八
――月の輝く夜だった。心地良い潮風が碧川貴子の頬に当たった。その風が彼女の豊かな黒髪を解いてなびかせていた。
碧川が学園に通い始めてから一ヶ月以上が知らぬ間に過ぎた。女高生の殺害事件は依然として謎に包まれていた。捜査が暗礁に乗り上げたのだろう。未解決の事件は学園の校長を始め教職員たちに多大な不安を与え続けていた。
碧川はワンガンと言うラウンジバーに足を向けた。一人である。今日は金曜日だし、あの愛嬌のあるマスターの顔がなんとなく見てみたくなった。友人の裕子を誘ってみたが残業だと断られた。
――碧川がワンガンに足を向けた一番の動機は青年だった。
この場所で青年に又会えないかと思う。あの時以来青年の面影が頭から離れないのだ。自分でもおかしいと思う。胸のつかえが降りない。なにかが心の奥に引っかかったままなのだ。恋をしたのかと思う。いや、ただの好奇心だ。心の中で否定する。
もしやという淡い期待を抱いて碧川はワンガンの螺旋階段を上がっていった。ドアを開けると店内はけっこう混雑していた。青い煙草の煙が棚引いていた。カップルの姿がテーブル席に幾つもあった。
カウンター内のマスターが目ざとく碧川に気づいた。
「いやあ。よくいらっしゃいました」
マスターが笑顔をつくった。碧川がほっとした表情でマスターの前のカウンターに座った。碧川は比較的地味なを服を着ていた。
「何飲みます?」
「モスコミュール。きょうは混んでいるのねえ」
「週末だから……」
カクテルが出てきてマスターが囁くように言った。
「大変でしたねえ。今回は。もう大丈夫なんですか?」
「ええ。もうしっかり仕事に精を出してるわ」
「そりゃ良かった」
「ここにも警察が来たんでしょ?」
「ええ。いろんなことを聞かれましたよ。あなたと、特に青年の事」
「どう答えたんです?」
「どうって。わかりませんって」
マスターがグラスを拭きながらひょうきんな顔をした。
「あの青年あれからここに来ません?」
「青年にもう一度会いたいんでしょ」
マスターが碧川の眼を見てそう言った。碧川の顔がほんのり赤くなった。
「一目ぼれって奴だ」
「な、なにを言ってるんですか。そんな」
碧川が不機嫌な顔をした。
「私はもうこの店を二十年もやっている。少しはお客さんの気持ちがわかるんですよ」
「そうね。そうかもしれない」
両手を前に突き出して伸びをするようにして碧川が言った。今度は清々しい顔だった。
「やめときなさい。あの男はだめだ」
マスターがぽつりと言った。
「えっ?」
碧川が聞き返す。
「あの男には不吉な陰があった。なにか冷たくて嫌な感じだ。ぞくぞくしますよ。今も忘れないですよ。あの眼を」
「……わたしも」
「私なんか全く無視されたし。なにか訳有りですよ」
「望月丈と言ったわ」
ぼんやりと碧川が言った。
「容疑者なんでしょ?」
「容疑者だなんて」
「でも警察は血眼で捜してますよ」
「彼の正体が知りたいの」
「やめときなさいって。もっといい男は星の数ほどいる」
時計がいつの間にか十一時を回っていた。マスターと雑談に耽るうち遅くなったのだ。
「くれぐれも気をつけて帰ってくださいよ」
――マスターがそう言った。
カクテルで顔が火照っていた。海岸沿いを駅に向かって歩く。心地の良い酔い加減がまだ碧川の身体に残っていた。
店を出て数百メートル程歩いた頃だった。碧川の目の前を突然黒い影が横切った。ただならぬ気配を全身に感じた。知らぬ間に鳥肌がたっていた。何か熱いものが碧川の身を貫き通した。慌ててよろめきそうになった上体を立て直して、目を凝らすとそこに青年が立っていた。
碧川の眼の前だ。一瞬の出来事だった。
紛れもなくそれは望月丈だった。黒いジーンズに薄手の皮のジャケットだ。鼓動が急に早くなった。碧川は心臓を鷲掴みにされたような顔をしていた。
「また会えましたねえ」
望月丈が低い声でそういった。
「……」
しばらく言葉が出てこなかった。
「ここに来れば俺にまた会えると思ったのですか?」
「そんなんじゃ。ありませんわ」
碧川が眼をわざとそらせた。
「俺は君に会えるかもしれないと思って此処に来た」
「あなたはいったい誰なの。警察があなたを捜してる」
「警察かい。奴らが俺は大嫌いだよ」
「ねえ。話を聞かせて」
「こんな夜更けにかい?」
「かまわないわ。わたしタクシーで帰るから」
「君に聞かせる事なんて何もないさ」
「あの二人の男を殺したのはなんなの! あなたなの。別のものなの。あなたはあの時何処へ消えたの。逃げたの?」
矢継ぎ早に碧川の口から質問が飛び出した。大きく肩で息をつく。好奇心と興味で碧川の瞳が輝いていた。
「あなたの事が知りたいのよ」
「それは好意と受け取っていいのかい」
話をそらすように望月がそう言った。
「……」
不意に望月が悲しそうな眼をした。深海のような暗く深い瞳の色だ。
「今は何も言えないな」
「どういう意味」
「俺はただ、ここにあなたが来るような気がしたのさ。だから来てみた」
「そして風のように現れた」
「風……」
「警察に言って何もかも話しましょう。あなたは疑われてる。あの時あなたも獣に襲われそうになったんでしょう。だから逃げた」
「……」
「そうなんでしょ。あたただって被害者なんでしょ」
「そうじゃない」
望月の言葉は重く哀愁さえおびていた。
「そうじゃなければ…… どうなの?」
望月が急に寡黙になって碧川に背を向けた。夜空を見上げている。碧川には青年が悲しみを背負っているように見えた。何かに苦しんでそれを言葉にさえ出せないように思えた。
碧川がなにかに思い当たったような顔をした。そして青年の背中に向けて静かに噛み締めるように言った。
「――あなたが獣なのね」
碧川の眼の奥に言い知れぬ憂いが浮かんでいた。静寂は深くただ波の打ち寄せる音だけが岸辺に聞こえていた。青年が振り返ったが何も話さなかった。
「このまま行ってしまうの……」
碧川が悲し気に言った。その時望月が急に碧川に歩み寄った。そして碧川の腰に両腕をまわし強く引き寄せた。必死に碧川が抵抗したが力が及ばなかった。青年の肉厚な唇が碧川の唇に重なった。碧川の全身に電流が走った。瞬時の事だった。
「悪かった。あなたと一度だけキスがしたかったんだ」
望月が俯いて言った。
「どういうつもりなの」
呆然として碧川が言った。
「俺とあなたとじゃ住む世界が違いすぎる。さよなら。二度と現れないから心配するな」
その言葉が終わらないうちに望月の姿は闇に紛れた。忽然とその場から掻き消えたのだ。碧川がうろたえてその場に膝を付いた。
眼に涙がたまり砂の上にぽとりと落ちた。夢を見たのだろうか。それとも幻想だったのだろうか。しかし青年の身体の感触が今もこの胸に残っている。
――碧川は深い溜め息をついて涙を拭った。
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