三 慶び

一 田植え祭

翌月末、奥州の覇者、鎮守府将軍陸奥守、藤原秀衡が病死した。秀衡は死の前に嫡男泰衡に自分の死後は義経を大将に陸奥の国務にあたるよう遺言したという。翌年、頼朝は京に働きかけて、泰衡に対して義経を引き渡せという勅命を出させた。でも泰衡はなかなか従わない。そんな内に季節は移り変わり夏になった。大姫の部屋の前庭で田植神事が行われる。女官らが普段の重い衣装を脱いで長い髪を後ろに括り、身軽な、というより手足を剥き出しにした田植女の恰好で苗を植えていく。ヒメコも襷掛けに裾を高く上げて折り込んだ田植女の格好で参加した。泥の中に足を入れる。

ズブズブと沈んでいく足。

「わぁ、気持ちいい」

華やいだ声に顔を上げれば、八幡姫がいつの間にか同じ格好になって列に並んで手足を出して泥に足を突っ込んでいた。

「あ、お、おお」

大姫さまとは呼べずに

「おお、重いですね。足がとられます」

誤魔化す。チラと邸の縁に目を飛ばせば、頼朝とアサ姫がこちらを見つつ諦め顔で座っていた。先に生まれた乙姫がアサ姫の膝の上にいる。

女たちで先に教わった田植唄を歌いながら並んで苗を植えていく。その歌に合わせて御家人らの中でも腕に自信のある者らが鼓や笛を奏でる。明るく楽しげな雰囲気だ。ヒメコは伊豆北条の廣田神社での神事を思い出していた。あの時は田植前の苗を楠に投げ上げたんだっけ。アサ姫が大姫を懐妊した頃だった。もうあれから十年経ったなんて、と感慨深くなる。

「あ、蛙!」

八幡姫の声に顔を上げれば中くらいの蛙がピョンと飛んだ。その先でノタノタゆっくり歩いていく小さな子もいる。

「まぁ、本当に。夜はきっと賑やかになるでしょうね」

「そうなの?、嫌だ。眠れるかしら」

八幡姫が顔を顰めるのに、すぐ慣れますよと返す。

伊豆北条にまだいた頃、大姫が夜泣きをするとヒメコがおぶって外を歩いた。一緒に蛙の大合唱を聴きながらそぞろ歩いた。人の気配と大姫の鳴き声で蛙達は一瞬鳴き止むけれど、またすぐに鳴き始めてその声は耳をつんざくばかり。大姫の泣き声と蛙の鳴き声、どちらが大きいかと思った程だった。懐かしい北条の日々を思い出してヒメコは頬を緩ませる。

また伊豆に行きたいな。

苗を植えながら心の中で歌い出す。

「ひと、ふた、みい、よ、いつ、む、ゆ、ななや、ここの、たり」

あの時は龍が出て来たっけ。

「ああ、もう。歩きにくいたら!」

文句を言った八幡姫がきゃあと悲鳴を上げて前につんのめる。

「あああ。何よ、これぇ」

八幡姫の手は肘まで泥々になっていた。ヒメコは笑うのを堪えて言う。

「泥はお肌にいいんですよ。肌を綺麗に真っ白にしてくれるんです」

言ったら周りの女官達が振り返った。

「肌が真っ白?」

「ええ。泥を肌に塗って暫くしてから洗い流すと肌の汚れを一緒に持って行ってくれるので透き通るような白い肌になるそうです」

へぇ、と興味津々で聞く女官達。それに泥のこの包み込むような滑らかな触感は気持ちも癒してくれるようだとヒメコは思った。実際、田植前には田植なんてとあからさまに不機嫌な顔をしていた女官達が今は皆笑顔で気持ち良さそうに泥を掬って自らの手足を擦っている。ヒメコも泥の中に手を入れた。

蛙がピョンと飛ぶのを目で追って頬を緩ませる。

と、泥の水を通して何か違う思念が飛んで来た。

けっして許すものか。殺してやる。

殺気だとわかった。でもどこ?誰に?

縁へと目を飛ばす。縁の間際で田植をのんびりと見物している頼朝。その隣に腰を下ろすアサ姫。そしてその脇に控えているコシロ兄。その手前に田から上がった女が見えた。


ヒメコは咄嗟に田の畦に置かれていた麻袋に手を伸ばすと引っ張り上げ、縁に向かって投げつける。


麻袋から苗がバラバラと落ちて田に落ちて泥水を跳ね返したが、麻袋は狙い通り縁ににじり寄っていた一人の女の背を直撃し、女は前のめりに倒れた。

「コシロ兄、捕縛して!」

ヒメコの叫びに楽が止まり、女達は悲鳴を上げて田から這い出て行く。

ヒメコも八幡姫を助けながら畦に上がった。

「今のは何?彼女がどうかしたの?」

問われてヒメコは捕縛されて連れて行かれる女に目を送った。女官仲間ではなかった。いつの間に紛れ込んだのか。頼朝の命を狙っていた。

「わかりません。ただ何となく怪しいと思ったので麻袋を投げたら偶然当たったのです」

「何となくで麻袋を投げた?あれ、とても重くて男二人でえっちら抱えて来てたのに。おまけに捕縛まで指示して、何か見えたの?」

「見えたわけでなくて聴こえたのです、と答えかけてヒメコは止めた。耳に聞こえる声ではなかった。ただ、ああしないと斬られて死んでしまうと思ったのだ。

ヒメコはその夜から高熱を出して伏した。それに左腕の付け根が軋むように痛い。麻袋を投げたのは左腕だった。重かったらしいし無理がたたったのも知れない。


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