二十七 馬
「大変申し訳ございませんでした!」
ヒメコはその場に平伏して息を詰めた。
「それらは姉上の馬か?」
問われ、肯定の返事をする。
「母上、姉上のお具合はどうか?」
意外な言葉につい顔を上げてしまう。歳よりも大人びて表情のない顔がヒメコを見下ろしていた。
「冷え込みが厳しく、少し伏せっておられますが、大事はないかと存じます」
万寿の君は、そうか、と答えると黒い馬に乗って去って行った。普段、万寿の君は比企ヶ谷の能員の館にて養育されていて、何かの行事の時くらいしか御所には姿を見せない。もしかして母君の具合を案じてわざわざ出向かれたのだろうか。引き止めてお引き合わせ出来れば良かっただろうかとヒメコは思った。
その数日後、ヒメコはアサ姫に呼び出された。
「万寿の馬が怪我をしたそうよ。大姫の子馬との衝突が原因だとか。比企能員が、馬を扱っていた女房と馬を引き渡せと言って来たの。それを聞いた大姫が酷く怒って、子馬にぶつかられたくらいで怪我をするような弱っちろい馬に乗っている方が悪いと殿に言上して、殿が間に入って何とか収めてくれたのだけれど、とにかく姫御前に会わせろって。一度だけ会って謝罪してくれる?私が立ち合ってきちんととりなすから」
現れた万寿の君にヒメコは陳謝した。万寿の君は一言も喋らずにヒメコを見ていたが、同席した比企能員は大層な剣幕だった。
「若君が類い稀なる武人であるが故に大事ありませんでしたが、当たったのが大姫様のお馬でなければ、また扱っていたのが大姫様の侍女でなければ、即刻その首刎ねられていたことでしょう!」
アサ姫が静かに声をあげた。
「能員、それはどういうこと?」
比企能員が目を見開く。
「は?」
アサ姫は静かな声のまま続けた。
「万寿は子馬にぶつかられた程度で怪我をするような軟弱な馬に乗せられていると言いたいの?そして、たかが女子の小さな不始末に目くじらを立ててその命を奪うような器の小さな男だとでも?」
比企能員は慌てた。
「いや、御台様、けして若君はそのようなことはなく」
「では、誰が首を撥ねるというの?もしや万寿ではなく、能員、そなたが万寿の名を借りて、そのような蛮行を行なうということですか?」
「な、何ということを!幾ら御台さまと言えど、そんな侮辱は許せませぬ。かくなる上は前右大将様に掛け合って」
その時、万寿の君が立ち上がって、比企能員を蹴り飛ばした。
「能員!母上に無礼であろう!下がりおれ!!」
比企能員はもんどりうって壁まで転がって行ったが、慌てて立ち上がると礼をして立ち去った。
「母上、申し訳ございませんでした」
万寿の君はアサ姫に礼をして立ち上がり、部屋を後にしようとした。ヒメコはそれを追った。万寿の君の腕を掴んでアサ姫の方へ振り返らせる。
「若君、お待ち下さい!御台さま、若君は母君と姉君のお加減が悪いと聞いて、それを案じてわざわざ小御所にいらしたのかと思います。それを私が迂闊な行動をした為に邪魔してしまいました。誠に申し訳ございません。どうか、お話をして差し上げて下さいませ」
アサ姫は万寿を見つめた。
「万寿、それは誠なの?」
アサ姫の問いに万寿の君は顔を真っ赤にして怒鳴り返した。
「いいえ、ただの朝駆けです!」
そして掴んでいたヒメコの手を振り払うと去って行った。
不器用なお子なのかもしれないとヒメコは思った。
でもそんな呑気なことを思っている場合ではなかった。
翌朝、大姫の部屋の前に馬の死骸が転がされているのを侍女が発見して大騒ぎになる。それは老馬で大姫の馬ではなかったが、まるで脅しのように感じられた。
夕方、蔀戸を閉めて回っている時、
「姫御前」
低い声に呼びかけられる。
縁の下にコシロ兄が立っていた。
急いで段を下りて行く。
「平気か?」
尋ねられた。
小御所での事件を聞いたのだろう。
「少しだけ警護を替わって貰って出て来るのを待っていた。会えて良かった」
「はい」
頷くも、何から話していいのか何を話していいのか分からない。でも黙っていたら泣いてしまいそうでヒメコは必死に口を開いた。
「あの、先の八幡宮の遷宮では御剣持ちのお役目ご苦労様でした。とてもご立派だったと聞きました。私も拝見したかったです」
そう、見たかったのだ。コシロ兄の晴れ姿。絶対に見たかった。なのに自分は何をしていたのだろう。他人の都合に振り回されて、大事なことを失いかけていたように思う。
「私、一度御所を下がって比企に戻ります」
かろうじてそれだけを言ったらコシロ兄は、ああと答えてくれた。
「藤五に送らせる。準備が出来たら江間に来てくれ」
ヒメコは頷いて部屋へと戻った。
翌日、アサ姫に暫く比企に戻りたい旨を伝える。アサ姫は承諾してくれた。
「そうね、今はそれがいいと思うわ」
大姫の元にも挨拶に伺う。
「万寿のこと聞いたわ。御所内が騒がしい間は少し比企でゆっくりしてらっしゃい。私は平気だから」
具合の良くないアサ姫と八幡姫に心配をかけてしまっていることを申し訳なく思う。
「年が明けて少ししたら落ち着くでしょう。頃合いを見てまた呼び寄せるから少し骨休みなさい」
そう送り出され、ヒメコは御所を出た。
江間の屋敷に着けば、コシロ兄が待っていた。
「私は送りに行けぬが、藤五がしかと送るから安心して暫し比企で待っていてくれ」
ヒメコは頷いて手を差し出した。コシロ兄が怪訝な顔をする。
「少しだけ、触れてもいいですか?」
途端、差し出した手を引かれ、強く抱きしめられる。
「来年には必ず」
低い声に包まれ、ヒメコは目を閉じて、はいと答えた。
ずっと側に居たいのに、共に居られる時間はいつも思うより遙かに短い。
いつか八幡姫に言われた通りだと思った。
「一緒に居られる時なんてとても短いのよ。いつもそこに居ると思ったってそうとは限らないんだから」
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