十 没頭
邦通は菊の芽を大事に取り出すと、掘り返した土の上にそっと置いて、土をかけていった。
「私は本当は花が、ことに菊が大好きなのです。菊の絵なら一日中描いていても飽きない。幼い頃からそうだったのですが、母が厳しくてね。書をやれとうるさく言われ、ある程度は書けるようになったものの、本当は庭師になりたかったのですよ」
「庭師、ですか」
それも似合いそうだと思う。
「だが、それでは出世出来ぬと今度は父がまたうるさくて。でも生来人と争うのは好きではないのです。楽しい会話はいいが、世辞や口論、権力争いや派閥は苦手。おかげで都ではあぶれましてな。放浪の旅に出た所を藤九郎殿の口利きで佐殿に仕えたわけです。まぁ、此度の役目は想定外でしたが、無事に終えた今では楽しい経験になりました」
淡々と語っていた邦通が、そう言えばと顔を上げた。
「巫女殿は何がお好きですか?
「え?好きなもの?」
パッと浮かんだのはコシロ兄の顔。というより、邦通に描いて貰った似せ絵のコシロ兄の姿。でもフルフルと首を振る。邦通は続けた。
「食べる間、眠る間を割いてでもやりたいと思えるような没頭出来ることです。ありますか?」
ヒメコは首を傾げた。そんなもの、自分にあるだろうか?物心ついた時から祖母と一緒に修行修行で、好きなものというのがよくわからない。
「好きなものなんて特にありません。よくわかりません」
素直に答える。
あ。でもふと思いついてヒメコは口を開いた。
「声を出すことは好きです。祈りを口にすること、歌を歌うこと、鈴を鳴らすのも。でも」
言い淀む。でも思い切って口にした。
「でも母が、姫とは声や音を立てぬものだと。はしたないと怒るので、いつか声を出すのが怖くなりました」
邦通は微笑んで頷いた。
「親というのは有難く、また煩わしいものですね。きっとそれも縁なのでしょうが、ここは武家の屋敷。都でもご実家でもないのですから、声や音はお好きなだけ出して構わないと私は思いますよ。こちらの一の姫はじめ。武家の女性は強く逞しい。巫女殿が母君の言葉を忘れるくらい没頭出来ることが見つかりますよう」
そう言って邦通は植えた菊の芽を優しく撫でると立ち上がった。
ヒメコも掃除を再開しようと立ち上がる。その時、小鳥が一羽、ピピュンと鳴いて羽ばたいた。胸の白い綺麗な鳥。何だろう?ヒメコはそっと手を差し伸べた。祈りを小さく口にする。小鳥がそれに合わせるように枝えだの間を軽やかに飛び回る。ピョン、ピョン。
可愛い。思わず笑みが零れる。小鳥の囀りに合わせてチョンチョンと跳ねてみる。一緒に歌って踊ってるみたいで楽しくなる。ヒメコは伸ばした手をゆっくりと動かして、鳥を撫でるように枝を揺らすようにくるりと体を回転させた。蝶が飛んできてひらひらと舞い踊る。ヒメコもそれを追うようにひらひらと腕を回し、くるりと回転した。
と、着物に足がもつれて均衡を崩す。
「わっ、たっ、たっ、た」
チョンチョンと片足とびで何とか踏ん張り、両足をついて体勢を戻しかけた時、突如腕を掴まれた。驚いて振り返ろうとした時、足元がガラリと音を立てて崩れた。目の前に迫る土塀。激突しそうになった所を引っ張り戻される。
「何をやっている」
低い声。驚いて見上げればコシロ兄だった。
「いえ。あの、これは、朝の掃除の時に藤原様にお会いして、何が好きかと問われたのです。それで、歌とか鈴とか答えたらですね、やればいいと言っていただいて、それで少しだけと思って歌っていましたら、着物の裾が絡げてしまって」
焦ってつい余分なことまで口にしてしまう。
どうして自分はこうなのか。コシロ兄には変な所ばかり見られてしまう。
落ち込みつつ、ふと足元を見下ろせば、掘にでもするような大きな溝が掘られていた。こんなもの、昨日はあったっけ?
「ここは内濠になって明日には水が入る。よく見て歩け」
小さく返事をして箒を手に戻ろうとしたが、コシロ兄が自分をじっと見下ろしていることに気付く。何だろう?私、何かまたやってしまった?
コシロ兄は厳しい目でヒメコを見ていたが、ふと北条屋敷に目を向けると歩き出した。
「ついて来い」
言って北条の屋敷に入っていく。
一瞬躊躇したが、ヒメコも続いた。
久々の北条屋敷。コシロ兄は少し奥の右手の戸の前で止まった。膝をついて中に声をかける。
「三郎兄上、失礼します。五郎の荷を少し確かめたいのです」
「五郎ならまだ眠ってるぞ」
「構いません」
コシロ兄はヒメコに待つよう合図して中へとそっと入って行った。暫くして少し藍の残った薄鼠色の着物を手に出てくる。外に出るよう指を向け、屋外に出てから手の中の着物を差し出して言った。
「五郎の水干と袴だ。古物だから汚れて構わない。返さなくていい。外に出る時にはそれを着けろ」
それだけを言って、馬屋へと向かう。
「あ、有難うございました」
慌てて礼を言ったらチラと振り返ってくれた。その背を目で追う。
「いい声だな」
男の声にギョッとして振り返れば四郎が立っていた。
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