気だるい午後だった。このところ東京は曇りの日ばかりが続いていた。


 ―女子校生連続殺人事件捜査本部― 仰々しくこう書かれた板看板を横目で眺めて碧川貴子がこの殺風景な部屋に入室して数分と経っていない。ここは成城警察署の一室。

 あまり上等とは言えない机を挟んで、碧川と肥満気味の中年の刑事が椅子に座っていた。

 その後方にまだ三十代前後の若い痩身の刑事がブラインドを背にして立っている。薄暗い部屋に刑事の吸う煙草の煙が揺らいでいた。碧川は清潔感のある紺のブラウスを着ていた。


「大変な思いをされましたねえ。体調の方はどうですか? 私は五十嵐と言います。そちらが近藤です」

 

 五十嵐と言う刑事が低い声でそう言った。あまり好感の持てる喋り方ではない。オールバックの髪形に油が光っていた。近藤と紹介された刑事は神経質そうな背の高い刑事だった。碧川の方を一瞥したり、視線を逸らせたりしている。


 机の上にノートが広げられ、そのノートの上に五十嵐刑事の太い腕が置かれていた。


「家で静養中のところをわざわざこうしてご足労願いまして感謝しております。事件が事件だけにどうか捜査にご協力ください」


「わかりました。知りうる事はなんでもお話致しますわ」


 碧川が伏し目がちにあまり元気のない声をだした。


「あの時、湾岸で二人の男が殺されました。指名手配中の凶悪犯でした」

 

 五十嵐がそう言った。


「……」


 あの時の恐怖が碧川の胸に去来する。つい二日前の事だ。ずきんと心が痛んだ。あの時から望月と名乗った青年が碧川の脳裏から離れなかった。青年の安否がずっと気になっていた。


 一種独特の孤高な眼差し。野性味のある横顔。事実昨日も青年が碧川の夢の中に登場したばかりなのだ。青年が気になる。もっと青年の事が知りたい。そういう気持ちで碧川はこの席に座っていた。


「もうご存知のように、成城の住宅地で女子高生が二人も殺されました。いずれも残忍な殺され方です。そして残念ながらまだ未解決です。一人目の犠牲者はまだ十六歳の公立高校の女生徒でした。自宅の庭先で何者かに教われました。午後十一時頃のことです。そしてその約三十分後に第二の犠牲者が出た。やはり女高生だ。年齢は十七歳。コンビニに買い物に行ったところ、その帰り道に人気の無い空き地で何かに襲われた」


 五十嵐が溜め息交じりに言った。


「ええ知っています。恐ろしい事件ですわ。何者が襲ったのかも分からないらしいですね。居ても立ってもいられない気分です。一刻も早く犯人を検挙して欲しいです。で、あの青年はどうなったのでしょう? 酷い傷を負っているはずです」


 碧川に苛立ちの表情が現れた。


「青年? その青年が誰なのか、どこへ行ったか皆目分からない」


「……」


「碧川さん。ご心配でしょうねえ。成城にはあなたの勤務する高倫学園の生徒達だって住んでいるんでしょう。次の犠牲者があなたの学園の生徒でないという保証はない」


「そうです。だからそれを防ぐのが警察の役目じゃないのですか」


 碧川が不服そうな顔をした。一瞬きつい眼を刑事に向けた。


「いや。言い方が悪かったかもしれない。勿論そうはならない。今あの辺りは特別警戒態勢が引いてあります。大勢の警察官と訓練された警察犬を出していますよ」


「しかし。その事件と湾岸での一件とどんな関係があるのですか?」


 碧川が不思議そうな顔をした。大体自分が警察に呼ばれるのであれば芝浦の管轄署であろうと思っていたからだった。


「殺され方がそっくり同じなんです」


 ブラインドを背にして近藤という刑事が出し抜けにそう言った。


「殺され方ですか」


「あなたが湾岸で事件に巻き込まれた同日に成城の事件は起こった。あの二人組みも女高生も鋭い牙で喉笛を噛み切られている。女子高生は残酷にも内臓まで喰われてた。ひでーもんだ」


「おいっ。近藤」


 五十嵐刑事が近藤をたしなめるように言ったが碧川は顔をしかめた。


「牙で? ですか」


「そうです。少女の首にもあの指名手配の男の首にも動物の歯型が残っていた。あなたは湾岸の倉庫街で早朝倒れているところを、偶然そこに通りかかった倉庫係に発見された。意識がないので救急者で病院に運ばれた」


「はい。そうです。おっしゃる通りですわ」


「あなたは救急車の中で ―獣を見た― とおっしゃったそうじゃないですか。その辺を詳しく話してくださいよ」


 近藤刑事の喋り方には抑揚がなく事務的だった。碧川の顔色は冴えなかった。まるで強制的に事情聴取されているようで気が乗らない。


「湾岸でも成城でも現場に太い黒い毛が落ちていたんですよ。どう見ても人間のものじゃない。それに大量の唾液。早速科捜研に回して調べてもらったんですが。それがね」


「……」


 碧川が興味を示した。好奇心を刺激されたような顔をしていた。


「多分、猫科の猛獣だと言うんです。虎とかライオンのね。それで今度は猫科の猛獣のいる動物園まで出かけましたよ。そしてその専属の獣医に訊いたのです。そしてそれがたぶん豹の毛だと突き止めたのです。それも黒豹だ」


「まさか。豹が動物園から逃げたのですか?」


「そんなわけは無い。あの近所に黒豹がいる動物園などないのです。それにもしどこか離れた動物園から逃げたとしても、それだけで大騒ぎになっちまう。人を襲う前に射殺されるのが落ちだ」


「でも深夜で誰も気づかなかったとしたら、誰かが故意に逃がしたとしたら……」


「しかし黒豹が逃げたなどと言う報告なんて未だにどこからもないですよ」


「……」


「だからこそあなたが獣を見た。という発言は非常に興味深いんです。あなたは湾岸の倉庫街で獣を見たのですか?」

 

  碧川が眼を閉じた。大きく深呼吸をする。まるで自分の深い部分の記憶を辿るようだった。


「あの晩あなたは望月と名乗る青年と一緒でしたね。ワンガンという名のバーのマスターが証言しています。その後何があったんです?」


「あの晩。二人で倉庫街に差し掛かると、あの指名手配の二人組みが現れました。わたし新聞はよく見る方なので、あの二人の顔を見てすぐにピーンと来ました。本当に恐かったです。どうしようと思いました。そしてサングラスをかけた男が青年の後ろからナイフを持って襲い掛かり青年の背中を刺しました。 そしたら……」


「そうしたら……」


「そしたらいつの間にか青年が消えたんです」


「消えた?」


 刑事がぽかんと口を開いた。


「消えたように見えたと言う事でしょうか?」


「ええ。多分…… そして黒くて大きなけものみたいなものを見ました」


「どんな獣です? 豹ですか」


「分かりません。黒い怪物でしたわ。わたし恐くてそのまま意識を失ったらしいのです。そこまでの事しか憶えていません」


「うーん。そこまでですか」


 五十嵐刑事が腕組みをした。


「その望月という青年を事件の鍵を握る重要人物だと見て探しているんですが、見つかりません。警察犬を使っても臭いが海に消えているんです。怪しい青年だ」


 碧川が前に垂れそうになった黒髪に指を入れてかき上げた。


「しかし、その獣はなぜあなたを襲わなかったんでしょうねえ。不思議だ」


 部屋を巡る足を止めて一部始終を聞いていた近藤刑事が質問した。


「さあ、わたしにも分かりません」


 正直な答えだった。近藤はポケットに手を入れて天井を見上げそれ以上喋らなかった。暫らく間があいた。


「いやあ。お疲れでしょう。碧川さん。今日のところはお引き取りください。もし望月を見かけたら御一報ください。お願いします」


 やっと開放された碧川だったが、彼女の顔に色濃く疲労が現れていた……。


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