」
「怨霊であれば何か話したいことがある筈。行って話を聞いて参れ」
「え、ええっ!そんな殺生な」
「怖いのか。では、おい、そこの。お前もついて、二人で行ってこい。ここは俺が見張っておく」
「えっ、でも」
「そっと見てくるだけでいい。何も無ければ戻ってきて、そう報告しろ」
コシロ兄の命令に警護の男たちが去る足音。阿波局とヒメコは小屋の壁へと張り付いた。阿波局が声を上げる。
「阿野全成様。殿。おいでですか?」
小屋の中からは読経の声が漏れ聞こえてきたが返事はない。聞こえないのだろうかと危ぶんだ時、阿波局が壁をパンと叩いて声を張り上げた。
「あー、もう!辛気くさいっていつも申しておりますでしょ。経なんて読んでないでお返事して下さいまし」
読経の声が止んだ。
「ほら、貴方が文を書き散らかすから私の袿の裾はいつも真っ黒になってしまうんですわ。聞いてます?ね、殿!何とか仰って下さいませ!」
ヒメコはハラハラしながら阿波局の横顔を見ていた。声の大きさに先程の警護の男が戻って来るかもしれない。
「だが私が喋ればお前の声が聞こえない。私は喋るより聞く方が好きなのだ」
それは小屋の中からの声。
「殿!」
阿波局が伸び上がる。
謀叛の疑いなど、すぐに晴れますわ。調べればすぐに!私が大姉上に言って何とかしますから!だから……」
「ヤス」
阿波局の身体がピクリと反応する。彼女の真名なのだろうか。
「お前の声は私に力をくれた。ずっと聞いていたかった。だから喋っていてくれ。四郎にも喋り続けてやってくれ。これからは四郎が私の代わりにお前のお喋りを聞いてくれよう」
「いいえ。あの子は私が喋るとそっぽを向きます。笑って聞いて下さるのは殿だけです。だから。だから帰ってきて。私の元に」
「ああ。いつでも何処でもお前の声を聞いているよ。耳から離れないからな。小鳥の囀りのようなお前のお喋りは」
小屋の中から染み出してくる深い慈しみの気配。彼はこれが妻との別れだと覚悟している。妻の今後を案じながら、静かにこの時を味わっているのだろう。阿波局が、すぅと大きく息を吸った。
「しののめの 別れを惜しみ我ぞ先づ鳥より先に泣きはじめつる」
ヒメコは驚く。和歌を口にする彼女を見たのは初めてだった。小屋の中から微かな笑い声が聞こえたような気がした。
「ヤス、礼を言う」
その時、ガチャガチャと男の足音が近付いてきた。ヒメコは阿波局の手を引いて御所の床下へと戻る。
「江間様!異常はありませんでした!」
「そうか。では後は頼む。私は御所へと戻る」
コシロ兄は去り際、短く口笛を吹いた。やがて近付いてくる小さな足音。床下から這い出た二人の背をトンと押す小さな手。
「ご用は済んだんだね。じゃ、帰ろ」
トモだった。阿波局はトモを抱きしめた。
「トモ、恩にきるわ」
トモは照れ臭そうに笑って指で鼻を擦った。黒く染まる頰。薄い月明かりの下、よくよく見れば、その手は真っ黒に汚れていた。
「どう?鬼火作戦だよ。牛の角に松明をくっ付けられたら良かったんだけどね、俺しかいなかったから、手で持って走り回ってたんだ。皆祟りだってびっくりしてただろ?」
ヒメコは頷いた。
「ええ、大の男たちが震え上がってましたよ」
いつのまかにか大きく賢くなっていた我が子。そして、そっと支えてくれたコシロ兄。自分は幸せだ。幸せに囲まれている。そっと夜空を見上げ、半分に欠けた月に手を合わせる。月は笑っているように見えた。
屋敷に戻り、汚れた着物などを着替えて人心地ついてから阿波局と向き合う。
「貴女様が和歌をお詠みになるのを初めて見ました」
そうしたら阿波局は少し困ったように笑って肩を竦めた。
「殿がお好きでね。私は全然よ。ただ、あの東雲の歌は覚えてしまったの。殿と迎えた最初の朝に聞いたお歌だったから。でも後から意味を聞いたら、別れの歌だって言うじゃない。怒ったわよ。縁起でもないって。そしたら殿は笑って答えたの。『ほら、私の小鳥が賑やかに囀り出した。朝だ。腹が減ったな』って。その静かな声と落ち着いた対応がとても頼もしく男らしく見えたの。惚れた瞬間だったわ」
そう言って微笑んだ阿波局の横顔は美しく気高かった。早く疑いが解けて二人がまた一緒に暮らせますようにと祈る。でも、そうして見上げた月はすっかり雲に隠されていた。
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