二 合言葉
コシロ兄の言葉に阿波局は顔を上げる。
「そんな大事な話を女達に聞かれるように文官連中がするものか。女官らはわざとお前に聞かせるように話すよう言い含められていたのだろう。狙いはお前と阿野全成殿。そして千幡君だ」
「え」
「何がなんでも一幡君に家督を譲らせたい者が、千幡君に泥を付けようとしてるのだろう。比企能員殿か、または一幡君の母の若狭局か」
——または比礼御前?
ふと浮かんだ考えにヒメコは首を横に振った。
「嵌められた?罠だってこと?私は御所から逃げ出してはいけなかったの?殿はどうなるの?どうすればいいの?」
狼狽えて泣き出した阿波局の肩をヒメコはしっかりと抱いた。
「お前が父に情報を流していることを知って、裏から父を動かそうとしたか、お前自身に不審な動きをさせたかったのか。とにかく、一度出た以上、御所や阿野の屋敷は危険だ。ここに暫く身を潜めていろ。俺は御所に行って将軍様のご容態を確かめてくる。父も詰めている筈だから話もしてくる」
そう言ってコシロ兄は出掛けて行き、翌日の夜に戻って来て言った。
「将軍様は病から回復して沐浴もされたらしい。早速蹴鞠の会を催すそうだ。他に御所内に特に変わった様子は無さそうだったが、用心して外には出るな。阿野殿にも連絡を入れない方がいい」
「でも」
「阿野殿には密かに使者と護衛を何人か北条と江間から出してある。比企殿がどう出るかわからないが、将軍様が回復された今、性急に動くことはないだろう。実際の所、毒が本当に盛られていたかどうかもわからないんだ。大人しくしてる方がいい」
コシロ兄の言葉に阿波局は黙って頷いた。
だが、その一月後、事は突然に進んだ。
五月、御所から戻ったコシロ兄は固い顔で阿波局に向かった。
阿野全成殿が謀叛の疑いで拘禁された。動いたのは甲斐の武田だ」
「武田?」
「武田は梶原景時殿と通じていた。当然、比企とも通じている。武田はかねてより駿河国を狙っていた。比企からの申し出に、これ幸いと乗ったのだろう」
「謀叛の疑いって、そんなあり得ないわ。殿は今どうされてるの?私が動いたせい?どうすればいいの?」
立ち上がって外に飛び出そうとする阿波局をヒメコは必死で押し留める。
「出てはいけません!貴女にまで何かあったら、お子はどうなるのです!」
阿波局はその場に膝をついた。
「私のせいだわ。私が梶原一族を滅ぼすきっかけを作ったから報復されたのね」
——報復?
梶原一族が滅びたのは聞いていたけれど、それに阿波局が関与していたのは知らなかった。コシロ兄が知らせなかったのだろう。
「そうかも知れない。だが、そればかりではない。比企からしたら、一幡君の立場を強くする為には千幡君を擁する阿野全成殿は目の上の瘤だった。とにかく今は謀叛の疑いというだけで、御所に留め置かれている状況だ。これから取り調べがある筈。将軍からは叔父にも当たるお血筋の方。滅多なことはないだろう」
「でも阿野全成様は頼朝公の弟君。ということは、将軍家を継ぐ権利も本来はお持ちの筈ですよね?」
ヒメコの呟きに皆が一斉に振り返る。
「まさか、そこまで」
言いかけたコシロ兄が口を引き結ぶ。続けたのは阿波局だった。
「先の将軍様は弟の九郎殿を粛清された。今の将軍は頼朝公を真似て狩を頻繁に行なったり、京の公家を招いたり、あからさまに真似をして強い将軍であろうと焦っている」
——父の道を踏襲しようとするのが息子の宿命。だとしても。
ヒメコは立ち上がって床板を外した。阿波局に向かって手を伸ばす。
「御所へ行きましょう」
「おい!」
咎めるコシロ兄の声を無視して草鞋を二つ床下に投げる。
「今ならまだお会い出来ます!」
——でも、今を逃したらきっと二度と。
それは声には出来ずにヒメコは阿波局と共に床下を駆け抜けた。泰時の屋敷を飛び抜けて御所へとひた走る。
と言っても真正面から乗り込む訳にはいかない。それに既に辺りは暗くなってきていた。誰か下女が出てくるのを待って、と思った時、声がかかる。
「こっちだよ」
振り返ればトモが裸足で立っていた。
「こっちに抜け穴があるんだ」
導かれて狭い隙間を抜けて行く。昔、金剛が頭を葉っぱだらけにして御所に潜り込んだ姿が蘇る。
——子どもはいつも元気で逞しい。
ヒメコは嬉しくて泣きそうになった。子どもの元気は周りに力をくれる。
「御所内で誰かが拘禁されるとしたら、ほぼがあの小屋よ」
忍び込んだ御所の内庭。阿波局が指差した方角には独立した小さな小屋があった。周りを遠巻きに警護の武士達が取り巻いている。
「とても近付けそうにないわね」
「少し待ちましょう」
二人は御所の床下に潜り込み、小屋をじっと見張った。やがて辺りが暗くなり、渡された廊を渡って食事が運び込まれる。だが、その運び役は女官ではなく男で、また帯刀していた。暗闇から届く鎖と閂の重い音が、中には容易に入れないことを二人に知らせる。
「会うのは無理だわ」
歯を食い締める阿波局にヒメコは尋ねた。
「合言葉はないのですか?」
「合言葉?」
ヒメコは頷いた。
「普段、夫婦だけで通じるような、その言葉を聞けば、貴女だと分かるような言葉です。せめて声だけでも。今お側に居ることだけでもお伝えしましょう」
阿波局は少し黙って左手に目を流した。その時、ジャリという音がして、二人の前に足が見えた。ヒメコは阿波局と抱き合って身を固める。
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