十一
――東少年は夢を見ていた。
だが少年は意識のどこかでそれを夢だと自覚していた。夢をいつ、どんな風に見始めたのか全く思い出せない。なぜか計り知れない胸騒ぎを感じ、その胸騒ぎは少年の胸に重く圧し掛かっていた。
夢の中に大聖堂があった。巨大で荘厳な大聖堂を星灯りが照らしだしていた。円形の窓型に満天の星空が貼り付いている。その聖堂の中に少年は立っていた。冷気が足に絡みつく。長い廊下を漆黒の闇が支配していた。側窓のアーケードのステンドグラスにはイエスが俯いていた。
少年はその聖堂の中を彷徨っていた。すると目の前に大理石の祭壇が現れた。少年はその祭壇の上に寝ているものを見て息を呑んだ。
そこには自分が寝ていたのだ。自分が、もう一人の自分が蝋人形のような白い裸体を冷たい石の祭壇に横たえている。驚きで目眩がしそうになった。その少年は呼吸もなく、鼓動もなく、化石のように深く眠っていた。
大聖堂は巨大な船を模して造られてあり、その中央部に祭壇が設置され、印象的な模様の彫刻が回りを飾り立てている。
恐ろしい程の静けさがその場を支配していた。針一本床に落ちたとしても容易に聞き分けられたに違いなかった。闇の中に蜀台の蝋燭の灯りが揺らいで、照らし出された少年の身体は虚空に浮かんだ白い彫像のようだ。
その時だ。突然宇宙の彼方に閃光が走った。周りの星々がその光に萎縮して見る見る体裁を欠いてしまう程の輝きだ。
眩いばかりの光輝は暗黒の宇宙にひらめき、大聖堂の美しいばら窓がその閃光に照らされて、石の壁に三原色の幻想的な映像を映し出した。
しかしその映像美は一瞬のうちに喪失した。なぜならその直後に宇宙から小石ほどの隕石が高速でばら窓を直撃し、ステンドグラスを打ち破ったのだ。
一瞬にして地鳴りを伴う轟音が巻き起こった。大聖堂の窓という窓が反響し合い連鎖して粉砕していく、まるでこの世の総てを歪ませて引き裂き、崩壊させてしまう様な光景だった。
ガラスの破片は空間を舞い微粒子になり煌めき、拡散して青い霧に変わる。青い霧はやがて異様な生き物へと変化していく……
青い蝶。そこには何万匹という計り知れない蝶が群れ、一気に大聖堂の大屋根を突き破って上空に立ち昇った。
少年はその時、祭壇上の少年と一体となった自分を感じていた。二つの身体を持つ自分が一つに重なったのだ。
――その瞬間に少年は目覚めた。
全身の血液が滾って濁流のように流れた。喉の奥から呻き声のようなものが吐き出された。両目がかっと見開かれ天井を仰ぎ見た。
異変に真っ先に気付いたのは斉田だった。手術台の側に走ってきて少年を凝視した。少年は身体を起こそうと思ったが自分が革のベルトで拘束されている事を知った。
少年は意識をはっきりさせるようにゆっくりと深く深呼吸した。注意深く周囲の状況を伺う。黒川がすぐに部屋に入ってきた。歓喜に目を輝かせている。手術台の横に緊急ブザーがあり、斉田が黒川のいる院長室に事態を知らせたのだ。
「おめでとう東君! ついに君は目覚めた。君は不死だ。東君。わしはその復活の現場に居合わせた事を誇りに思うよ」
黒川がドアを開けたと同時にそう叫んだ。
「あんた誰だ…… いったい僕はどうしたんだ」
少年がやっと意識を持って話し出した。
「君に聞きたい事が山程ある。いやあ素晴らしい。君は死神に打ち勝ったのだ」
取ってつけたような笑顔をして黒川が言った。
「僕は生きてたらしい。ここは天国でも地獄でもなさそうだ」
興奮状態の黒川を尻目に東道夫が無表情で答えた。
「わしは君を救った黒川と言う。この病院の院長だよ。こっちは助手の斉田だ」
「……」
「君は死を宣告された。身を焼かれるところ先生に助けられたんだよ」
斉田が説得するように言った。
「この人は僕の命の恩人って訳かな」
「そうだとも」
「しかし、僕を何だって拘束する? 腕がいたいよ」
黒川が困った顔をした。
「僕は思うんだけど。どうやら、僕は実験台になっているみたいだね。本当に僕を助けてくれたんならこんな革のベルトなんていらないはずだ」
「勘違いせんでくれよ。君が急に起きださんように配慮したんだ。ふらつかれて怪我でもしたら大変だ」
「そうか。だったらこれを今すぐ外してくれ。苦しくてかなわないんだ」
「そうはいかん」
「なぜだい?」
「それはまだ実験中だからだ」
「――やっぱり。僕はモルモットか」
「そうじゃない。君は不死身だ。その秘密を解き明かし人類の為に役立てる。協力してくれたまえ」
「悪いが嫌だ。僕は平凡に暮らしたいんだ」
「ふっふっ。はっはっはーっ」
突然黒川が笑い出した。悪寒さえ感じさせる黒い笑いだ。
「君はのんきだねえ。まだ子供だ。君は平凡になどもう暮らせないよ。世界が君のことを知ったら君をどうすると思う? どんな手段をとっても君を奪いに来るぞ。世界中が君を手中に収めようとする」
「逃げるさ」
「だから、わしが君を守ってやろうと言うのだ。君の存在を秘密にする。だからわしに協力しろ」
「僕はこのまま
少年の全身から一瞬力が抜けたかに見えた。しかし、横になった少年の身体からオーラのようなものが立ち昇り始めた。蒼白い湯気のようなものだ。ただならぬ気配を感じて二人が遠のいた。
少年の胸が大きく膨らんだ。弱々しく見えた少年の腕が筋金が入ったように隆起した。右手を拘束していた革のベルトが紙のように千切れた。ついで左腕のベルトも切れた。斉田青年の額に粟粒の汗が浮かんだ。黒田も息を呑んで様子を観察していたが、両足のベルトも鈍い音をたてて引き裂かれた。
魔性の少年はそこに立ち上がった。いつの間にか瞳の中に青色の炎が燃えていた。
黒川が後ろに飛ぶように走って、暗闇の重い鉄の扉に手をのばした。
「元治、来てくれないか!」
大声で怒鳴るようだ。
「元治! 大変だ。患者さんが気が違って逃げ出しそうなんだ。力をかしてくれないか」
「オウゥゥ~ン」
地下から忌まわしいい悲鳴のような叫び声が聞こえた。地底からごつい指が扉を掴んだ。そして扉が一気に引き開けられた。怪力をこえた途方もない力だった。重い鋼鉄の扉がボール紙のように弾き飛ばされた。元治の巨体が少年の前に踊り出た。
仁王が地獄からやって来たようだった。異様な空気があたりを覆った。怪物の眼は血走り、狂気を発散していた。たとえ武装した兵士でさえ、たじろいただろう。元治の巨体は魔物以外の何者でもなかった。
東少年の表情は能面のようであった。無表情という意味ではない。あたかもその表情はそれを覗き見る者の心を映すようで、見ようによっては微笑んでいるようにも見えたし、怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。
丸太のような腕が少年に向かって飛んできた。大きな右の拳が少年の首筋から顎にかけて炸裂した。その一撃は軽く少年の身体を壁まで吹き飛ばした。金剛力である。
少年は否応なしに床に這いつくばった。元治にはまるで容赦する気配さえなかった。床に倒れた少年を両腕で引きずり起こした。少年は大きく見開かれた青色の瞳で元治を仰ぎ見た。
今度は前から抱きしめるような格好で、少年の身体は万力のような力で締め上げられた。骨の軋む異様な音がした。その有様は虎が猫を襲うように見えた。怪物の太く浅黒い腕に比べて少年の細腕はなんとも貧弱で少女のようにさえ感じられた。
「オウゥゥ~ン、オゥオゥワ~ン」
元治が異様な声を出した。その叫び声は元治が少年を完全に捉えたという叫びかと思われた。悲鳴が上がった。それは当然に少年の痛ましい悲鳴であるはずだった。
しかし二人の目の前でとても信じられぬ事態が展開していた。死を前にしたような切実な悲鳴の主は少年ではなく、元治の方だったのである。
いつの間にか少年はその腕を元治の腕の内側に差し入れ、さば折りのような格好で逆に怪物の腰を締め上げていたのだ。
少年の腕が怪物の肉内に食い込んで見えない。まるで腕が腰の辺りに刺さったようにも見えた。見る見る怪物の顔から血の気が失せていき、口から泡と血と粘液が溢れ出た。
「オア~ゥゥ~ン」
その悲鳴は悲しげだった。元治の全身の力が急速に抜けていった。生死に関わる事態が怪物の身の上に生じていた。もはや声を上げることすら出来ない。
その時ふっと少年の顔に哀れみにも似た特異な感情が表れた。青い炎の眼の色が黒色に戻っていた。無造作に怪物はその場に開放された。ずしりと重い音がして怪物が床に仰向けに倒れたのだ。不気味なうめき声だけが耳についた。
「人は怪物を倒すとき自分も怪物になるという話を僕は知っている。僕は怪物なんかになりたくない」
その言葉は東少年が自分に語るようだった。
黒川と斉田は言葉を忘れたようだった。黒川があわてて机に飛んで引き出しの中を手でまさぐった。机の中の拳銃を探し当てると手に握った。
「先生! 手出しはしない方がいい」
斉田が言った。
「なに!」
黒川が興奮している。
「下手な事はしない方がいいと言ったんです。我々の身が危ない」
「くっそーっ」
黒川が呆然として少年を見つめている。
「僕はここを出る。服を返してくれないか」
裸の少年が以外に落ち着いた声を出した。その声は大人のようだった。あどけない少年の面影と大人の持つしたたかな一面を東少年は併せ持っていた。
斉田が部屋の隅の物入れからの衣服を持ってきた。少年に差し出す。
「君の服はないんだ。びりびりに裂けていて処分した。これは君が目覚めたときのことを考えて僕が用意しておいた服だ」
「斉田。どういうつもりだ」
黒川が苦い表情で言った。
「ここは東君の言うとおりにしましょう」
「……」
黒川が黙り込んだ。少年はゆっくりと服を着た。白いシャツと黒いズボンだ。上にジャケットを羽織る。
「何処へ行くと言うんだ?」
黒川が聞いが少年は答えなかった。視線が遠方を見つめるようだった。少年はドアを開けゆっくりと階段を上って行った。地上から闇を切り裂くように陽光が差し込んでいた。眼が眩むようであった。
地上からの光線の中に少年の姿が消えそうになると、黒川が小走りに少年を追って階段を駆け上がった。外に出て左右を見回す。しかし少年の姿はもう何処にも見当たらなかった。黒川は東少年が戻らぬと知ると、後ろに居る斉田に向かい怒りをぶちまけた。
「えーい。くそっ。斉田どうしてあいつを行かせた。この役立たずが。わしの宝物を逃がしてしまった! 必ず探し出してこの穴埋めをさせてやるぞ」
「黒川先生。だから僕は手足を切断してしまいましょう。と言ったのです。何か方法を考えましょう」
「あのがきめ。このままじゃ済まんぞ。思い知らせてやる」
黒川が奸悪な形相をしていきり立ち、裏口のドアを思い切り蹴り飛ばした。
それに引き換え斉田はまるで胸のつかえが降りたような顔をしていた。少年の想像を絶する力に惚れぼれとした様子だ。斉田は少年の後姿が消えてしまった表通りをいつまでも眺めていた。
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