十一 仁王の護る子

結局、コシロ兄は頼朝に呼ばれて御所へ参内した。ヒメコも共に御所に戻る。

その場には頼朝と藤原邦通だけが居た。


頼朝はコシロ兄の顔を見ると喜んで駆け寄って来たが、事の発端が発端だけに心苦しいのか、言い訳がましく邦通を通して言葉をかけていた。

「牧宗親が突然奇怪な行動に及んだ故に処罰したが、北条が鎌倉を出たのはまことに遺憾である。だがそなたはそれに同心せずよくぞ鎌倉に残った。この褒美は追って与えよう」

対し、コシロ兄は返事をせず、畏まりましたとだけ頭を下げて御所を下がった。

その背を見送り、ヒメコは改めて頼朝を振り返ったが、頼朝はヒメコの視線を避けるようにして奥へと逃げて行った。


それから少しして阿波局からヒメコ宛に文が届く。

「江間の屋敷から八重様失踪。また亀殿は昨年伊豆にて死去。鎌倉の亀殿を確かめて」

「そんな、まさか」


確かめてと言われても、考えられることは一つしかない。

亀殿の顔は知らない。でも八重様の顔なら。

幼い頃の苦い記憶が蘇って苦いものが喉を通り抜ける。でも逃げる訳にはいかなかった。

ヒメコは水干姿に着替えると、夕闇に紛れてひっそりと御所を抜け出す頼朝の後を追った。鶴岡若宮から海に向かって一里もいかない屋敷に入っていくのを確認してヒメコは御所へ舞い戻った。

翌朝、昨夕頼朝が入っていった屋敷へと近付く。だが屋敷の門が見えた瞬間、ヒメコの足が留まった。

屋敷から立ち昇る気配が尋常ではなかった。中の何かを護るように立ちはだかる巨大な気配。仁王様だと感じた。

ヒメコはその気に圧倒されながらも我慢してその奥の気配をそっと深く探った。それからホゥとため息をつく。

「やはり八重様」


遠い過去、一度だけ会った女人の気配を薄く感じる。

『諦めよ』

幼い自分の口から出た低い声。それを聞いた瞬間の 恋人達の顔。その後に起きた悲劇。

ヒメコはじっと金剛杵を握った仁王を見上げた。

それから御所へと駆け戻る。白の上下に着替え、頼朝の元へと向かった。

「御所様、姫御前です。お話がございます」

声をかけ、返事を待って中へと入る。中では頼朝が何人かの御家人と談笑しながら会食していた。

「その姿は久しいな。何事かあったか?」

問われ、返事に困る。また伺いますと部屋を辞したら頼朝が追ってきた。

「ヒミカ、何事だ。いいから申せ」

ヒメコが部屋の方を気にしたら、

「あれらは構わん。酒と肴を持ち寄っては呑んでいるだけだ。私が暇そうにしているとすぐ引っ張り込もうとする。抜け出せて丁度良かった」

そう言って笑った。思えば頼朝とゆっくり会話をするのは久しぶりな気がする。

「佐殿、あ、いえ御所様」

うっかり昔の呼び名で呼んでしまって慌てて言い直したら頼朝は笑い出した。

「お前とアサにとっては、私はいつまでも佐殿なのだろうな」

やわらかな口調にヒメコはホッとする。同時にアサ姫と頼朝の間も戻っているのだと感じられて嬉しくなった。だが、ヒメコが次の話をしたらどうなるのか。一抹の不安を覚えたが伝えなくてはならない。ヒメコは腹を決めると一息に告げた。

「八重様、ご懐妊おめでとうございます」

頼朝は目を見開いてヒメコを見た。

ヒメコが黙って見返すとその目がスッと細くなり、冷たい光を放った。

「どうして知った?」

ヒメコはじっと頼朝を見続けた。

「昨夕、御所様の後をつけました」

「八重に会ったのか?」

ヒメコはかぶりを振った。

「屋敷の外からその気配を探っただけです」

「アサにはそのことは?」

また首を横に振る。

「御所様から御台様にお話しすべきかと」

頼朝の口が真一文字に結ばれ、その目が畳の目地をなぞり始める。ヒメコが黙ったまま頼朝を見ていたら、頼朝は膝の上に置いていた扇を僅かに開き、自らの鼻の前で眇めると、扇の骨の隙間からヒメコを見た。

「そなたは昔、私と八重に諦めろと言った。此度も同じことを申すか?」

それは昔と同じ顔だった。「諦めよ」と言った直後の顔と。明白な拒否の色。誰が何を言おうと従わぬ、跳ね返す意志を扇が伝えてくる。

ヒメコは、いいえと答えて頼朝の顔を真っ直ぐ見つめた。

「いいえ。最初におめでとうございますと申し上げた通り。御子は仁王様に護られています。産まれるべき子。然るべき後ろ楯を立てて守り育てる必要がございます。それをお伝えしに参りました」

言ったら頼朝はやっと少しだけ警戒を解いた。

「そうか、八重が子を。それも仁王様とは。それは吉兆。いずれ、この鎌倉を背負って立つ立派な武将になろう」

ヒメコは頷いた後、一呼吸置いて続けた。

「御台様にお話しなされませ」

途端、頼朝は口を結んで難しい顔をした。

「伏見広綱の一件は知っておろう。これを知ったらどうなるか。広綱は遠江に流罪にされた」

「それが御台様の命だと?」

「他に誰がそんな命を出せる。私と御台くらいだ」

「では、その御台様に命を下せるのは御所様と北条殿くらいでしょうか?」

そう返したら頼朝の目が吊り上がった。

「そなた、北条殿がアサを動かしていると?」

「わかりません。ただ、若君ご誕生の前に御台様に嫡男をとせっつき、新田殿の件について裏で動かれたとの噂は聞いております」

頼朝は、噂かと呟きつつ小さく溜息をついた。

「北条は三浦や千葉、その他諸将に比べて勢力は小さい。鎌倉においては私の舅という名ばかりの存在だしな。それを脅かされるのを嫌ってということか。それでも私にとっては挙兵時の後見として恩は深い。軽んじるつもりはないのだが」

考え込む頼朝を見やりながらヒメコは言葉を継いだ。

「御台様は嘘をつかれるのがお嫌いと聞きました。伏見殿のお屋敷の件はその場の勢いもあってのことでしょう。でもその後の流罪に関しては本当に御台様直々の命かお確かめになった方が良いのでは?」

「伏見への流罪は、今後誰かが同じように私の側室を画策する向きがあれば、いつでも処断するぞという見せしめの為に為されたということか」

「御台様は感情豊かな方。勢いもおありになり、諸将に慕われています。ひと声上げればその為に動こうという者は数多くありましょう。佐殿もそんな御台様に惹かれた筈。だからこそ何としても八重様のお子のことは御台様に認めて頂かなくてはなりません」

頼朝は暫し黙ってヒメコを見つめていたが、ややして一声唸るとヒメコを残して部屋から出て行った。ヒメコは大きく息を吐いて畳の目地を指でなぞった。

伝えるべきは伝えた。

あと気がかりなのはコシロ兄のこと。自らの妻が御所の子を宿していると知ったらどう思するのか。どう動くのか。ヒメコはその心中を思って胸を痛めた。でも、今の自分が優先すべきは祖母の代わりに佐殿の血統を護ること。それが頼朝の乳母である比企の娘として生まれた自分の役割だから。ヒメコは立ち上がると着替えて八幡姫の元へと向かった。

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