四 菊花の宴

やがて秋も深まり、鎌倉の山も色づいて来た。御所で重陽の節句が行われる。藤原邦通の采配で菊花の宴が行われた。

御所の北面の壺には見事な大輪の菊が植えられていた。


「あ、これは、もしや」

ヒメコが邦通にそっと問うと邦通が微笑んで頷いた。

「さよう。山木殿に頂いた菊を育てたもの。六年経ってやっとここまで増やせました」

そう言って満足そうに菊の枝に触れる。そこへ頼朝が現れた。

「おお、これは見事な。邦通、これからは毎秋必ずこの菊を進上せよ」

そう言って何かの漢詩らしき言葉を口ずさんで邦通と笑い合う。その時、女官が現れて告げた。

「御所さま、宴の準備が整いました」

皆、広間へと移る。

頼朝の挨拶の後、菊の花びらが浮かべられた菊花酒が御家人らに振る舞われた。

頼朝も今日は酒を軽く口に含んで終始笑顔だ。

ヒメコはその隣に膝をつき、そっと声をかける。

「八重様ですが、この夏の暑さで少し体調を崩され、心細い想いをされていらっしゃるようです。菊の花を少しお届けになったら如何でしょうか」

言ったら、頼朝はチラとアサ姫の方に目を送った後、軽く頷いた。

「今宵訪れる旨、先に伝えておいてくれぬか」

ヒメコは頷くとそっと御所を出た。


江間の屋敷から戻れば、宴はたけなわだった。忙しそうに料理を上げ下げする女官仲間に詫びて手伝いに入ろうとしたら、一人の女官に咎められた。

「姫御前。あなたは御所様のお気に入りかも知れないけど、そうちょくちょく場を離れるのはやめてちょうだい。迷惑よ。御所様の御用だと言うけれど、本当は酔っ払いの相手が嫌なだけでしょう?私たちだって我慢してやってるのよ。さ、早くお酒を運んで」

「ごめんなさい」

謝って広間に入ろうとするが、その前に着替えなくては。急いで女官達の控えの間に入ったら何人かの女官が休んでいた。

「姫御前は実は御所様のお手付きなのではないかしら。よく江間に通ってるのは金剛君の生みの親だからなんじゃないの?」

「えー、御台さまはご存知なのかしら。あんな澄ました顔してよくやるわよね」

聞こえてしまった女官達のヒソヒソ話。と言ってもヒソヒソしつつ、しっかりヒメコに聞こえるように言ってるのはさすがにヒメコでもわかる。

それでもヒメコは聞こえない振りをした。

陰口はそれを口にする者の心を穢す。嫉みや嫉み、怨みは結局それを発する者へと還っていくもの。何を思われ、言われようと、それを撥ね返す鏡を自らの中に持っていれば良いのだ。

それに文句を言われて当然だった。女官としてはヒメコは他の女官達の半分の働きも出来ていなかったのだから。

せめて今日の宴くらいは頑張らねば、そうヒメコは自分に気合いを入れて広間へと足を踏み入れる。

確かに広間の中は酔っ払いで溢れていた。菊花の酒は香りが高く長寿をもたらす有難いお酒と聞くが、そんな雅な雰囲気は何処にもない。でも普段はいかつい顔をした男たちが、皆安心した顔で笑って飲み食いしている姿は平和でヒメコはそんなに嫌いではなかった。しつこく絡まれさえしなければいいのだ。

「姫御前、御所様の御用は済んだの?」

広間に入って少しした頃に阿波局に尋ねられ、はいと答える。阿波局は阿野全成と共に客として参加していた。

「そろそろ女官達は上がるように御所さまが仰ってたみたいだからあなたも上がりなさい」

言われてヒメコは手近で空いた瓶子を盆に乗せて下がった。コシロ兄は既に居なくなっていた。

部屋に戻ろうと廊に出たら阿波局に捕まった。

「あーあ、菊花のお酒って言ったって、由来とか皆全く分かってないんじゃないかしら。彼らには質より量でいいわよね。まったく」

「ええ、本当に」

阿波局の毒舌にそっと笑う。

「何笑ってるのよ。私は今日は殿のお供で客として参加したけど、姫御前を見ててヒヤヒヤしたわ。誰かに口説かれなかった?」

「ええ、そんなことは。

皆さま楽しそうに過ごされてたので私も楽しかったです。それに最近あまり絡まれなくなりましたし」

そう言ったら、阿波局は、ああと笑った。

「それはね、姫御前に絡んだら、御所様と御台さまのお怒りを買うわよって脅しておいたからよ」

「え」

「だって、姫御前を狙ってる御家人、すごく多いのよ」

「狙ってる?どうして?」

問えば、ハァと溜息をつかれた。

「姫御前。貴女、鏡は見てる?」

「ええ。髪を整える時には」

答えたら、阿波局はあーあと天を仰いだ。

「そりゃあ女官達の妬みも買うわよ。貴女程の美人が化粧もせずに男達の前でニコニコ笑ってるんだから」

「はぁ」

「まぁ、女官達は放っておいて平気よ。それより、男共には気をつけなさい。あまり軽々しく話しかけられないように。あと、文なんかは絶対受け取っては駄目よ」

「文?」

「そうよ、下手に手に取ってしまったら誤解されかねないからね。何か手渡されそうになったらこう言いなさい。『御台さまに申し上げて参ります』って。それで大抵の男は引くはずよ。もしそれで引かなかったら私に話して。うちの殿を通して御所様から叱っていただくから」

「はぁ」

ヒメコは素直に頷いた。文だなんて自分には遠い源氏物語の世界だと思っていたのに。

源氏物語に出て来る文というと、花などが添えられ、中に和歌などが書かれているものだろうか。

そんな絵巻物の世界を想像してからプッと噴き出す。菊花の酒を浴びるように飲んでいた御家人らとそんな雅な文はどう考えても結び付かない。大体そんな文が届いたとしてもヒメコには和歌の素地が殆どないから返しようもない。


やがてヒメコはそんなことすっかり忘れた。

とかくヒメコはその頃、休む間も無い程に働き詰めていた。八幡姫の具合は芳しくなく、八重もまた同様。そして何より困ったのは頼朝が様々な神事を始めたことだった。


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