十 しょんない

コシロ兄が前に吹っ飛んだ。


ゴロゴロ、ドタン!

大きな音がした。コシロ兄が前に一回転し、その向こうの壁に背を打ち付けた音だった。起き上がったコシロ兄が叫ぶ。

「お前!何て力を出すんだ。俺を殺す気か」

「え?」

「え、じゃない。どういう腕をしてるんだ」

言ってコシロ兄はヒメコの腕を掴む。

「どういう腕?何のことですか?そりゃ、ついうっかり脚にしがみついてしまいましたけど、まさか飛ぶなんて」

「ついうっかりであんな力が出るものか」

コシロ兄は壁に寄りかかったままヒメコを睨んでため息をついた。

「どうしてお前はいつもそう無茶苦茶なんだ。居なくてはいけない人だと何を根拠に言う。何もしないで鎌倉に居ることに何の意味がある」

「わかりません」

素直に答えたら、コシロ兄はあからさまに嫌な顔をした。

「お前が巫女だというのは知っているが、俺は神懸かりとかそういう類のものは正直言って信じていない。慣例だから占や神事の作法に従ってるだけだ。俺が鎌倉に居なくてはならない理由は、根拠は何だ?俺を納得させてみろ。そうしたら考えてやる」

ヒメコは黙って俯いた。

理由?根拠?そんなものない。でもそれではコシロ兄は行ってしまう。ヒメコは必死に言葉を紡ごうとした。

ふと、エマと何かが呟いた。

「そう、エマ。あなたの名前。江間義時。

江間。川の間。あなたは土地と土地を結ぶ川の間、江間という名を継いだ。あなたの役割は人と人の間に入り、そこで悠然と流れること。何もしないでいい。ただ間に居て泰然として南から北へ東から西へ物事を流せばいい。あなたはそれでいいんです。あなたがそこに居るだけで場が沈むんです。安心する。それはあなたが全てを受け入れる人だから。だから、ここに居てください。鎌倉から出ないで。今は御所と御台さまの側に居てください。私も一緒に居ますから!」

言い切ってコシロ兄にしがみつく。

と、誰かが笑った。戸口の所に居た男だった。

「殿、どうしますか?大殿にどうお伝えしましょう?」

コシロ兄はハアともう一度ため息をついた後、男に部屋に入るよう命じた。男が部屋の中に入って膝をついたら、コシロ兄は側にあった紙に何かを書き付けて畳み、男に手渡して言った。

「私は鎌倉に残る。父にこう伝えてくれ。『この義時が父上と牧殿の面目が立つように取り計らいますので、暫し伊豆で湯に浸かって戦の骨休めをしながら吉報をお待ちください。また、記した数の軍船と兵糧をご準備下さいますよう。それを手土産に華々しく鎌倉に戻る機を準備しながら義時は鎌倉でお戻りをお待ちしています』とな」

コシロ兄が言い終えると男は屋敷を出て行った。

「軍船?」

ヒメコが呟いたら、コシロ兄は三度目のため息を大きくついてからヒメコを見た。

「これでいいか?」

ヒメコは頷いた。細かくはよくわからないけれど、コシロ兄は鎌倉に残ってくれるのだ。

コクコクと頷いたヒメコを見て、コシロ兄は小さく頷いた。それからそっと口を緩める。

「お前は無茶苦茶だな。こうと決めたら自分の身を危うくしてでも屁理屈を捏ねてでも自分の中の何かを通そうとする。俺には正直理解出来ない。それがお前の巫女の力なのか?」

問われてヒメコは首を傾げた。自分の中の何か。それがわがままか神託かは自分でもたまにわからなくなる。黙るヒメコの前でコシロ兄はポツポツと話し始めた。

俺はあまり人と関わり合いを持ちたくない。巻き込まれたくないんだ。出来るなら褒美も土地も何もいらないから放っておいて欲しい。その日その日を平和に過ごせればそれでいいんだ。なのにお前と関わるとそうもいかない」

ヒメコは唇を噛み締めた。

嫌われてる。

迷惑ばかりかけてきた。怒られてばかり。我が儘も強いてきた。だから当然のことなのだけれど。でも。

やはり悲しい。切ない。好きになってくれとは言えないけど、嫌われたくはなかったのに。

だって好きな人だから。

奥歯を食い締めて涙が溢れるのを我慢する。

「有難う」

頭を下げた。

「有難うございます。御所様と御台さまの間には、私が何とかして入ってとりなします。鎌倉に残って下さって有難うございます」

これで鎌倉は助かる。

ヒメコはホッとして息をついた。


ポン。

頭の上に掌が乗った。

「しょんない」

聞きなれない言葉にヒメコは顔を上げる。

「しょん、ない?」

「仕方ねえ」

「え?」

そういう運命なんだろ。しょんねぇから俺は諦める。お前も諦めろ」

ポンポンと軽く叩かれる頭。

優しい。

昔と変わらない優しさに涙が溢れる。溢れるけど、ヒメコはもうそれは拭わずにコシロ兄の顔を見上げた。

「いいえ、私は諦めません。絶対諦めません」

コシロ兄がフッと笑う。コシロ兄はいつもこうして私の我が儘を受け入れて許してくれる。その顔を見てヒメコも笑った。やっぱりコシロ兄が好きだ。


「さっき道と言ったな。お前の道とは何だ?」

ヒメコは少し首を傾げた後に口を開いた。

「皆が仲良く、争いのない平和な日々を暮らすことです」

「それはいいな」

コシロ兄が頷いた。

「それはいい。そうなればいいな」

「はい」

ヒメコも笑顔で頷いた。


「確かに」

突如割って入った男の声にヒメコはビクリと体を震わせる。

「先程は小童かと思いましたが、確かに女子ですな。いや、殿はそういう嗜好の持ち主かと危ぶみましたが、私の早とちりだったようで安堵いたしました」

いつの間に戻ったのか江間の家人だった。コシロ兄は苦い顔をして見せたが、その目は静かで優しかった。

その時、戸をドンドンと叩く音がした。

「江間殿、おいでか?」

家人が身構え、コシロ兄も身体の向きを変える。

「私は梶原景時が嫡男、梶原景季。御所様より江間殿が鎌倉においでかどうか確かめて参れと命を受けて夜分に相済まぬが訪ねて参りました」

「梶原殿?」

コシロ兄が出迎えに立つ。戸口に立った男は嬉しそうに笑った。

「まこと、御所様の仰る通りに江間殿は鎌倉においででしたな。ああ、良かった良かった」

それだけ言って去ろうとする。

「御所様は参内をお求めか?」

コシロ兄の問いに、景季は首を横に振った。

「いいえ。鎌倉に居るかどうかを確かめて来いと私は言われただけ。何かあればまた使いが来ましょう」

そう言って去って行った。

梶原景季を見送って戻ってきたコシロ兄はヒメコを見下ろして小さく笑った。

「どうやらお前のお陰で助かったようだ。父に従っていたら危うかったかもしれん。礼を言う」

そう言って頭を下げた。

「お前の無茶苦茶には確かに肝を冷やすが、俺ももう少し信じてみることにする」

「しょんないから?」

言ったらコシロ兄は笑って頷いた。

「ああ、しょんないけー」

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