ぬばたまの瞳、ぬばたまの心、ぬばたまの空蝉

鈴元

ナナハン

 日に必ずの決まり事、とりあえずの口付け。

 私たちはそれをまだ続けている。

 お互いによく飽きないな、とも思うけれど。

 あるいはよく投げ出さないな、とも。

「ん……ふっ、く……」

「んん……今日も寒いね」

「……そんなに寒いならもう少し寝てろ」

「そんなことをしたら私の温もりが逃げてしまうよ」

 背に回される腕、毎朝のこと。

 続きを求める唇、毎朝のこと。

 私は拳を握って相手と自分の間に潜り込ませてそれを押し付けた。

「ナナハン……寒いんだよう」

「冬なんだから寒いのは当然」

 さっさと出てしまおうと足を出すと寒気が指先に触れて思わず足を戻してしまう。

 生理的な感覚はどうしようもない。

 言葉でどう言おうと、寒いものは寒いもので。

 私は冬も夏も嫌いだ。

 こんなことなら空調をつけたままにしておけば良かった。

 時間で切れるようになんてするものじゃあない。

「今日はバイトだっけ」

「休み」

「じゃあ、今日は一緒に帰ろうか。待っててくれるかい?」

「……そんなことしていいのか?」

「一緒に住んでるのになにか気にすることあるかい?」

 ない。

 と、言おうとしてやめて。

 喉元まで昇って心に落とす。

 こういうことを言うと彼女はニヤリと笑って私を抱き寄せる。

 分かってる、分かってるからそうはしない。

 踏み込んではいけない、飛び込んではいけない。

 この女はいつもそうで、私の事だって見てはいないはずで。

 だから預けてはいけない。

 最後の一線だけは絶対に。

「うーっ、寒いな……ナナハン、私の下着はどこかな?」

「知らん」

「あ、あった。なんでここに……ほら、ナナハン。陽の光を浴びよう」

 先に服を着てくれという前にカーテンが開け放たれる。

 まぶしい陽の光に思わず布団を被って、隙間から窓の外を見つめる。

 雲のない綺麗な空だった。

「やっぱり冬は空が高いや。気持ちいいねー」

 晴れた日は嫌いだ、太陽なんて隠れてくれればいいのに。

 何が楽しいのか笑っている彼女の名前は九十九帆那つくもはんなという。

 高校生時代からの関係であり、同じ大学に通っている。

 どこか中性的で女性としては高い背を持ち、演劇部に所属していた彼女は部内における『王子様』だった。

 私含め女性の多い部だったから男性役を兼ねられる彼女は重要な存在であり、案外彼女自身もそんなふうに扱われるのは満更でなかったように思える。

 それがサマになるのも才能なのだろう。

 事実、演技の経験がないにもかかわらず彼女の演技力と呼ばれる能力は部内で頭一つ抜けていた。

 演技という枠の中に収まっているのかいないのか、舞台を降りても『王子様』として振る舞う彼女を私はどこか嫌な目で見ていた。

 嫌い、では無い。

 少なくともその時に抱えていたのはそれじゃない。

 ただそれを具体的に表すのは今ではない。

 彼女が太陽なら私は月……というのは酷く自惚れた発言だ。

 誰も私と彼女を並べない。

 月見草やら月やら、そんな風に語られる者だってそれ相応のものを持っている。

 私は手ぶらだった。

 才能も何もかも。

 セクションは脚本と舞台装置……すなわち大道具。

 舞台に上がることがあっても端役で十分。

 麗しくもなく、通る声でもなく、何か光る個性がある訳でもなく。

 ただそこにいるだけの人。

 もしも私を彼女と並べて語るのならば彼女は太陽で私は土だ。

 日に当たり、乾いていく、割れていく。

 近くにいると壊れてしまうような、そんな存在。

 なのに、私に関わろうとする。

 あの時もそうだった。

 公演が終わり、テスト期間を迎えた高校二年のある日の事。

 部室に私ひとり。

 テスト期間中はどんな部活も活動していないのだからそれも当然のこと。

 演劇部であっても例外ではなく。

「やぁ、ご機嫌どうかな」

「……なに?」

 私の対面に座るやつが誰なのか、いちいち確認しなくても声で分かる。

 だから顔は上げず、手も止めない。

 ノートが見えにくくなるのでもう少し離れて欲しいけれど、彼女の距離感はいつもこんなものだ。

「テスト勉強かい、ナナハン?」

 ナナハン、というのは私のあだ名だ。

 七海五十鈴ななみいすず

 七と五十並べて七五〇……なのでナナハン、という訳らしく彼女が付けて彼女しか呼ばない。

 別にバイク趣味でもない、お互いに。

 ならなんでそんなあだ名をつけたのだろうと思いもしないけれど、今日まで分かっていない。

「次の台本の準備」

「もう準備するのかい?」

「テスト開けたらすぐに台本選びだ」

 舞台で使う台本は既成と創作の二種類。

 既成は部室にストックされている台本がいくつか入ってる本から選ぶ。

 これらは何年も前の全国大会に出た台本たちでそれだけ出来がいい。

 私が台本を書くのは部員の男女バランスなども見て書けるからと、一度採用されてからずるずると惰性で書き続けているから。

 ……私の書くものよりも全国行きのものの方が出来もいいし分かりやすいだろう。

 それなのに私の本を選ぶのだから度し難い。

 どうせ登場人物のバランスだとかそういう事情で選ばれているのだろうが。

「一週間で一時間の舞台が出来るだけの長さのものを作らないと駄目だからあらかじめ準備する」

「そうなんだ。私はキミの話好きだからまた書いてくれてありがたいよ」

「……そう」

 またそういうことを言う。

 息を吐くように他人を持ち上げてその気にさせる。

 口説いているつもりなのだろうか。

 私は彼女のそういう所が嫌いだ。

 本心から思っているいないに関係なく私の神経を逆撫でにする言葉や優しさが嫌いだ。

 私は貴方のファンのように喜んだりはしないからやめて欲しい。

 誰にでもそんな顔をする、嫌いだ。

「次はどんな話?」

「お前が女子からモテる話」

「はは……君までそういうことを言う……」

「嫌か」

「嫌ではないけどもね。私だってたまには恋する乙女というをしてみたいものさ」

 手が止まって、鉛筆がノートから離れる。

 書いていた途中で登場人物の相関図が未完成のまま止まってしまった。

 その時になって初めて私は彼女を見た。

 低い位置で結んだ黒く艶やかな髪。

 黒い瞳がまっすぐにこちらを見ている。

「したいのか?」

「したいさ。したいとも。男役を望まれることは嫌じゃあない。ただ……」

「演技の幅、とかそういうことを言いたいのか?」

 時々、演劇部にはそういう人間が現れる。

 中学生の頃にもやっていたとか、あるいは子役がどうのこうの、そういうのが意識の高さとして現れる。

 彼女がそういうタイプだと、私は思わなかったけれど。

「いや、なんだろうね。役は役割だ、必要なら男にだって犬にだってなるよ。だけれど、窮屈だよ」

 私の手で鉛筆が回る。

 滑らかに一つの引っかかりもなく。

「たまにはされる側じゃなくてする側に回りたい……と、思っている」

「……なら、書こうか。そういうの」

「いいのかい? 助かるよナナハン。私はどうにも物語を作ったりまとめたりっていうのが不得意らしくてね、君がそう言ってくれると嬉しい……ん?」

「なに」

「ペン回し上手いねナナハン」

 ……そういえば彼女は演技の中でしていたペン回しが少しぎこちなかった気がする。

 練習の時に一度やったきりで二度目からは違う動きをしていたけれど。

「にしても、意外だった」

「なにが?」

「お前もそんな風に思うのか」

「思うさ。私はみんなが思うような人間じゃないとも、思ってる」

 ……贅沢な話。

 何者であるかを望まれる人間なんてそう多くないだろうに。

 持つ人間は持たない人間の気持ちが分からないらしい。

 未だ無限の可能性という選択肢を前に立ち往生する人間は多いというのに。

 誰もが自分の人生の主人公なんて嘘だ。

 みんな誰かの物語の端役というのが正しい。

 人に愛され、励まされ、支えられ、承認される人間がそんなことを言う。

 私は金を積まれたってそんな言葉は吐けないのに。

「ただ問題もあってね」

「……」

「私はまだ恋が分からないんだ。今までも何かをなぞるみたいでね。実感がないんだ」

 私にどうしろというのだろうか。

 ペンが止まって、沈黙が流れる。

「知るには」

 視線が彼女から離れて窓の外。

 雨が降り出しそうな重い雲が屋根のように。

「必要なものが」

 あぁ、本当にきれいな空だと思えた。

 結論として九十九帆那が恋する乙女の役を手にすることはなかった。

 どれだけ書いても、言葉を集めても、それだけは叶わなかった。

 

「ナナハン、マフラー巻いてよ」

 私よりも幾分の背の高い彼女が腰をかがめていた。

 大型犬かなにかのように私に視線を向けている。

 皆が思うような人間でないというのは確かにそうらしい。

 美しくあるだけではないらしい。

「自分で巻け」

「えー、私とキミの仲じゃないか」

「……ごっこ遊びだろ、こんなの」

 やけにその音が響いたように思う。

 発した言葉だけが届いて、周囲にあったはずの音や確かに私が生み出していたはずの缶を潰す音すら置き去りになる。

 耳鳴りにも似た音だけが鼓膜に張り付いしまった。

「行こうか、ナナハン」

 いつものように笑って彼女が私を通り過ぎて玄関口に向かっていき、私もそれについて行く。

「ナナハンはジャケットだけでいいのかい」

「いい。あれもこれも付けると取るのが面倒だから」

「またそんなこと言って……我慢できなくなったら私のマフラーを貸してあげよう。キミが風邪をひいては大変だからね」

「……いらん」

 彼女は必ずそういう時にキスをねだるのを知っている。

 本当に飽きもせず、何度だってそういうことをするのだ。

 そんなことを考えると私は嫌になる。

 九十九帆那という人間のことはいまだに分からない。

 分かる気になってしまうことがあってもそれはきっと本質ではない。

 でもきっと向こうもそうなんだろうと思うのでお互い様のはずだ。

 とはいえ、私には表面しかない。

 画竜点睛を欠く……とは少し違う。

 未完成のまま本質すら不可解かあるいは透明。

 それは虚空のようなもので、ないはずはないはずなんだが見つからない。

 空洞で何も詰まってないからつまらない。

 私という人間は彼女のようにはなれないらしい。

 閑話休題。

 冬の街を並んで歩く、私たちは手を繋がない。

 手はポケットの中に収めてしまった。

 絡めようと伸びてくる彼女の腕を自分の肘で弾いてかわす。

「九十九先輩!」

 交差点の向こう側から聞こえた声。

 見慣れた顔の後輩、私は一歩隣の彼女から離れる。

 スタートを切る彼女、二歩見送ってからこちらも踏み出す。

 自分の習性が嫌になる。

 私は私自身も嫌いだ。

 燃えて無くなるその日が待ち遠しい。

「やぁ、一花いちかちゃん。今日も元気いっぱいで素敵じゃないか」

「……」

 嬉しそうに笑う後輩、二宮一花。

 気軽に肩に触れられて、満更でもないような顔をしている。

 そんな顔がこちらを見ている。

 目が弧を描いてる。

「……くだらない」

 彼女の愛は初売りのセールがごとく吐き出され誰もが手にする。

 ラベルを剥がされ、丸裸になるのは手にした側の心だと言うのに。

 誰かに粉をかければ、火の粉が迷惑がこちらにかかる。

 そんな目で私を見るな。

 私の気も知らずに太陽が私たちを照らす。

 日が照ればそれだけ影は濃く、深く残ってしまう。

 もしもこの高い空が落っこちれば皆平等に潰れて終われるのに、私の願いばかりが消えてしまうらしい。

 本当に煩わしい。


 私たちが口付けという契約を交わした後、私は生まれて初めて唇を重ねた。

 向こうも初めてだったらしく、お互いにぎこちなかった。

 勢い任せでなかったことは覚えている。

 ゆっくりと、確かめるように触れられた。

 今までのどんな瞬間よりも近く彼女を感じ、同時に七海五十鈴と九十九帆那というその取り合わせのアンバランスさに笑ってしまった。

「……」

「なんだ」

「やっぱりキミ、笑うと可愛いね」

「普段は可愛げがなくてすまないね」

 彼女は笑う。

 相変わらずだとでも言いたいように。

「いいのかい?」

「お互い様だ」

「……二人だけの秘密だね」

 珍しく赤い耳をした彼女が顔だけは普段通り微笑んでいる。

 黒い瞳、窓の外の曇り空。

 気付けば手が重ねられていて、私はどうすれば分からなくなって。

「……あくまで恋心を知るためだろう」

 偽りのそれを本物だと思うなど、許されることでは無いのだから。

「ナナハン」

「分かってる……雨、降ってきたな」

「傘は持ってきたかい?」

「濡れて帰る」

 そう思っていたはずなのにズルズルと引きずっていた。

 同じ大学、同じ部屋、重ならないはずが隣を歩いてる。

 やはり近づけば近づくほどに焼けてしまう、乾いてしまう。

 煩わしいこの熱は否定しがたく。

 傷が開くように痛く。

 恨めしい、過去のことをこんな風に反すうしている自分すら。

 私は私が一番嫌いだ。


 待っていて欲しいと言われているから待っている。

 彼女はサークル……正しく言うのならば演劇サークル「TOiS」の練習に行ってしまった。

 私も九十九帆那も未だに演劇という物に関わっている。

 私はまだ台本を書いているし、彼女はまだ舞台に立っている。

 相変わらず彼女は上手い役者で、相変わらず私は。

 大学図書館なり食堂なり、時間が潰せる場所はそう少なくない。

 今日は購買で足りなくなったものを買い足して、後は適当に……と思っていたのだが。

「七海先輩」

 今朝方会ったのにまた会った。

「二宮」

「練習、行かないんですか?」

「お前は」

「私は今日バイトで。スタッフワーク担当だと自由ですよねぇ」

 なるほど、とうなずく。

 他人の練習を見るのも練習だと言われたこともあるが、それに従うかどうかは人それぞれだ。

 二宮のように自分の生活の方が大事というものがいてもいい。

 いや、そもそもサークルの活動を何よりも優先するというのはなかなか余裕があると思えなくもないが。

「なんで練習行かないんですか? 脚本家がいた方が演出しやすいって三田部長言ってましたよ」

「台本を噛み砕いて解釈し、役者を通して落とし込む、というのが私の知ってる演出の仕事だ」

 三田部長に対して私を通してカンニングするな、あるいは楽をするなと言いたい。

 私の仕事は終わった、そこから先は演出をすると選んだ三田の仕事だ。

 文句があるのなら私に直接言えばいい。

 だいたい、本番も近くなってきた時にそんな弱音を吐くな。

「打ち上げにも顔出せって」

「お前も行ってないだろ……大体、バカ騒ぎは嫌いだ」

「今回のは行きますし、バカ騒ぎじゃないです」

「三田部長に絡まれた覚えがあるが」

「九十九先輩いますよ」

 ぴたり、時が止まったような。

 何故そこで九十九の名前が出る。

 と、思っていたのが顔に出ていたらしく二宮は苦笑いを浮かべていた。

「よく一緒にいますよね。仲良いんじゃないんですか?」

「だったらなんだ」

「否定、しないんですか?」

 苦笑いが楽しそうな笑い方に変わる。

 それで私を刺したつもりか?

 そんな言葉で私を殺せると思っているのか。

 殺し文句というのは……失礼、冷静でなかった。

「九十九先輩、いい人ですもんね。格好いいし」

 彼女の話は聞きたくない。

 聞き飽きた。

 常日頃から顔を合わせている人間だ、よく知っている。

 お前よりもずっと。

「あ、そう言えばこの間九十九先輩とお茶をしに行ったんですけど」

「……そうか」

「九十九先輩、ほんとに誰にでもあんな感じなんですね。店員さんにも声かけてて私驚いちゃいましたよぉ」

「そうか」

「ちょっと軽いですね、九十九先輩って」

 それを私に言ってどうするつもりか。

 仲がいいと思っているのなら、そういう話をしてどんな印象を持つのか考えないのか。

 いやまぁ……そう言われても仕方がない人間ではあると思うが。

「……そういうところは今までもあっただろう」

「? ……はい」

「なら、お前の認識が甘かっただけの話だ」

「……怒ってます?」

「なんで私が怒らないといけない?」

 話を打ち切るように私は会計に向かう。

 私が怒る道理などない。

 もちろん怒ってもいない。

 しかし、しかししかし。

 彼女はただ軽いだけの女などでは決してなく、無尽蔵に吐き出されるあの言葉は人の心に触れるものでもあって、九十九帆那という女性はどこまでもそんな人間なのだから。

 だから。

「ナナハン!」

「……」

 購買部を出て声をかけられて、なんでここにいるのかと目を向ける。

「休憩だよ」

「わざわざ探しに来たのか?」

「練習に来てないから気になってね」

「……顔を出さないのはいつもの事だ」

「キミに見ていて欲しい……というのはわがままかな?」

 その時、ひゅうと風が吹いて私たちは身を縮こめる。

 雲が動き始めて、日にかかって光が弱まる。

 少しばかり、冷えてきたかもしれない。

「……少し寒さを避けにいくくらいなら、いいだろう」

「じゃあ行こうかナナハン!」

「待て、手を握るな。腕を組もうとするな」

「……ツレないね、どうも」


 舞台の練習を見ているとどうにも昔を思い出すもので、私は滅多に見に行かない。

 本番を見る時も出来るだけ目の前の舞台にだけ集中する。

 練習中もそうすればいいのだが、非常に疲れる。

 本番は一時間、練習はより長い時間。

「『お前は笑うと可愛いよな』」

 彼女は舞台の上でまた男役をしている。

 男が増えた環境の中でもああなっているのは一体どうしてだろう。

 神様が決めた都合というものがあるのだろうか。

 九十九帆那という人物はどういう因縁や呪いでもってああなってしまったのか。

 恋する乙女を望んだ彼女は一体。

 思い返す。

「悪かった」

 私が彼女にそう謝った。 

 卒業公演が終わって、打ち上げに行ったファミレスを抜け出した私を追いかけて来た。

 ファミレスの入っている雑居ビルの一階、階段の上にある店にある自分を認めてくれる人の輪を抜けて私の前に立っている。

「結局『恋する乙女』はお前に握らせられなかった」

「ナナハンが悪いんじゃあない。台本は通った、私の演技が通らなかったんだ」

「……違う、お前はずっと上手かった! いつもずっと、上手かったんだ!」

 申し訳なさそうに目を伏せてほしくなかった。

 悲しそうな眼をしてほしくなかった。

 私に何か思うなんて、してほしくない。

「お前は……」

 抱き寄せられて、何が起きているのかが一瞬理解が出来なかった。

「なにをしてる」

「謝るのは私の方だよナナハン」

「……」

「本当は何も分からないんだよ。私は……空っぽなんだ」

 彼女は懺悔する様に私にそう告げた。

 分からない。

 演じることの根底、理解が出来ない。

 感覚によって出力され、それが認められているという事実。

 認められているのならばいいじゃないか、とは言えなかった。

 いや、私が彼女にかけるべき言葉など何もないのかもしれない。

 私はそういった悩みとの対峙から逃げているような気持があるからだ。

「恋心どうこうってキミの時間を奪って……」

「やめろ」

 彼女の頬に触れ、熱を感じて。

 私からしたのはその時が初めてだったような気がする。

「九十九帆那を否定するな、お前は最高だよ」

 そもそも恋をした者同士がキスをするのであって、キスをするだけで恋心が理解できるというのは順序や理論としておかしいものだと心のどこかで理解していたはず。

「言い出したは私の方だ」

 自分とは違う世界に住んでいる気がしていた彼女が、足りないものがあると手を伸ばしている。

 その事実を知って、ほの暗い欲求にかられた。

 この真っ白な人間を真っ黒に塗りつぶしてみたかった。

 朱に交われば赤くなるように、私と交わって落ちてしまえばいいのに。

 そんな感情をぶつけたのは私の問題で。

「……ナナハン、大学どこだっけ」

 私のあの言葉をなぜ彼女が受け入れたのかは分からない。

 そんな日が確かにあって、いま私はここにいるわけで。

「カット!」

 シーンが切れる、その言葉と同時に記憶の旅も打ち切られる。

 完全に意識を持っていかれていた。

 手元の台本をめくり、今していたらしいシーンまで進める。

 随分長い時間、意識を流されていたらしい。

 悪いのは私だ。

「ナナハン」

「……時間か?」

「別のサークルもホール使うからね」

「ん……三田部長の話聞いてこい」

 私たちの関係がどうだとか勘ぐられたくはないものだ。

 この関係を知られることなどあってはならない。

 あの九十九帆那の裏や奥は私が知っていればそれで。

「お疲れ様でした!」

 皆口々に言う、解散だ。

「……」

 私は先に出ていく。

 彼女は私を追いかける。

「ナナハン」

「一緒に帰るんだろ?」

「先に行かないで欲しいね……」

「……ちゃんと一緒だろ」

 組もうとする腕をまた弾く。

「ここではやめろ」

「バレたっていいじゃないか」

 いいのだろうか。

 困るのは彼女の側なのに。

 私とこんな関係であると知られてどう思われるか。

 鼻つまみものと仲がいいと思われているだけでそれなりに不都合があるはずなのに。

「なぁ」

「なにかな?」

「二宮と遊びに行ったんだって?」

「あはは……知ってたのかい? いいお店を見つけたから一緒に行ったんだ、美味しいワッフルを出してくれてね。彼女、ワッフルが好きだろう?」

「知らん」

 私はほんの少し、歩みを早める。

 どうせ向こうの方が背が高いのだ、さっさと歩いても向こうは着いてこられる。

「今度一緒に行こう」

「いい」

 陽の光が痛い。

 私を叱り付けているようでどこまでも不快で煩わしい。

 さっさと帰ろう。

 あそこが私の居場所だから。

 

「……帆那」

 早朝、まだ彼女は目覚めない。

 彼女は空っぽなんかじゃない。

 それはきっと私にこそふさわしいだろつ。

 なんの計画性もなく、突発的かつ感情的な犯行で彼女を踏み荒らした。

 失ったものと奪ったものを指折り数えて比べてみれば、きっと彼女が割を食ってる。

 私たちは恋心を知るためという名目のうえで、偽物の色恋に繋がれている。

 それを表すようにお互いのことを愛しているなどと言ったことは一度だってない。

 なのに、時間も体も重ねてしまった。

 これから先に続くだろう彼女の道を変えてしまった。

 空っぽは私だ。

 何も持っていないのは私の方だ。

 悪いのは私だ。

 日に日に積もる痛みは酒でも煙でも溶けていかない。

「ごめんなさい……帆那……」

 貴方が罰してくれないのなら、私が私を罰する他なく。

 私と離れればきっと、幸せに生きていけるような気がしてる。

 本当に申し訳なく、思う。

「ナナハン……」

「……起きてるのか?」

「わた……し、の……」

 その先は聞こえず、明かされず。

 私の痛みだけがここに残る。


 本番当日、役もなく裏方の仕事もない私の仕事は客席で本番を見届けること。

 練習は見ていなくても、私の書いた台本だ。

 どんな話かを考えるためにこの時間を費やしたりしない。

 眠るほどの時間でもなく、幕の閉まった舞台の向こうは見えない。

 ブザー音が鳴り、ホール内の電灯が暗くなる。

「……帆那」

 上手くやってくれ。

 滞りなく開演を迎え、劇が進む。

 共通の悩みを持つ学生たちがそれぞれの弱みを見せて繋がっていく話だ。

 我ながらなんともまぁ。

 書いたものに罪はないが、これが面白いかどうかも私には分からない。

 ずっとそうだ。

 九十九帆那は感情が分からないというが、私は面白いということが分からない。

 私が作ったものは隅から隅まで把握しているのだから、それはタネの分かった手品のようなもので……いや、目の前の劇に集中せねば。

「『偽物のハイブランドに安物のメッキ』」

 なんでよりによってその役をしようと思ったのだろう。

「『見た目ばかり気にして中身がおっつかないのがボクだから』」

 私は貴方を罰したい訳では無いのに。

「……来るんじゃなかった」

 九十九帆那は相変わらず生き生きとしているのに、反比例するように私は死んでいく。

 ……それからしばらくして拍手の音がホールに響いた。

 公演が終われば彼らは撤収作業を終えて打ち上げに向かう。

 一応撤収の手伝いはしておいたがその後は自由だ。

 どこに行くわけでもなく一人で部屋に帰る。

 彼女の帰りを待つ。

 待つのは得意で彼女と出会う前からずっと私は誰かを待っていた。

 いつもと同じように私は部屋にいる。

 なんだか食欲が薄い、帰りはいつになるのだろうか。

 三田部長は酔うと話が長くなるし、それにちゃんと付き合うから彼女の帰りも遅くなる。

 二次会だとかそういうのがあったら行くのだろうか。

 今日はどれだけ待つのだろうか。

 ベッドの上で横になる。

 いつもと逆の位置に寝転んで枕に顔を埋めて目を閉じる。

 ナナハンと私を呼ぶ人は私のいない場所にいる。

 それでいいはずなのに、それが苦しいらしい。

 心臓の奥が刺されたように痛い。

 この感情に名前を付けていいのだろうか。

 これを理解した時、私はどうなるのだろうか。

 いや、私たちはきっと壊れてしまう。

 私の自分勝手で振り回して今更どの面下げて言葉を吐くのだろう。

 気付けば私の思考は途切れ途切れになり、視界も暗転と明転を繰り返してゆっくりとまぶたが落ちていく。

 目を覚ます頃には彼女がいてくれたらいいのに。

「ナナハン」

 声がする、目を開く。

 気付くと私はあの日の部室にいて、私たちは制服を着ていた。

 窓の外の空は晴れ渡っているが私は直感する。

 ここはあの日の場所だと。

 私たちが契約をかわすに至った日だ。

「キスは無理だよ」

 そう、彼女は言った。

「私は女の子が好きなわけじゃないし」

 あの日の彼女とは違う言葉。

 これは夢なのだろうか……いや、私が今まで見てきた現実めいたあれが夢だったのか。

「それにキミじゃあね……」

「……そうか」

「だってキミは空っぽじゃないか」

 そうだ、私は空だ。

 何も無いのだ。

「そんなキミが何かを求めて、私を手にしようと思ってる」

 私は、求めていた。

「キミを私で埋めようと考えている」

 違う、私は。

「私のことをアクセサリーか何かとでも思っているのかい?」

「違う! だったら、私はお前との関係を……もっと……他人に……!」

「ナナハン、最低だよキミは」

「あぁ、最低だね。最低だよ。だけど、それでも……お前に言われたくはない」

 だって、九十九帆那は。

「帆那はそんなことを言わない!」

 彼女は最後の最後まで人を気遣える人だ。

 卒業公演の後、彼女は私に謝った。

 一つ責めたりはしなかった。

「九十九帆那を汚すな……!」

「キミが一番汚すのに?」

「だから私は……手を離す……」

 そう、決めたんだ。


 覚醒は着信音とともに。

 未だ抜けきらない眠気の中で端末を手にして通話に出る。

 向こうから聞こえるのは彼女の声だった。

「ナナハン……いま、終わったよ……」

「……帰ってくるの?」

「寝てたのかい? あぁ、帰るんだけどちょっと遅く……あぁ、ちょっと……」

「九十九先輩〜」

 二宮の声だった。

 酔っているのか甘えたような声を出している。

 目が覚めた。

「一花ちゃんちょっと待ってくれるかな……いま電話を……」

「先輩〜一緒にいましょうよ〜」

「……帆那、今どこだ」

「え、駅前の……」

「動くなよ」

 通話を切って私は走り出す。

 帰ってきた時の服装のまま、脱いだコートは着直さず。

 鍵をかけたかどうかも覚えていない。

 なぜ私は走るのだろう。

 いま彼女のところに行かなければ手を離せるだろう。

 お互いにぬるりと関係を断ち切れるだろう。

 なのに、なぜ走るのだろう。

 普段の私からは考えられないほどの速度で街並みが過ぎていく。

 ぶつかりそうになりながら、転びそうになりながら。

 人を避けて、街灯を避けて、電柱を避けて、誰かが私を見て振り返るのを気にせず、とにかく走った。

 走り続けた。

 止まらなかった。

「帆那」

 あの夢のせいだろうか。

 私はほんの少しだけ素直だったのだろう。

 視界の先、彼女がいる。

 もう他の人間は帰ったか別のところにいるんだろう。

 二宮と彼女がいて、二宮が唇を寄せているのが見えて。

 影が重なって、私はたどり着いた。

「ナ、ナナハン……」

「この……っ!」

 生まれて初めて人を殴った。

 利き手の手首を捻ったし、心も痛かったが衝動的だった。

 警察に通報されても仕方がない。

「七海先輩だ〜」

「くっつくな……おい、なにしてる!」

「んー」

「一花ちゃん、酔うとこうみたいなんだ……」

「なんで誰も把握してな……あぁ、今日初めてメンバーの前で飲んだのか……離れろ!」

 しがみついてくる二宮を無理やり引き剥がす。

「七海先輩、なんで終わってから来るんですか〜」

「酒臭いぞ! 何杯飲んだ!」

「ビールとぉ、なんかのサワーをぉ〜」

「くそ弱いな! 二度と飲むな!」

「……この状態で置いていけないだろう?」

 それからしばらくして彼女が呼んでいたらしいタクシーがやってきた。

 二人がかり(概ね私が力づくで)詰め込み、二宮を見送った。

 ちゃんと帰れるといいのだが。

「ナナハン」

「……悪かったよ殴って」

「痛かったけど?」

「悪かった!」

「ははは……いや、ごめん。でもそんなに嫌だったのかい?」

 いつもと同じ微笑みで、私に優しく声をかける。

 誰にでも向けるものを私にも向けている。

「……嫌だろ。お前は私が誰かとキスしてたらどう思う」

「ううん、キミがいいならいいけど……うん、そうだね。嫌だな」

 私を抱き寄せる腕。

 されるがままの自分が恨めしい。

「……ちょっと安心したよ」

「はぁ?」

「いつもどこかで、キミは私なんかに本気ならないと思ってた」

「……それはそういうことでいいのか」

 手を離そうと思っていたはずなのに、その言葉が言えない。

 彼女が発する言葉の次を求めてる。

「そういうことじゃない人に私は抱かれたりしないよ」

「……バカ」

 馬鹿だ、馬鹿だ。

「私なんかにそんなことを言う」

「キミにしか言わないさ」

「お前のこと、散々振り回したのに」

「私のお願いのために何本キミは本を書いた?」

「あんなふざけた提案したのに」

「それもいいかなと思ってしまったのは私だよ」

 手を離せない、目が離せない。

「ごっこ遊びだったけど本気になったんだ、お互いに」

「……いつから」

「キミがファミレスを抜け出した日にやっと気付いた……キミは?」

「……はじめから」

「あぁ、じゃああれはキミなりの告白だったのかな?」

 口実にしたのは確かだ。

 ただ私が思いもよらなかったのは帆那がそれを受け入れたことで、本当にそれを続けてくれたことだ。

「……そんないいもんじゃない」

「そうなんだ……難しいね、乙女心は」

 お前も女だろ、とは言わなかった。

 こうやってペースに乗せられると困る。

 具体的にはズルズルとなんでも話してしまいそうだ。

「愛してるよ五十鈴」

「……ずっと前から好きだったよ帆那」

 通じあってする口付けはその時が初めてだったのだろうか。

 本当はもっと前からそうだったのかもしれないけれど、少なくとも私の認識においてはそれが一回目。

 多分これから何度もそれを重ねていく、回数を忘れるほどに。

 契約も何もかもなしにしてするのだろう。

 腕を組んだ。

 月に叢雲、やつは私たちを見られない。 


「ナナハン」

「……なんで、五十鈴……ってよばな、い……?」

 帆那の肌は温かい。

 私よりも体温が高いのだと思う。

「私のこと帆那って呼ぶのなら」

「呼ぶ……よ……」

「じゃあ二人きりの時は五十鈴と呼ぶよ」

 約束が違う。

「私だけの呼び方だから、大事にしたいんだよ」

「……」

「一欠片でもキミを独占したいと思うことを許して欲しい」

「ばか……っ、だ……帆那……」

「?」

「恋人、だろ……? 好きにすれば……」

 私も帆那を独占するのだから。

 そうしてくれて構わない。

「……ん」

 なんだか、満たされている。

「帆那……」

 私はもう自分を罰しようとは思わないだろう。

 感情を理解できないと言っていた彼女の空の器には私への愛と恋が。

 何も持っていないと空だった私の器には彼女からの愛と恋が。

 満ちて、満ちて。

 愛して、愛して。

 壊れないように、壊さないように。

 優しく、激しく、弱く、強く。

「ん」

 重なる。


 五十鈴、五十鈴。

 ナナハンじゃなくて、五十鈴。

 大事に呼ぶ名前。

 これは私だけの呼び方……ではないけれど、キミをずっと近く感じる音だ。

 感情を理解する、再現する、演技になる。

 相変わらず人の心は複雑で理解し難いものが多いけれど、あの時理解したいと思った感情は理解出来た。

 ありがとう。

 それと、私はキミの前でなら王子様じゃなくていいらしい。

 キミは私の悪いところや駄目なところを見てもなんてことはないって顔をする。

 むしろ、ちょっと嬉しそうだ。

 でも苦手な人参ばかり私の皿に盛るのはやめて欲しいな。

 五十鈴、五十鈴。

「帆那、あんまり声かけたりいい顔するのやめろよ」

「嫉妬してくれるのかな?」

「するが」

 キミはちょっとばかり、いやかなり素直になった。

 ますます可愛くなった。

「……今日の分、まだだな?」

「もう三回はしたよ」

「知らんな」

「毎回毎回そう口実を作ろうとしないでもいいんだよ、五十鈴」

 貰ったものと与えたものを比べればきっとキミが割を食う。

 キミのくれたものに追いつくのはいつになるのかな。

「んん……」

 また、重なる。

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