十二


 夜空を暗く重い雲が覆っていた。厚い雨雲で星一つ見えない。異様に湿った生暖かい風が吹きすさんでいた。

 時々その分厚い雲の合間から黄色い閃光が閃いた。電光には様々な色が混ざり合って見える。彼方にどすんという轟音がした。腹に響く音だ。今にも槍のような雨が落ちてきそうな天候だった。


 病院の壁面に雷光がひらめく度に黒いシルエットが投影された。そのシルエットは閃光のたびに小さくなった。影を映すものが真近に迫ってきた証だ。その影は人間の形をしていた。人の影法師だ。益々影が小さくなり鮮明になり、それが男である事が明らかになる。 


 望月丈はその姿を黒川精神療養院の裏庭に現した。

 甘い面構えだが表情が殆どないのが不敵な印象を与える。革のジャケツトに黒いジーンズだ。門をくぐり裏口のドアを開けて望月が入館した。フロアから三階に上がり、深夜という事もあり誰にも会わなかった。廊下の一番奥の院長室のドアをノックした。壮年の男がドアを開け青年を迎え入れた。


「やあ。よく来てくれた望月。久しぶりじゃないか。身体の方はどうじゃ?」


 壮年の男、黒川仁が抑揚のない低い声を出した。陰気な雰囲気が部屋の中に充満していた。陰鬱な何かが天井や壁に貼り付いていた。望月は押し黙っていた。


「まあ、そこに座ってくれたまえ」


 部屋の中は整然と整えられ、大きなデスクが部屋の中央にあり、豪華な応接セットが壁際に配置されていた。高級な調度品も揃っている。


「立ったままじゃ話にならんよ」


 黒川に促され望月が黒い革張りのソファに腰を下ろした。黒川も前のソファに座った。


「いい知らせかい? 黒川さん。期待してきたぜ」


「身体の方はどうだ。変化はないか?」


「ああ。何にも変わっちゃいないさ。怒ったり恐れたりすれば獣に変身だ。自分じゃコントロールできない」


 ぶっきら棒な言い方だった。望月の瞳に蒼白い光がある。


「そうか。酒でも飲むか」


「ここじゃ飲む気はしねえ。用件を言え」


「実はな望月。頼みたい事があるんじゃ」


「黒川さん。あんた、俺に何か頼める義理じゃないぜ。えっ」


「まあ、そう言うな」


「俺は今でもあんたを恨んでいるんだぜ」


「わかってるさ。心配するな。獣の血の中和剤はもう完成しているのじゃ」


「本当か、黒川さん。なぜそれを早く知らせないんだ」


「中和剤を注射するよ。即効性だからお前は直ぐにまともな人間に戻れる」


「まともな人間? 笑わせるな。新聞を見たぜ。豹のような野獣が女高生二人と、男二人を喰い殺した。そして二日前の朝刊には多摩川沿いの看護専門学校の女子生徒二人が食い殺されたと載っていた。喉元には牙の後が残っていたらしいぜ! たぶん犯人はこの俺だ。もうおしまいさ。俺はもうどうにかなりそうだよ」


 望月が眉間に皺を寄せて言った。


「そう悲観するな、まあ聞け望月。誰が人間が黒豹に変身できると信じる? 誰も信じやしないよ、そんな三流映画みたいな話を。容疑者になってもお前は決して犯人にはならない。それにもし警察に捕まるような事があってもお前には罪はない。わしのせいでお前は獣になったんだ。わしこそ殺人者だよ。そう警察に話すがいい」


「ほう。たまには殊勝な事も言うんだな」


「大金をやる。いい女でも見つけて外国にでも行って暮らせ」


 望月は渋面のままだ。


「昔の事は思い出したくもないが、あんたは助手をしていた俺を人体実験に使いやがった」


 望月が口調を荒らげると黒川が困った顔になり、咳き込んで見せた。


「大げさに言うな。人体実験などではない。人体への影響を調べたかったんじゃ」


「同じようなもんだ」


「悪かったと思っている望月。言い訳はしないよ。その穴埋めはするつもりだ。そしてまともな人間に戻すと約束する」


「黒川さんよ。ところであの時あんた俺になにを注射したんだ。詳しく説明してほしいもんだ」


「説明も何もお前はあの時、感情的になってここを出て行ってしまったじゃないか」


「だから、今話せと言ってる」


「聖獣の血じゃよ」


「なんだそれは」


「わしは昔、様々な国を旅していた時期がある。勿論研究の為だ。わしはヴェードにかねがね興味があってフランスにまで行った。ヴェードとは十八世紀のフランスに存在した怪物の名じゃ」


「……」


「昔、フランスのジェヴォーダン地方で牛のように大きな狼のような獣が出没し人々を次々に喰い殺した。その怪物の名をヴェードと言うんじゃ。今でもその事件の真相は解明されていないのだがな。その恐ろしい怪獣は夜な夜な人を襲って喰っていたんだ」


「まさか、そのヴェードの血を俺に」


「そうではない。話はこれからだ。ヴェードに百人以上の人間が惨殺されたらしい。銃器も役には立たなかったそうじゃ。しかしその獣はある時、忽然とその姿を消した。突然いなくなったのだ。その謎を解き、ヴェードについて詳しく調べる為にわしはにフランスの片田舎まで言ったのじゃ。そしてその真相を突き止めた。かいつまんで話すとヴェードは聖獣によって退治されたという説が存在する。その聖獣は黒豹の姿をしていたらしいのだ。そしてわしはその聖獣の墓らしきものを発見した」


「それでどうした」


「わしはジェヴォーダン地方の隅々まで聖獣の痕跡を追い求めた。そしてついに聖獣の墓を暴きミイラを掘り起こしたんじゃよ。そいつは本当に豹のような動物だった。まあ食わせ物だとは思ったが、わしはその胡散臭い墓の管理者に大枚を叩いてその一部を日本に持ち帰ろうとした。しかしその可笑しな現地人は祟りがあると言ってそれをさせなかった。だからわしは力ずくでそれを奪った」


「……あんたらしいぜ、そいつを殺したのか」


「まあそんなことはどうでもいいじゃないか。とにかくわしはその骨を持ち帰り、DNAを取り出し他の化学物質と混ぜて融合させ活性化した。それは本物だったのだよ。凄い代物だ。そして苦心を重ねついに聖獣の血をつくり上げたのじゃ」


「信じられない話だ。そんな訳のわからないものを俺に注射したのか。えっ!」


 望月が立ち上がって思い切り壁を蹴った。瞳の中に計り知れない怒りと悲しみが交差するようだった。



 天空に雷鳴が轟いていた。強烈な雨と疾風が猛獣の叫び声のように病院に木霊していた。


「まあ落ち着け。わしもまさかお前が獣に変身するなどとは夢にも思っていなかったんじゃ。許してくれ」


「まあいい。俺があんたをかみ殺さないうちに早く中和剤を射て。俺を獣から開放してくれ」


「望月、わしを殺せばおまえは二度とまともな人間には戻れんぞ。それでいいのか」


 黒川が狡猾な笑い顔をつくった。


「中和剤は必ず射つ。だから、その前にわしの頼みを一つだけ聞いてくれんか」


「どんな頼みだ」


「ある少年をここに連れてきてほしい」


「少年? 俺に誘拐でも手伝わせるのか」


「誘拐じゃない。少年がここから逃げたんじゃ」


「自分で連れ戻せ。俺の知った事か」


「わしの手には負えん」


「子供一人連れ戻せないのか」


「ただの子供じゃない。元治がやられた」


 望月の表情が変わった。


「元治がやられた? そいつにか」


「そうだ。奴は超人だよ」


「そいつはライフルでも使ったのか」


「素手でだ。素手で元治を動けなくしたんじゃ。重症を負わせたんだよ」


「考えられねえ」


「わしは悔しいよ。元治はわしの言う事を何でも聞く可愛い奴なんじゃ」


「あの顔が可愛いかい。もともと死刑囚じゃねえじゃか。あんたが刑務所から浚ってきて怪物にしちまった。脳みそはゴリラなんだろ」


「わしは死刑囚の元治を救ったのだ。そして生かした」


「救った? 俺にはとても救ったようには思えないな」


「どうだ。できるか」


「先に中和剤を俺に射ってくれ。そうしたら頼みをきいてやる。もちろん報酬もたんまり頂くぜ」


「望月いいか、ただの人間に戻ったらあの少年には太刀打ちできないぞ。軽くあしらわれる。あいつは魔物だ。聖獣のおまえのみがあいつを倒せる」


「あんた葉巻を吸うんだろ。葉巻をくれ」


 望月がボソッと言った。思惑あり気な表情だ。黒川が立ち上がってテーブルの引き出しから葉巻を取り出した。そしてやはり引き出しからキャビネサイズの写真を一枚取り出した。望月に渡す。


「これが少年か。俺にはとても超人には見えないがな」


「名前は東道夫と言う。十六歳じゃ。ところでお前も葉巻を吸うのか。何処で憶えたんじゃ? 上等な葉巻だぞ。チャーチルが愛好したシガーだ。首尾よくやれば箱ごとくれてやる」


 望月が吸い口を切り、葉巻を咥えると黒川が薄笑いを浮かべてライターで火をつけた。


「そのかわり、中和剤がもし偽物だったらその場でお前を食い殺すぞ」


 黒川が返事をしかけた時、不意にドアにノックがした。


「だれだ。今接客中だ。急用でない限り後にしろ」


 黒川の言葉におかまいなくドアが勢いよく開いた。女が入ってきた。シースルーのガウンを身に纏っていた。その下に熟れた女の艶かしい姿態が透けていた。ガウンの下は完全に裸体だ。釣鐘形のかたちの良い乳房が揺れていた。その女の顔をみて望月が口元から葉巻を落とした。まるで高圧電流に触れてしまったような表情だ。


「このばか者。こんなところに来る奴があるか!」


 黒川が女を怒鳴った。


「黒川先生。わたし我慢できません。だってずっと寝室で待っていても先生いつまでも来て下さらない」


 女が言った。


「もうすぐいくところじゃ。戻って待っていろ」


 黒川がそう言ってただならぬ驚きようの望月の顔を覗きこんだ。


「どうした。望月。この女を知っているのか?」


 望月は答えず。黙って女を凝視している。抜けるような白い肌に蒼白い血管が浮き出ていた。長い黒髪は艶を持ち半ば開かれた唇は淡い紅色だ。上を向いたピンク色の乳首と肉好きの良い太もも。細っそりとしたくるぶしをしていた。

 しかし女の眼には底知れぬ暗さがあった。眼の周りに黒々とした隈があり視線が定まっていなかった。相手が本当に見えているのか疑いたくなる異様な眼つきだ。


「この女はわしの奴隷だ。名は貴子だ。高校の教師、いや、カウンセラーだったがわしが見初めてわしの女にした。いい女だろ。毎晩抱いてるんじゃ。たまらんわ。この女がベッドの中でわしを青年に変えてくれる」

 

 望月の顔から血の気が引くのがわかった。身体が震えている。


「黒川、てめえ」


「どうした。望月その顔は、この女が欲しいか。少年を連れてきたらくれてやっても……」


 その言葉が終らないうちに黒川の顔面に容赦のないパンチが飛んできた。鼻っ柱をへし折るほどパンチだ。黒川がもんどりうって床に倒れこんだ。鼻血が滲んでいた。


「ど、どういうつもりだ! 気でも違ったか望月」


 黒川が凄い形相で望月を睨みつけた。


「この女になにをした。えっ!」


「なにをって。察しがつくだろう」


 倒れている黒川の胸ぐらを望月がつかんだ。


「洗脳したのか」


「そ、そうだ」


「すぐに女の洗脳を解け! いいか」


「知っているのか!? 知っているんだなこの女を」


「この女は……」


 望月が酷く悲しい顔をした。苦痛の表情だ。


「この女はてめえのようなゲス野郎の抱ける女じゃねえ!」


「わかった。望月知ってる女なんだな。洗脳を解くよ。余分な記憶も消してやる。だから少年を連れて来い」


「いいか黒川。今後この女に指一本触れてみろ。即刻かみ殺すぞ」


「先生。どうしたんです。この人誰? 酷い事する人ね。いけない人です」


 その様子をぼんやりと眺めていた碧川が、まるで少女のように言った。望月が呆然としていた。目頭が潤んでいた。


「待ってろ、黒川!」


 そう言い残すと望月は風のようにその部屋から消えていった。

 折から吹く疾風に病院の裏庭の林が妖しくざわめいたいた。ただ闇夜に続く扉が開け放たれていて、がたんという扉が壁にぶつかる音だけが不気味に残った……。

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