「どういう意味ですか。それは」

 

 碧川貴子が黒川に向かって言った。


「残念だが君をここから帰さない」

 

 不穏な雰囲気を感じ碧川が後づさりしてドアに背中をつけた。ドアノブに手を掛ける。その手が微かに震えていた。


「斉田!」

 

 黒川がそう叫ぶと斉田が碧川の手をつかんでドアから引き剥がした。


「林崎先生! どういうことです。これは」

 

 碧川が甲高い声をあげて林崎の方に視線を投げた。


「林崎君はもう以前の林崎君ではないよ。神の声の従順な下部だ」


「なにをしたんです? あなたは林崎先生になにかしたんでしょ!」

 

 碧川が声を荒らげて叫んだ。


「まあ、そう興奮するな。わしはこの少年の意識を回復させたいのじゃ、さあ碧川さん。この少年に何か話しかけてみてくれないか」


「いやです! そんな事」


「いいから何とかして少年を覚醒させろ!」


 語気強く、黒川が態度を豹変させた。その奸悪な本性がついに表出したのだ。仕方なく碧川がしゃがんで床に落ちたシーツを拾い上げた。胸元までそっとシーツで少年の裸体を覆った。少年の意識の回復は碧川にとっても望むところであったろう。

 少年との間に一時にせよこころが通い合った事を碧川は思い出した。だが碧川の心には少年をこのままそっと眠らせてあげたいと言う思いもあった。暫らくの間、碧川は少年をじっと見つめていた。

 

 やがて複雑な心境を抱えて碧川は少年にゆっくりと話しかけた。少年の耳元でそっとだ。


「東君…… 大丈夫なの。東君」


「もっと大きな声を出せ。そんな蚊の鳴くような声じゃ天国の少年には届かんぞ」

 

 黒川が言った。


「東君…… 」

 

 碧川が繰り返す。


「もっと大きな声だ!」

 

 黒川が怒鳴った。碧川が少年の肩に手を添えた。


「東君。あなたの心臓は動いてる。あなたは生きてるんだわ」

 

 少年の表情には殆ど変化がなかった。昏睡状態に近い、表情のない寝顔だ。


「東君。聞こえているのなら聞いて。まだわたしのカウンセリングは終わっていないわ。まだ途中なのよ。だから出来たら目を開けて」


 碧川の眼が潤んでいた。その時いきなり黒川が少年の頬を平手で叩いた。黒川が癇癪をおこしたのだ。


「いいかげん。起きんかこいつ!」


「乱暴はやめて!」

 

 碧川がヒステリックに叫んだ。


「林崎君。この人を部屋に連れていきなさい」


 黒川が不機嫌な顔で命令した。おとなしく林崎が碧川を連れてその部屋を出た。途端に碧川が逃げようとした。しかし林崎に左腕をつかまれた。前にのめりそうになってヒールの片方が脱げて転がった。


「林崎先生! しっかりしてください。催眠術にでもかけられたのですか。それとも洗脳されたの。眼を覚ましてちょうだい。林崎さん」

 

 気丈に碧川が叫んだ。


「あなたを逃がすと僕は叱られます」


 うつろな目のまま林崎が言った。と後ろからついてきた看護師の女が碧川のもう片方の手を掴んだ。かなりな腕力で抵抗もできない。


「世話を焼かせないでこっちにおいで」


 中年の大柄な女だった。顔色の悪い卑しい表情の女だ。地下の薄暗い廊下をゆくと倉庫のような小さな部屋があった。精神に異常をきたした者を入れておく部屋のようだった。碧川は有無を言わさずそこに放りこまれた。

 内側の壁にベッドのクッションのように素材が貼ってある。患者が暴れても身を傷つけない配慮らしかった。それにしても何年も使われていないらしく。薄汚れていて嫌な臭気があった。天井に蛍光灯が一本だけだ。

 碧川はただ途方にくれた。がちゃりと鍵が掛けられた。ドアの内側から叩いてもそのドアは重くびくともしなかった。


 ◇


「黒川先生」

 

 二人が出ていくと殆どしゃべらなかった斉田が口を開いた。


「なんだ」


「少年が今ここで仮に覚醒したらどうなると思います」


「どうなるとは?」

 

 いぶかしんだように黒川が答えた。


「私達に敵意を抱くかも知れない」


「少年を撃ち殺したのはわしだが、死体同然になって火葬場のバーナーで焼かれるところを救ったのも、このわしだ。わしが助けたんだ!」


「確かにそうです。しかし少年の為にでしょうか?」


「何が言いたい斉田」


「実験の為に助けたんです。不死の秘密の為に」


「だからなんだと言う」


「僕には眼を覚ました少年が喜んで実験に協力するとは到底思えませんねえ」


「目覚めさせん方がいいというのか」


「その通りです」


「しかしこのままでは埒が明かない」


「このままじゃ危険だ。黒川先生。目覚めるのは時間の問題かもしれません。だから念のために少年の四肢をばらばらにしてしまいましょう」


「なに!」

 

 黒川がさすがに驚いたような顔をした。


「しかしこの少年の手足を今更切り落としたところでたいした意味はない」


 少年の全身を眺めながら黒川が言った。


「念のためですよ」

 

 陰気な斉田の声だ。


「再生には途方もない時間が掛かるかも知れん。お前はこの少年が怖いのか斉田」


「いや、怖いというわけではありませんが、目覚めた時のことを想定しておく必要があります。万全を期すのです。強化人間二体が簡単に壊されたのですよ」


「お前は結構抜け目がないな斉田。お前の母親に似ている」


「母の話はやめてください」

 

 斉田が感情的な顔をはじめてみせた。蝋の顔に血が通ったのだ。


「わしはお前の母を敬愛しておったぞ。今はもういないが」

 

 斉田はなにも答えなかった。斉田の母は優秀な正看護師だった。名を斉田玲奈と言う。黒川の過去の愛人であり、その連れ子こそ斉田だったのだ。玲奈は見目麗しい美貌をもっていた。黒川は離婚をして一人身だった玲奈に甘い話を持ちかけ、彼女を自分のものにした。

 玲奈は若くして病死をしてしまったが、玲奈の一人息子を黒川が育てたのだ。斉田治を医大にまで行かせ自分の側に置いている。斉田は根暗だが優秀な頭脳を持っていた。それは黒川も認めるところであった。


「わしはやはり、少年を目覚めさせてみたい。少年の話が聞きたいのじゃ。不死化した経緯を知りたいんじゃ。研究を確立させるにはそれが必要だ。わしはウイルスの母体のようなものが知りたいんじゃ」


「なるほど。インフルエンザのウイルスは宇宙から飛来したという説もありますからねえ」


「そうだ斉田」


「しかし少年が何も話さなかったらどうします」


「自白剤を使ってでも喋らせるさ」


「相変わらず黒川先生は強引だ。ところで不死のウイルスの人体実験はどうするんです?」

 

 斉田の目の奥に怪しい笑みが浮かんだ。


「そうだなあ。林崎か碧川という教師を使うつもりじゃ」


「動物のように死んだらどうします?」


「それも貴重な実験結果じゃよ。冒険に犠牲は付き物じゃ。恐れてはいかん。前に進むのじゃ」


「しかし、碧川をどうするのです。随分とリスクの大きい事をされましたねえ。先生のされた事は誘拐と同じですよ。彼女が学園を休めばすぐ怪しまれる」


「碧川は美人だ。洗脳して昼間は学園に行かせるさ。そして夜はわしの奴隷にする」


「……」

 

 斉田が唖然とした顔をした。


「奴隷ですか……」


「そうだ。わしは美人には目がない性質たちでな。あの女のふくらはぎを見てわしはそそられたんじゃ。久しぶりに欲望を覚えたんじゃよ。わしはあの女の神になり、主人になる」


 斉田が黙りこくって黒川から視線を逸らせた。


「黒川先生、あなたの気が知れません」


「そうか、まあいい。あの女の裸を拝ませてやるよ。お前も欲情するさ」


「何を言い出すんです」


「はっはっはっ。うおっはっはっはーっ、わしの手に入らぬものなどこの世界にはない」

 

 実にいびつな笑いだった。黒川はいやらしい爬虫類のような貪欲な目をして斉田を見つめていた。


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