――一年前の冬。


 冷たい雪交じりの雨が少年の視界を阻んでいた。あたりは暗いし、血でも混ざっていそうな涙が頬を伝って落ちて行く。少年は死にもの狂いで全力疾走していた。なのに手にも足にももう力が入らない。体力の限界ってやつが近づいている。追われているのだ。得体のしれぬやつらに。


 黒ずんだ重い液体が内臓に這うようで気分は最悪だ。戦慄が何度も胸の中を突き抜ける。だけど同時に異様な恍惚感が脳内に湧き上がった。

 それと並行して記憶の彼方に浮かび上がる青い蝶。いったいそれが何なのか少年自身でさえ分からない。現実と非現実の境が霞んでいる。


 何かに追われている。そいつらは姿こそ人間に近いがスチール製の四肢を持ち、表情のないライフルスコープみたいな目で少年をとらえている。とにかく今は逃げなけりゃならない。不吉な予兆が神経を痺れさせて脳内は薬中患者みたいだ。


 が、次の瞬間、少年は顔面をフェンス状の金属にしたたかに打ち付けた。闇雲の疾走による前方不注意に違いなかった。


 額からの流血は一流プロレスラー並みだった。少年の身体がぼろ屑みたいにフェンスに絡みついた。腰からずり落ちた少年は追うものと対峙せざるを得なかった。


 少年はグレーの囚人服のようなものを着ていたが、あちこちが破れ、擦り切れていた。おまけに身体中傷だらけだ。外灯が色白で端正な少年の顔立ちをくっきりと映し出していた。


 追うものは少年の異変をすぐに察知した。その証拠に滑走するような走行を止め、ゆっくりと歩いてきたからだ。それは二体の強化人間だった。機械と人間の合成怪物と述べておこう。全体は黒く艶やかな光沢がある。身長は180センチ位だが地面に足跡が深く刻まれているところを見ると、とんでもない重量がありそうだ。


 強化人間は少年を発見すると、その剛力でやすやすと少年をフェンスから引きはがした。そして少年を強制連行でもするように両サイドから少年の両腕を拘束した。


 少年はしばらく項垂れていたが、白衣を着た壮年の男がその場に現れた時、顔を上げて不機嫌な表情でその男を見やった。


ひがし君、どうして逃げるんだ? 君は人類の希望なんだよ。私の宝物でもある」


 白衣の男がそう呼びかけたが、少年からの返事はなかった。


「さあ、帰るんだ。東君」


 壮年の男がそう言うと強化人間は少年を拘束したまま引き返すように歩き始めた。

 だが、少年はその言葉に不服があるように唇を一文字に引き結んだ。


 少年の瞳に青白い炎が燃え立つようだった。いや、瞳だけではない。少年の全身がオーラみたいな青い光に包まれ始め、その身が異形のものに変異しようとしていた。


 少年は内部から沸き上がる高圧エネルギーに苦闘するようだった。それはせきを切ったように外側に表出した。そして自分に圧し掛かる鋼鉄の腕を身をうねらせて吹き飛ばした。目を疑うような光景だった。ひ弱にしか見えぬ少年が強化人間の鋼鉄の身体を引きちぎって、空中に放り出した。


 白衣の男は既に顔面蒼白で腰が抜けたようにその場に座り込んでいた。形勢の逆転は火を見るよりも明らかだった。


「す、凄い。東君、君の力は計り知れない」


 男がそう言ったが少年の瞳の炎は依然として燃え上がっていた。


「落ち着いて、東君。わしは君の味方だよ」


 つくり笑いを浮かべて男は懐の銃を密かに引き抜いていた。少年の顔は赤黒い鮮血に彩られていた。そして息は荒く異様なものに変容していた。


 少年の背後に守護神のように鮮やかな青い蝶の輪郭が浮かび上がっていた。


 少年が一歩男に近づいた時、男はその恐怖に耐えきれなくなった。パーンという音がした。至近距離での発砲は少年の眉間を容赦なく打ち抜いた。血しぶきが上がり、男は返り血を浴びた。少年は声もなく天空を仰ぎ見てその場に倒れた。



 ◇  ◇



 一人暮らしのマンションの一室で、碧川貴子はカーテン越しにぼんやりと夜空を眺めていた。明日からは高倫学園高校にてカウンセラーの仕事が再開するのだ。学園側も事のほか碧川を気遣い、湾岸の一件で二週間の静養期間を与えてくれた。


 なぜがあの場所に行ったのかは学園側も追求はしなかったが、碧川には学園の教師達が今度の事を好ましく思っていないだろうという察しはついていた。

 それにしてもこの心の中の空洞はなんだろう……。 改めて碧川はそう思った。 


 東道夫という少年の死は碧川の心に大きな衝撃を与えた。碧川貴子はカウンセラーという職業柄、登校拒否をしている少年の家を定期的に訪問するのが業務だった。


 だがそれだけでは割り切れぬ少年への興味が彼女をつき動かしていた。少年が死体で発見された時の衝撃が今でも心に突き刺さっている。


 東道夫という名の十五歳の少年の人に懐つかぬ孤独な目は、碧川の心に鮮烈な記憶となって残って離れなかった。でもそれは気の済むまで泣いて、決着を着けたはずの過去の夢なのだ。




 中天に月が貼り付いていた。あの時湾岸で見た満月が、今はだいぶ欠けて下弦の月となって光っていた。

 

 ――月の中に青年の面影が浮かんだ。心がきゅっと何かに摑まれた。

 

 碧川は自分の心と真剣に向かい合った。あの青年の眼が忘れられない。孤独をはらんで何かを求めるような。あの寂しそうな眼が…。

 

 あの青年には人を寄せつけぬ鋭い孤独がある。青年には特別な過去がきっとあるのだ。そうだ。その過去のなにかを払拭する為にあの超然としたポーズが生まれたのだ。自分はカウンセラーという職業柄、人の心の内幕が容易に察知できるのだ。いやあの青年に限って察知してみたいのだ。


 ――碧川はそう思った。

 

 言葉に言い尽くせぬ慕情が碧川の胸に込み上げてきた。そこで碧川ははっきりと思い当たった。青年の眼差しが東道夫のあの眼差しに重なったのだ。かつて愛しいと思った少年の面影を知らずの内に青年に重ねていたのだ。

(わたしは… もう一度あの人に会いたい)

 碧川貴子は心の中でそう呟いた。


(最初は少し変な人だと思ったけれど、あの人はあの二人組みを前にしても動じなかった。わたしを守ろうとしてくれたのだ)

 

 碧川は少女の頃から陰のある男に惹かれてしまう性分なのだ。湾岸の出来事が再び脳裏を掠めた。


(でもあの黒い獣はなんだったのだろう… あの獣があの二人を噛み殺したのなら、刑事が言ったように、なぜわたしは助かったのだろう。そして青年は何処に消えたのだろう)

 

 回想するうちに、とんでもない考えが碧川の心に浮かんできた。


(まさか望月という青年がが獣に…)

 

 しかしその考えはすぐに否定された。有り得ないと思った。碧川の顔が引き締まって見えた。カーテンを引き冷蔵庫からワインを取り出した。

 

 グラスに注ぎ口をつけて溜め息をつく。――いつまでも青年の陰のある横顔が碧川の心に浮かんで消えなかった。


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