十 鬼の棲家
八幡姫は江間屋敷を出たが、御所へ戻らずに若宮大路を南下して行く。
「姫さま、そろそろ御所に戻りませんと」
声をかけるが、八幡姫は首を横に振った。
「こちらが海でしょう?海を一目見たら戻るわ」
そう言って鳥居をくぐり、早足で海を目指す。
三の鳥居をくぐるとすぐ目の前に広がる海。八幡姫が呟いた。
「義高様が海の話をしていたの。鎌倉は海があっていいなって。木曽は山ばかりだと。平氏は海と船の者なんですってね。源氏は陸と馬の者だと聞いたわ。勝てるのかしら?」
「勝てるよ」
五郎が答えた。
「その為に御所様や皆が知恵を出し合ってるんだもの。きっと勝つよ」
八幡姫は、そう、と答えるともう一度海を眺めた後、サッと踵を返して、来た道を戻り始めた。慌ててそれを追う。
でも八幡姫は二の鳥居の下で足元を乱し、柱の根元にもたれかかった。
「姫さま!」
体に触れたら熱が上がっていた。
「ごめんなさい。少しくたびれたみたい。姫御前、途中までおぶってくれる?」
ヒメコは八幡姫を負ぶって急いで御所へと戻った。でも門をくぐる直前、八幡姫はヒメコの背からぴょんと飛び下りると、何食わぬ顔をして五郎の後をついて中に入り、小御所へと向かった。
「まぁ、姫さま。どちらへおいででしたの?お探ししていたのですよ」
侍女の声に、厩よと答えるのが聞こえる。出かけたのを咎められないように気丈に振る舞っていたのだろう。
でも、やはりその夜に八幡姫は高熱を出して床に伏した。
戦うと言っていた八幡姫の横顔を思い出す。姫は義高が居なくなってからずっと戦っている。自分の体と心と。父母と。そしてもっと大きな何かと。
ヒメコは荒い息を繰り返す八幡姫の側に付き添って祈り続けた。
どうか姫の心が、体が少しでも癒えますように。安らかな時を過ごせますように。
でも少しして、八幡姫が言った鬼という言葉が現実味を帯びてくる。
御所内で甲斐源氏の一条忠頼が誅殺されたのだ。多数の御家人が参列した酒宴の席で、頼朝の指示の元、その目の前で惨劇は行なわれた。ヒメコは丁度奥に下がっていて阿波局から後で話を聞いた。忠頼が刺された直後、家人が太刀をとって頼朝を狙うも、頼朝は守られて奥に下がったという。立ち向かった家人らは皆その場で殺されたらしい。
そして六月、四月に義高の首を刎ねて持ち帰った堀の郎等、藤内光澄が晒し首にされた。
見せしめと言っていたアサ姫の言葉が蘇る。
本当に鬼になったのか。なろうとしているのか。ここは鬼の棲家。鬼にならねば生きていけない場所なのかもしれない。
ヒメコはそっと首を竦めて辺りの気配を探った。まだ凶々しさまでは感じない。でもひどく鋭く気が張り詰めている。
怖い。そう思う。でも、ヒメコはゆっくりと細く長く口から息を吐いて自分の心を静めた。
鬼の棲家で鬼に負けずに生きる為には、自身も鬼になればいい。八幡姫はそう考えたのかだろう。ヒメコもそうすべきなのかもしれない。ここでこれからも生きていくなら。
それらの事件は、御家人に頼朝の冷徹さ非情さ、そして断固たる決意を見せつけた。頼朝に逆らう者は容赦なく処断されるのだと。
御家人らはその家臣らにも厳しく規律を課すようになった。
野伏の集団は統制の取れた武士団へと変容していく。
それから少しして、頼朝の弟、源範頼が将軍として西国に平家追討の為に出陣した。コシロ兄がその隊に加わって鎌倉を出て行くのをヒメコはアサ姫と共に見送った。
一方、前回木曽義仲追討で大きな勲功を上げた同じく弟の九郎義経は、義仲追討後に院から官位を貰ったことや勝手な行動が多かったことなどにより頼朝の信を失っていた。
頼朝は自分一人を頂点に置いた本格的な組織を鎌倉に作ろうとしていた。御所の敷地内に建てられた公文所では、中原広元ら文官が、朝廷や西国の土豪らとの文の遣り取り、御家人らや寺社の所領の沙汰などの政務が開始される。
その公文所の事始めの祝いの酒宴に手伝いで入ったヒメコに、同じく手伝いで入った阿波局がそっと教えてくれた。
「あの奥の方が、波中太殿の実の弟君の中原広元殿ですって。兄弟でも全然似てないわよね。すごく頭が良いらしいわよ。明法博士なんだとか。ちょっと目が鋭くて寡黙な感じが小四郎兄に似てない?」
ヒメコはそっと奥を窺った。
確かに寡黙で思慮深そうな雰囲気は似ている気がするけれど、コシロ兄が纏う直垂はいつも殆ど色味のない地味なのに比べて、中原広元という人の着物は華やかで京風な感じがして、ヒメコは何となく馴染めなかった。
「いいえ、似てないわ」
すると阿波局は笑った。
「でもね、さっきお酒を勧めたら、酒を飲むと頭が働かなくなりますから、って断ったのよ。堅物な所も似てるわ。酒の席なのにああして詰まらなそうな顔して手元の書に目を落としてるし、意外に二人は話が合うかもよ」
そう言われてもう一度中原広元に目を送る。
兄の伸びやかで大らかな雰囲気は弟にはなく、細面に鋭い目。話しかけられると首は頷かせるものの、心はどこか他にある様子。
確かにどこか似てるのかもしれないけれど、似た者同士が会うとどうなるんだろう?
ヒメコは酒宴の手伝いをしながら、西国にいるコシロ兄は今頃どうしているのかと思いを馳せた。
やがて年が明ける。軍兵は西国に赴いたまま。苦戦の報と兵糧不足の報に頼朝の顔が冴えない日が続く。
「早く兵糧を早く送ってやれ。何としても三種の神器と先帝をお救いしろと伝えよ。また二位の尼君、その他の高貴な方々にはくれぐれも手出しをしてはならぬ。女子どもに対する不埒な行ない、土地の人々への乱暴狼藉、勝手な略奪行為は厳罰に処す。諸将は家臣共にもこれを遵守させろ。守れなかった者は一族諸共領土を召し上げ、極刑に処す!」
西国と鎌倉を慌ただしく行き来する飛脚。緊張の日々が続く。
だが四月に入って、やっと鎌倉に明るい報せが届いた。長門の壇ノ浦において平家一門が滅びたという報せだった。
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