十三 天候



決戦の三日前の朝、佐々木の太郎定綱が父への報告の為、また自身の甲冑を取る為に佐殿の反対を押し切って渋谷へと戻った。三郎と四郎はまだ戻って来ていない。苛々と歩き回る佐殿の気配に、隣の部屋のヒメコも何だか落ち着かない。落ち着かない時にすることは掃除くらいしか思いつかなかった。五郎の水干と袴を着けて外へ出る。箒を手に無心に掃いていたら、あら、と声をかけられた。

「五郎君?じゃないわね。どこの子?新しい下働きの子かしら?」

顔を上げたら、北条館の庭に面した縁に華やかな色の袿をたくさん重ねた女性が顔を覗かせていた。

もしや、この人が北条殿が後妻に迎えたという女の人?

若い。アサ姫と同じ年と聞いてはいたが、それより幾分年下、というよりも幼い印象を覚える。

「ちょうどいいわ。殿がお呼びなの。馬屋に行って、そこの番をしてるアレ。ほら、あのだんまりの次男坊を呼んで来てちょうだい」

そう言って、袿の裾を引きずって奥へと下がっていく。

次男坊?アレ?

それが誰を指してるかなんてすぐわかるけど。でも。

ヒメコは口を引き結ぶと箒をズルズルと引きずって鼻息荒く馬屋へと向かった。

「江間小四郎義時様、いらっしゃいますか?」

大きな声をかけて入れば、入り口の所にいた少年が驚いた顔で脇にどき、奥へと顔を向けた。

「何の用だ」

馬の向こうから顔を出したのはコシロ兄。

「北条の殿が、江間殿をお呼びだそうです!」

ぶっきらぼうな言い方だったろう。コシロ兄は不思議そうな顔をしたが、何も言わず馬屋を出て行った。


「何よ、何よ、何なのよ、あの人!仮にも江間の当主に向かって、アレって何なのよ!ああ、腹が立つ!」

えいっと近くの杭を叩く。と、馬が驚いて首をブルルと振った。

「あ、ごめんなさい。あなたに言ったんじゃないのよ。つい八つ当たりしちゃって。ごめんなさいね」

謝ったらプッと笑われた。振り返れば馬屋の入り口で顔を合わせた少年だった。

「牧の方が何か言ってたんですか」

言われて、あの女性は牧の方と呼ばれているんだなと知る。

「あまり評判の良い方ではないですね。身なりや化粧が派手で小うるさいとか使用人の扱いもひどいとか」

しれっとした言い方に改めて少年の顔を見たら、どこかで見覚えがある気がした。

「ヒメコ様、ですよね?祝詞を教えて下さった」

そう言われて思い当たる。佐殿が集めていた子ども達。一緒に輪になって祝詞を奏上した中の一人だった。

「あの後、馬の世話係として雇って頂きました。おかげで一家の暮らしの助けとなることが出来ています」

その時、コシロ兄が戻ってきた。ヒメコをじろっと睨んで口を開く。

「何故、おまえが使いをさせられてる」

「庭の掃き掃除をしていたら、偶然お方様が顔を出されて頼まれたのです」

「そんな格好でウロついてるからだ。早く部屋へ戻れ」

また命令口調。先程からの怒りがまだ収まっていなかったヒメコはつい言い返してしまった。

「外に出る時はこれを着ろと言ったのはコシロ兄でしょ!」

言って馬屋を出る。コシロ兄は少し驚いた顔で馬屋から出てきて、ああと答えた。ごめん、とも謝ってくれる。もしかしたら彼も北条館で何かあったのかもしれない。尖っていた空気が少し柔らかくなった。だからヒメコはそのままコシロ兄の隣に佇んで空を見上げる。

「江間殿も十七日は戦に出られるんですか?」

尋ねたら、ああと頷いたコシロ兄が少し迷ったような顔をしながらヒメコを見て口を開い「コシロ兄でいい」

「え」

「江間の名はまだ言われ慣れないから前の呼び名でいい」

「はい!」

嬉しい。コシロ兄と普通に話が出来ている。牧の方に感謝したいくらいの気分でヒメコは笑顔で返事した。

と、コシロ兄が呟いた。

「雨が降る」

「え?」

空を見上げるが、上空には雲一つない。不思議に思ってコシロ兄を見たら、彼は遠くの山を見ていた。

「嫌な雲がある。合戦に影響しなければいいが」

コシロ兄にしては珍しくあからさまに険しく難しい顔。合戦前だからだろうか。ヒメコは思わずコシロ兄の腕を引っ張った。

「天気は天の気と言う通り、私たちにはどうしようもないものです。また天に候うと書いて天候とも言いますから、悪天候もお計らいなのだと祖母が言ってました」

「お計らい?」

ヒメコは頷いた。

「神様はこの世の全てをご覧になっていて、それぞれに良い頃合いをみて良い縁や宿縁、越えるべき山や谷を用意して、すべきことから目を背けずに懸命に行なっている者には、たまに助けを寄越して下さるそうです」

「助け?」

「はい。意外な仲間との出逢いや拾い物、天気の変化も神仏のお計らいの一つなのだそうです。だから」

意気込んでそう伝える。

でも、だから不安にならないでとは言えなかった。

合戦前なのだ。過敏になるのは当たり前。女であるヒメコに出来ることなど何もない。ただ寄り添うだけ。

コシロ兄はそうか、と答えると少し黙ったまま遠くの山を見ていたが、ふと思い出したようにヒメコを見下ろして言った。

「日が暮れるから、もう部屋に戻れ」

気遣ってくれている。二年前と変わらない声。

ヒメコは、はい、と返事をするとぺこりと頭を下げた。

「コシロ兄、どうかご武運を!」

声をかけたら、ああと返事が聞こえた。

あと三日。

ヒメコは一つ大きく深呼吸をすると佐殿の屋敷に入った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る