八 白菊の歌

九月、頼朝が出かけると言って牛車を用意した。連れて行かれた先はまた比企庄だった。アサ姫が微笑んで教えてくれる。

「比企の尼君様から文を頂いたのよ。不思議な白菊が一面に咲いたからいらっしゃいと」

あ。ヒメコは思い出した。

藤原邦通の菊の種が上手く根付いたに違いない。

「丁度重陽の節句。今年は邦通の菊がないからな。こちらに皆でお邪魔して祝おうと思ったのだ」

邦通殿の菊ですよと言いたいのをヒメコは我慢した。

牛車を降りて見てみれば、確かに一面の白菊が敷きつめられていた。


「心あてに折らばや折らむ初霜の おきまどはせる白菊の花、にはまだ少し早いかな」

「え?」

頼朝が口ずさんだ和歌に首を傾げる。

「凡河内躬恒だ。知らんのか」

頼朝に言われてヒメコは首を横に振る。

「おーしこーち、のみつね?」

「凡河内みつね、歌人だ。古今集にある。秋の朝、初霜が下りて白い菊の花が真っ白になっている。霜なのか白菊なのかわからない。当てずっぽうに手折ってみようか。そういう歌だ」

へえ、とヒメコは目を瞬かせた。

「お歌は難しいですね」

取っ付き難い。そう滲ませたら頼朝は苦笑した。

「では、土佐日記は?凡河内躬恒と同じ時代の紀貫之の日記だ」

ヒメコは頷いた。

「ええ、あれは面白かったです。仮名だから読みやすくて語り口も軽やかで楽しげな心が伝わってきました」

「紀貫之も歌人だ。和歌は難しいものと思い込まずに挑戦してみろ。口にしている内に段々わかってくる」

「はぁ」

音を辿るくらいなら出来るかもしれないけれど、と思いながら曖昧に返事する。

「では、千早振る、ならばどうか?」

問われてヒメコは、ああと手を打った。

「神に繋がる言葉ですね」

ち、は命、千。ちはやふる、はその勢いが人智を超えて計り知れない程に激しい様子を表すので神に繋がる言葉なのだと祖母は教えてくれた。

と、頼朝が笑った。ヒメコが不思議に思って眺めると、頼朝は「やはりな」と呟いた。

「人は興味のあるものなら目が止まり、耳が音を拾う。そうして何度か見聞きしていく内に知を深めていくのだ。確かに和歌は元の歌や漢文の知識などが必要とされる部分もある。だがお前が神に関することなら心に留められたように興味のある所から始めてみればいい」

今度はヒメコも素直に頷いた。確かに思い込みは良くないかもしれない。

と、祖母が出てきた。

「確かに今朝は霜が下りてたよ。寒くなったもんだね。さ、皆上がっておくれ」

皆はぞろぞろと広間に上がる。やがて酒と温かな汁物が振る舞われた。

「おお、これは蕩けて美味い。何ですか?芋ではないようだが」

頼朝の問いに祖母が答える。

「瓜だよ。収穫後に北の山の氷室に貯めておいたものを昨日幾つか持って来させたのさ」

「瓜を秋に食べられるとは」

「大半は干して干瓢にしたりひさごにしたりするんだけどね。白菊の余興にと思ってさ。生で食するのとは違ってまた面白いだろ?生だと体を冷やしてくれるが、こうやって火を入れて炊くと逆に身体を温めてくれるんだよ」

そう言った後に祖母は母に向かって何かを指示した。母が重そうに持って来たのは割れた瓜だった。

「おや、これはまた大きい瓜ですが割れてますな」

頼朝の言葉に祖母は頷くと「入っておいで」と声をかけた。中に入って来たのはまだ幼い少女だった。

「河越重頼の次女さ。瓜が昨晩割れたからね。巫女を次にこの子に譲ろうと思ってるんだよ」

「巫女を譲る?瓜が割れたことと何か関わりがあるのですか?」

頼朝の問いに祖母は頷いた。

「古くからの言い伝えだよ。巫女が代替わりすべき時、神前のかわらけが割れる。それが今回はかわらけでなく瓜ってだけさ」

「だが、それでは彼女は?」

頼朝がヒメコを振り返る。

「瓜が割れたんだ。破瓜だよ。ヒミカはそろそろ次の試練に立ち向かう時期さ。頃合いを見て良い人を見つけてやっとくれ」

頼朝は承知しましたと頭を下げた。

「お祖母様、どうして急そんな急に?」

ヒメコは祖母の元に駆け寄った。祖母はヒメコの手の上に自らの手を重ねて言った。

「ヒミカ、女は様々な痛みに耐えねばならないのさ。月の痛み、破瓜の痛み、出産の痛み、親を失う痛みに子を失う痛み、夫を失う痛みだ。それらに耐え得るように、天は女を痛みに強く創られた。覚えておおき。どんな時も耐えるんだよ。耐えられぬ試練など神さまはお与えにならないさ」

ヒメコは頷いたが、祖母が巫女をやめるなんて、と不安な気持ちになる。

「何をそんな心配そうな顔してんだい。私はまだ死なないよ。この子をこれからしごくんだから。それにあの子もね」

言ってチラと母を見る祖母に母はフンと顔を背けたが、頼朝が立ち上がると帰りの時が来たのだと気付いて慌てて動き出す。

「では尼君。今日は楽しかった。また夏に瓜をいただきに来ます」

そう言って頼朝は屋敷を出て白菊が咲き乱れる庭へと向かう。

小さいけれど真っ白で可憐な白い貴船菊。目立たず優しげに落ち着いた様子で頼朝の傍らにいた邦通の面影が甦る。


「邦通もきっと見ておろうな」

頼朝が呟いた。ヒメコは笑顔で頷いた。

「はい、きっと」

牛車に乗ろうとした時、先の少女が駆けてきてコシロ兄の隣に立っていた少年の袖を掴んだ。

「兄さま」

少年はコシロ兄に頭を下げてから少女に向かう。

「じゃあ、またな。もう泣くなよ」

そう言って少女の頭をポンポンと叩いて微笑む。

あ。ヒメコは気付く。昨年祖母が頼朝に助命嘆願した川越重頼殿の次男だ。許されて江間に仕えることになったのだろう。ヒメコはホッとした。少女に会釈して牛車に乗り込む。祖母と母を宜しくお願いします。そう祈りをこめる。

少女は深々と頭を下げて牛車を見送ってくれた。


帰り道、頼朝は上機嫌で和歌を口ずさんでいた。

「心あてに それかとぞ見る白露の光そへたる夕顔の花。ほら、これならどうだ?源氏物語の夕顔は読んだろう?」

ヒメコは相槌を打ったが、はてと思う。夕顔ってどんなお姫様だったっけ?もう一度源氏物語を読み返さねばと思いながら牛車の揺れに身を任せている内にウトウトしてしまう。頼朝は牛車の中でずっと和歌の講義をしてくれた。でも同乗していた全員が、その心地よい講義を子守唄にすっかり寝入ってしまった。

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