九
下校時に廊下で林崎に呼び止められた時、碧川貴子はなにか妙な胸騒ぎを覚えた。今日は特に学園での問題もなく早めに帰宅できると思っていた矢先だった。どうも最近林崎の様子が変だと薄々思っていたのだが、疲れのせいだろうとあまり気にも留めてはいなかった。
このところめっきり寡黙になった林崎の眼はいつもなにか遠くを見るようだった。
「碧川さん。あなた飯田真奈を知っていますよねえ」
「ええ、もちろん。ちょっと問題児よね。何かしたんですか?」
「いや、この前ちょっと彼女と話したんです。東の事でね」
「えっ、死んだ東君の事で」
「そうです。そしたら彼女何を言い出すかと思ったら、東が不死身だと言うんですよ」
「……そう」
「そうってばかに冷静ですね。あなたは東を良く知っていますよねえ、東が登校拒否児童だったから週に何回かは東の家に行ったのでしょう? 色々ありましたねえ。いや僕はあなたがその件については話したくないのを知っていますよ。個人情報の意味からもね」
「……」
「実はあなたに見てもらいたいものがあるのですが」
林崎にそう言われてそれがなんだと尋ねても林崎の答えは曖昧であった。
「いや、これは口で言っても始まらないことなんですよ」
「口で言えない事ってなんですか?」
碧川がちょっと不機嫌な顔をした。
「僕は碧川さんをいい意味で驚かせたいんですよ」
そう言ってはじめて林崎の顔に笑顔が浮かんだ。碧川はもともと林崎には信頼を寄せている。
「まさか。婚約指輪のプレゼントだったら辞退しますよ」
碧川が笑顔で冗談を言った。
「そうじゃありません。僕には意中の人が居ますんで」
「じゃあ、いったいなんなんです?」
「実はねえ。驚かないで聞いて欲しいのですが東君の遺体のことです」
碧川の笑い顔が見事に消え去った。
「どういう事ですか? それ」
「あるところに東君の遺体。いや正確には遺体でも死体でもない、身体があるんです」
碧川が啞然としてまじまじと林崎の顔を覗きこんだ。不安と期待の入り混じった表情である。林崎が悪趣味な冗談をいう男ではない事を彼女はよく知っている。
「林崎先生らしくもない。変な冗談ならやめてください」
「なにも碧川さん相手に変な冗談を言う気などないですよ。僕はそんな変な男じゃない」
「確かに生前の東君には超然としたところがあったけれど。あれから一年も経っているのよ」
碧川が沈黙した。考え深気に窓から外を眺めた。
「東君の身体が…… まさか。そ、それは本当のことなの」
碧川の当惑の表情がきりっとした厳しい顔に変化していた。
「訳が分かりません」
考えあぐねた碧川の様子だ。
「嘘よ。告別式にわたし出たのよ。この前、彼の墓前に花を……」
「信じませんよね。無理はない」
林崎が携帯をポケットから出した。開けて写真を見せた。碧川の顔が強張って蒼くなった。携帯に東少年の顔があった。寝顔だ。
「なんなんです。この写真」
「僕は東にこれから会いに行く。一人でも」
「わかったわ。嘘じゃないのね。連れてってください。東君のところへ」
「じゃ行きましょう。心配しないでください。墓地に行く気はないから」
林崎は校庭の隅に止めてある自分の車に碧川を案内した。
「今日は車だったの。最初からわたしを連れて行く気だったの?」
「そうですよ」
二人を乗せてグレーのセダンが走り出した。夕陽がレンガ色の学園の校舎を尚一層赤く染めていた。
――街中を離れセダンはいつしか登り坂に差し掛かっていた。
目的地はもちろん黒川精神療養院だ。鬱蒼とした林の横の駐車場に車が止まった。裏口から入り階段を下る。薄暗い場所でかなり湿度が高かった。
下に着くと踊り場があり更に階段は下へと続いていた。まるで中世の牢獄に入るようだった。蛍光灯の明かりが松明のように揺らいでいた。ドアの前に林崎が立ちノックをした。覗き窓に眼が現れてドアが静かに開いた。
碧川が中に入るのを
黒川と斉田と看護師の女がその手術台を取り囲んでいた。思わず碧川が息を呑んだ。胸が高鳴り全身が痺れるような感覚だ。
碧川はその手術台を注意深く観察した。シーツの下から飛び出した両手両足は、黒い分厚い革で台に拘束されている。まるでその人物が暴れだす事を予測してそうしたようであった。その手足は白く細く女のようにも見えた。
不気味な沈黙が続いて異様な不快感が碧川の胸に圧し掛かった。
「やあ。碧川さんですね。よくおいでくださいました。私はこの病院の院長の黒川です。これは助手の斉田」
黒川が笑顔でそう言った。斉田は相変わらず蝋人形のようであったし、看護師にもほとんど表情がなかった。
「林崎君。ご苦労だったな」
「はい」
林崎が従順な声を出した。このとき明らかに林崎が別人のように思えた。彼は全く主体性のない空虚な眼をしていた。
「お綺麗な先生ですね。林崎君からよく聞いておりますぞ」
「いったい。どういうことなんですか? 生徒の身体がここにあると聞いてここに来ました。あっ。挨拶もろくにしていませんでしたわ」
「いいんですよ。挨拶なんて無用ですとも。このシーツの下は東君です碧川さん」
碧川が驚いた顔をして息を殺した。黒川はそう言うと無造作にシーツを手術台から引き剥がした。碧川があまりのショックで立っていられなくなった。倒れそうなところを斉田青年が支えた。少年の顔は美しかった。死人の顔ではなかった。どす黒い土気色から常人の顔に変化していたのだ。
「彼がここに来てかなり経っておる。彼の肉体は腐るどころか蘇ろうとしているんだ。脈を打ち、心臓の鼓動が微弱ながら再開した」
「……まさか、東君は生きているのですか? まさか生き返るのですか!」
「そうだとも。奇跡はもう起こったのだよ。しかし、もうとっくに眼を開けてもいいはずなのだが。意識だけが回復せん。身体の全ての機能が生きる為に全力を挙げているのに。意識だけがどうしても戻らないんじゃ」
「どうして……」
「わからない。しかし彼は不死身なんだ。人差し指を切り落としたんだが、五日で指が生えてきた」
「指を…… なんて恐ろしい実験なの」
碧川が自分を抱きしめるような恰好をした。恐怖に身震いする。
「少年の身体はくまなく調べたが、不死身性の原因はウイルスだとわかった。極めて特殊なウイルスだ。このウイルスは細胞に侵入し細胞を強化する。身体の一部が損傷してもそれと全く同じものを合成するんじゃよ。身体を復元する。損傷の度合いによって復元時間は大きく異なるのだがな」
「ウイルス……」
「そうだ心配ない。輸血でもせん限り感染はせんよ。動物に感染させてみたが動物はすべて死んだ。犬も猿も猫もみんなじゃ」
「恐ろしい実験だわ。こんなところでそんな実験をしてるなんて」
碧川の顔は蒼ざめたままだ。
「わしはこの少年がいつどんな風にウイルスに感染したか知りたい。それにはこの少年の意識を回復させ。本人から聞くのが一番じゃ」
「……」
「林崎君から君がこの少年と親密だったと聞いた。この少年が死んだとき君は半狂乱になったらしいじゃないか」
「そ、そんな」
「君と少年の関係を詮索するつもりはないよ。君ならこの青年の意識を回復させられるかも知れん。わしはそう思ったんじゃ」
「その前にこの革はなんなのですか。なんで拘束する必要などあるの」
碧川が心配そうに言った。
「この少年の筋肉の質量は常人の数倍もあるんじゃ。もし暴れたら手がつけられん」
「暴れるなんて。東君はそんな少年じゃありませんわ」
「だといいがねえ」
「東君は死んでいなかったんですね。誤診だったという事ですね。でたらめな検視が行われたという事でしょうか? 兎に角わたし、一度帰ります。ここには林崎先生と出直してきますわ」
「はっはっはっ。何を言うんだい。このまま君を帰したらどうなるか、さすがにわしにも想像がつく。君は二度とここからは帰れないんだよ」
黒川の眼の奥低に暗く深い川がある。その川は底知れない狂気を湛えて碧川を見つめていた……。
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