――外はすっかり夜の帳がおりていた。怪しい月光が外界を蒼白く染めあげていた。黒川精神療養院が古城のようなシルエットで浮かび上がっている。この世から幽閉された地下室は依然として異空間の様相を呈していた。


 ――地下での黒川仁の話は続く。


「この少年の遺体は今も腐らない。防腐剤を使用しているのでもなければ、内臓を取り出してしまった訳でもない。それどころか解剖された形跡さえないんじゃ。まったく驚いたよ。少年は自らの体を再生している」

 

 黒川は禿げ上がった額の汗をハンカチで拭いながら言った。


「良く調べてみると、この少年の身体の細胞組織は破壊されていないのだ。生きているようなのだ。だから腐敗する兆候さえないのじゃ」


「どういう事です?」


「言っただろ、死んでいないと言う事じゃ」


「まさか、生き返るのですか?」

 

 林崎が眼を輝かせていった。


「わからない。もうずっとこの状態じゃ。仮死状態じゃよ」


「どうするのです?」


「少し様子を見ようと思っている。林崎君。君にも協力して欲しいんじゃよ」

 

 黒川が数枚の書類を机の引き出しから取り出して林崎に渡した。


「見たまえ。林崎君。それは少年の司法解剖鑑定書だ。わしが警視庁のある人物からコピーを入手したのだが、少年の死因は眉間に銃弾が撃ち込まれた事による。弾は頭部を貫通して体内には残っていないがトカレフ弾らしい。まあそんな事はどうでもいい。肝心なのはこの少年が無傷だという事だ。わしは脅威を感じるよ。今現在死体には何の損傷も無い。自然に修復されているのだ」

 

 林崎が書類に眼を通した。怪訝けげんな顔をして生唾を飲みこんだ。


「こんなばかな事って……。訳がわかりません」

 

 林崎が呟くように言った。


「訳が分からん。だから、その訳を調べようじゃないか。人類の為にこの少年の不死性の研究をしようじゃないか。協力して欲しい。今はこれを秘密にして一緒に不死身の研究をしよう。我々は偉大な不死の発見者になる。不死身の創造者になるのだ」


「黒川先生。これは公表すべきだ。あなたのやった事は犯罪ですよ。このことを公に発表して、しかるべき筋に研究を依頼すべきだ」

 

 それを聞いた黒川の様子が変わった。表情がみるみる醜悪になっていく。


「犯罪だって……。林崎君ふざけた事を言うな。わしはこの少年の不死身性を調べて、人類を救済しようとしているのだよ。ロボトミーの実験だって人類の未来を思えばこその実験だったんだ。それを無知蒙昧なばか医者どもが、よってたかって偉大なウォルター・フリーマンを非難したのじゃ!」

 

 林崎は唖然として黒川の顔をただ見つめた。


「とにかく、この少年はわしの物じゃ。誰にも渡さない」

 

 言い切った黒川の眼差しはなんとも不気味な狂気が混ざっていた……。


「とにかく黒川先生。東の死体はここに置くべきでない」

 

 林崎の中で黒川に対する信頼・尊敬、そういったものが脆く壊れ始めていた。林崎の前に立っているのは、あのかつて憧れた黒川仁ではない。少年の死体を異様な眼で観察するマッドサイエンティストだった。


「黒川先生。すべてを警察に話しましょう。少年の不死性の事を話せば警察だって、なまじ、あなたの罪を追及しないかもしれない。この事象は個人レベルで研究することじゃない。世界に公表して世界の研究者達と併せて研究すべきだ」


 息もつかないで林崎が言った。


「林崎君。君は耳が悪いのかね。この少年は私の物だと言ったはずだ。私が研究する。いずれは世間に公表する日が来るだろうが、その時はわしが世間に認められるときじゃ。偉大なる研究者としてな」


「許されない。黒川先生。あなたのやろうとしている事は犯罪に等しい」

 

 林崎の言葉に黒川が苦虫を噛み潰したような顔をした。


「残念だよ林崎君。どうやら君にこの事を話したこと事態わしの間違いだったかも知れん。わしと君とでは話が噛み合わんらしい。残念だ。わしの本の殆どを読破してくれた君だから協力してくれると思った。それに君はこの少年の担任じゃないか。詳しくこの少年について聞きたかった。仕方がない。君には強制的にわしの協力者になってもらうよ」


「強制的にって。先生、僕はあなたに協力する気なんてありませんよ!」

 

 黒川の眼の奥に得体の知れぬ炎が燃え上がった。まるで何かに取り憑かれたような鬼気迫る黒川の表情だ。黒川は黙ったまま数歩後ろに後退した。部屋の奥の暗闇にもう一つ扉があった。頑丈そうな鉄の扉だ。部屋に似合わない金庫室のような分厚い扉だ。重そうに黒川が体重をかけて扉を開くと、更に下に続く狭い階段が見える。下は暗闇で地底の国への入り口のようだった。


元治げんじ。出てきてくれ。元治! お前に用がある」

 

 黒川が険悪な表情のまま張り詰めた声を出した。林崎はただ呆然として地底の暗闇を見つめていた……。


 地底から何かが聞こえてきた。黒川の呼び掛けに反応し答える声だ。


「オウゥゥゥゥ」

 

 という低い喘ぎ声のようだった。

 

 地の底に通じる階段の板が軋んで、ぎしっ、ぎしっという音がした。その音が段々大きくなる。何者かが階段を上がってくるのだ。


「オウゥゥゥ〜ウ」

 

 その声は獣の発作的な叫び声に聞こえた。その声は更に大きくなり、一瞬耳を塞ぎたくなるほどの怪異な呻き声になった。かび臭い異臭が辺りに充満した。


 まるで魔法陣の五角形の中に地獄から魔物が復活したようだった。プロレスラー並みの岩のような巨体をしていた。その巨体に異様に肥大した筋肉が隆々としてしなっていた。怪物の片眼は半分潰れていた。

 鼻が異様にひしゃげていた。呼吸の度にスウスウと奇怪な呼吸音が響いていた。擦り切れた半袖のTシャツと薄汚れた灰色の作業ズボンをはいていた。辺りを見回す眼つきは不気味だったが、一抹の哀れさの様なものが身体全体にまとわり付いていた。

 黒川の眼に不吉な笑いが貼りついていた。林崎は悪霊に憑依されたように動けなくなった。脚がすくんだのだ。


「元治。この人が私達を警察に訴えるというのだよ。どうしよう。この人は悪い人だ。意地悪な人だ」

 

 黒川が猫撫で声でジェスチャーまで交えて元治という怪物に言った。元治の身体が小刻みに痙攣した。途端に元治が激昂の表情をあらわにした。大きすぎる片目が林崎を睨みつけた。


「オウゥゥ〜ゥ」

 

 人間の声ではない。牛でもゴリラでも虎でもない。悲鳴のような嫌忌で胸が悪くなるような声だ。歯が抜け落ちて、なかば開いたままの口からよだれしたたる。


「黒川先生。一体何ですか! これは何者なんですか!」

 

 戦慄と悪寒が林崎の全身に走った。恐怖のあまり林崎は後ずさりした。元治の太い腕が意外な速さで林崎を拘束した。林崎を後ろから抱きかかえる格好だ。


「おい、そこの君! 見ていないでなんとかしたらどうだ」

 

 林崎が斉田青年にむけて大声を出した。しかし青年は殆ど表情もなく蝋人形のようにそこに立っていた。中年の看護師は何とも得体のしれない笑みを浮かべていた。


「やめろ、何をする、この化け物!放せ」

 

 林崎がもがいたがその太い腕は微動だもしなかった。羽交い絞めである。


「黒川先生。気でも違ったのですか。放してください!」

 

 苦しそうな林崎の叫びに黒川は平然としていた。林崎が興奮して真っ赤な顔になった。


「林崎君。どうやらわしらは意見が衝突して噛み合わないらしい」


「放せ! 黒川先生。速く僕を放すんだ」

 

 怪物の涎が林崎の肩の辺りに垂れた。


「くそっ。この怪物を何とかしろ。僕をどうするんだ」

 

 悲痛な声を林崎があげた。振り切ろうとしても無駄だった。黒川が計器類の林立するデスクの引き出しから、直径1センチ程の金属片を取り出した。そして薄気味笑いを浮かべた。


「これは精神感応誘導装置だ。解りやすく言えば超小型マインドコントローラだよ。これでおとなしくなってもらう。従順且つ、優秀なわしの助手になってもらう。これを君の脳に埋め込むんだよ。そうすると君は神の声を聞く事になる。君の絶対なる支配者の声だよ!」


 林崎の顔が引きつっていた。


「神とはわしだよ。林崎君。この怪物もわしを神だとおもっておるのじゃ!」

 

 黒川が醜悪な笑い声をあげた。


「眠らせろ!」

 

 黒川が助手の斉田青年に命令した。


「やめろ!黒川」

 

 青年の手際は早かった。必死の抵抗も虚しく注射針が林崎の腕に食い込んだ。


「オウゥゥーゥン」

 

 怪物の雄叫びが林崎の頭の中を何度も繰り返して響き渡った。意識がしだいに薄らいで行きふっと全身の力が抜けた。


「東……」

 

 林崎がそう囁くような声で言って床に倒れこんだ。完全に意識を失っていた……。



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