――雲低く垂れ込めた夕暮れの近づく頃だった。

 

 一台のセダンが、うねった急カーブにタイヤを軋ませながら走っていた。グレーのボンネットが鈍い光沢を放っている。ハンドルを握る林崎真司はやしざきしんじの額に小さな汗の粒が幾つも光っていた。

 林崎は今年で三十二歳になる高倫学園の理科の教師だ。生物科学に造詣がある教師の割には体格がいい。探究心のある一途な性格の彼は碧川貴子と学園でよく顔を合わす間柄だった。


 カーブを抜けて車が長い上り坂に差し掛かると、大きく堅牢な建物が視界にはいってくる。街外れのひっそりとした場所に黒川精神療養院はあった。隔離病棟のある精神病院なのだが、名の響きをおもんぱかって精神療養院としたのだろう。

 周りを丈高い城壁のような塀に囲まれた閉鎖的な雰囲気の漂う建物だ。地上五階建ての蔦の絡まったコンクリートの壁は所々にひびが入り、地面から側壁にかけて薄っすらと苔が生え、深い緑色をしていた。


 ハンドルを右に大きく切ると林崎は駐車場の一番奥の駐車スペースに車を滑り込ませた。鬱蒼とした林の木々で車が半分隠れる場所だ。

 バタンと車のドアの閉まる音がした。林崎は車を降りると何回か周りを確かめるようにして、陽の当たらない病院の裏口に回った。辺りは湿度が異様に高い。

 ノブが硬くて回すのに力を要したが、ぎりっという嫌な音をたてて重いドアを開けると、薄暗い踊り場があり、すぐ右手に地下に続く階段があった。蛍光灯の蒼白い光が細かく点滅している。

 

 まるでホラー映画のワンシーンを連想させるようだった。林崎が早足で階段を下ると途中で色白の看護師の女とすれ違った。軽く会釈をする。

 やがて地下の狭い廊下に出た。林崎は右から三番目の部屋のドアを叩いた。反応がないのでもう一度叩いた。ドアの向こうに人の気配がした。だが林崎は開くのが待ちきれずノブを引っ張った。鍵が掛かっている。

 ドアの小さな覗き窓から誰かがこちらの様子を確かめ、ドアが半開きになった。林崎が身体を斜にしてドアの内側に滑るように入った。

 そこは別世界にでもタイムスリップしたような異様な空間だった。過去に重度の精神疾患者を治療した部屋である。おぞましい記憶が壁に滲みついているように感じられる。低い天井にむき出しのパイプが何本も飛び出していた。

 そのパイプに銀色の笠を被せたスポットライトが幾つも付いていた。中央に手術台を思わせるベッドがあり、周りに心電計・測定器等の計器類がところ狭しと立ち並んでいた。


 そのベッドの上に少年が横たわっていた。細長いシングルベッドの上だ。少年は端正な顔立ちをしていた。しかし顔はやつれていて生気を全く感じさせなかった。白いシーツが素肌に掛けられていて、シーツの下の少年が裸である事が容易に想像できた。顔は土気色をしていた。

 その身体からは呼吸も脈拍さえ感じられず、動かない。どう見てもそれは少年の死体であった。林崎の眼が飛び出さんばかりに見開かれた。

 言葉さえ出せないほどの衝撃を受けた様子の林崎は、少年のベッドの方に踏み出してがっくりと両膝をついた。

 黒川院長と助手の暗い感じの青年と中年女性の看護師が側に立っていた。三人とも白衣だ。少年を見下ろしていた院長の鋭い視線が林崎に注がれた。

 院長の黒川は禿げ上がった広い額をしていて痩せていて中背だ。尖った顎を持ち、絶えず機嫌の悪そうな眼に銀縁の眼鏡を乗せていた。どう見ても人が好感を持ちそうな顔つきではない。

 林崎は暫らく放心状態だったがゆっくりと起き上がるとようやくの思いで言葉を組み立て始めた。


「こ、これは東。どうみても東道夫じゃありませんか。どうしてここに……。どうして。ああ、恐ろしい。あなたは死体を盗んだのですか。えっ、死体を……」


「盗んだ? 人聞きの悪い事を言わんでくれ。これは人類への貢献だよ」

 

 黒川の声は冷静だった。黒川仁くろかわひとしは脳神経外科専門医の経歴を持つ男だ。以前、といってもだいぶ昔だがロボトミーの研究に専念し最終的には医学会から追放処分になった男である。

 悪名高いロボトミーとは現在では禁止されているものの、以前に精神外科の分野でウォルター・フリーマン医師が行った、精神的疾患を抱えた患者に施された原始的な手術の事を指す。

 前頭前野と深部の大脳基底部との繋がりを切断する事で患者の治療を可能とした。が、様々な問題をはらみ、度重なる臨床実験の結果数多くの人格破壊者と死者を出している。八十年以上も前の話であるが、現在では機能的神経外科という分野で個別に研究、展開されている。

 だが黒川のおこなった実験はロボトミーの範疇はんちゅうを大きく超えていた。廃人同様になった人間の脳を切除し、替わりに生きたままの猿や大型捕食獣の脳を移植して野生人間をつくろうと企てたのである。

 黒川は実は動物の方が人間よりある意味、優れているという、実に奇妙な理論を唱える男だった。

 地下深く秘密裏に行われたそのばかげた実験は、助手達の密告によって明るみに出てしまった。そして即刻中止となり犯罪性が追求された。医道審議会の審査まで受けたのだが、黒川はその資産力で有能な弁護士を何人も雇い、その他の策略の末、辛くも医師免許剥奪までは行われなかった。

 現在はここ東京の多摩にある黒川精神療養院の院長として勤務している。


 林崎は在学中、何回か黒川の講義を聞いた事があり、その流暢で説得力のある弁舌に魅了され、感銘を受けた一人だった。黒川の著書である『動物たちの秘密』は生物科学をテーマに書かれたものだったが、切り口が斬新で林崎の愛読書であり、彼は黒川のその動物敬拝主義とでも呼ぶべきものの賛同者の一人だった。



「説明してください。黒川先生。なぜ東君の遺体がここにあるのです? いったいどういう事なのですかこれは」


「これは正確に言うと遺体ではないのだ」


「増々わからない。秘密で僕に是非見せたいものとはこれだったのですか?」

 

 林崎の口調はかなり感情的だった。いつも温厚な彼が別人のようになっていた。更に語調が強まる。


「東は一週間も行方不明だった。捜査願いが出された矢先、死体で発見されたんじゃありませんか! いったいこれはどうなってるんです?」


「この少年は死んではない」


 黒川がぼそっと言った。林崎に困惑の表情が湧き上がった。


「な、なんですって?!」


「この少年はわしが保護しているんだ」


「保護?」


「まあ。聞け、林崎。飯田真奈を知っとるね」


 黒川が林崎の顔を覗きこんだ。


「飯田真奈。うちの生徒のですか?」


「そうとも。彼女は何かと問題のある女子生徒らしいが、少しお小遣いをやったら少年の事を親切に教えてくれた。だいぶ以前だが、半グレ集団に瀕死の重傷を負わされたこの少年がそのわずか三日後に、その傷を負わした半グレ達を完膚なきまで痛めつけた。という話だ。信じられん話だが調べてみるとそうでもないんじゃ」


「――そんな話は嘘だ。黒川先生、あり得ませんよ」


「わしは学園にこの斉田さいだを行かせた。そして調べさせたんだ。わしは少年の事が気になって仕方がなかったんじゃ。紹介するよ。助手の斉田君だ」

 

 黒川が横にいる白衣の青年を林崎に紹介した。青年が軽く会釈する。青年は黒川より顔半分位背が高かった。中肉中背でやや髪が長い。表情は暗く、なにか思いつめたような眼をしていた。


「そして斉田は少年のことを良く知る飯田真奈に驚くべきことを聞かされたんじゃ。少年が不死身だと言うことだ。そうだな斉田」


 斉田青年が黙って頷いた。


「なんでも飯田真奈の話だと、少年は生意気だという理由で半グレ達に重症を負わされ、海に投げ込まれたが死ななかったと言うんじゃ。数日後に復活して半グレ達はやられたそうじゃ」


「そんなばかな。飯田がそんなでたらめを言ったのですか!」

 

 林崎の顔面は紅潮していた。


「でたらめじゃありませんよ」

 

 斉田青年が陰気な声を出した。


「彼女の眼は真剣そのものでした。恐怖が眼の奥に貼り付いていたのです」


「わしは並々ならぬ興味を少年に持った。わしはそういうことに事のほか興味がある。そして少年に会いたいと思っていた矢先。少年の死体が発見されたと言う事を知らされた。報道番組でな。だが飯田真奈の話によれば少年は死んでいないと言う。時間さえあれば少年が生き返ると言うのだ。だから……」


「――だからって。まさか」


 ――林崎の目が細まった。



 黒川仁の話には嘘が混じっている。実際にはこうだ。


 飯田真奈の話で少年の不死性を確かめたくなった黒川は、自ら作り上げた強化人間を使って少年を誘拐し研究施設に監禁した。そして少年に不死の人体実験を試みていたのだった。

 後、少年が耐え切れずに脱走したところを射殺したのは他ならぬ黒川自身だ。

 

 黒川は恐怖で少年を射殺した時、その後の始末を冷静に考えていた。このまま少年を連れ帰ってしまうより、少年の死を世間に公表してしまったほうが逆に怪しまれずに済むと考えたのだ。

 少年の不死を信じる黒川は少年の遺体を死体安置所から密かに持ち出し、精巧なレプリカとすり替え、研究施設のベッドに寝かしつけてしまったのだ。その事からも黒川という男の異常性は明白なものだ。

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