三.

 青年と大男とが向かい合っている隙に、サングラスの男が碧川の背後に動いた。二人を金輪際逃がすまいとする周到さだ。腰のベルトに括り付けてある刃物をおもむろに抜き出す。刃渡り20センチはあろう月光に不吉に煌めくサバイバルナイフだ。

 

 サングラスのはめた皮手には、どす黒い染みがある。最近立て続けに人を刺したので血の染みが残ったままなのだ。


「てめえ簡単には殺さねえぞ。目玉を抉り出して、てめえが命乞いするまで甚振いたぶってやる。でも最後には死んでもらうがよ」

 

 大男が気違いじみた大声を出した。青年の注意をこちらに向けさせて、後ろからサングラスの男がナイフで致命傷を負わせる気なのだ。二人の阿吽の呼吸だ。


「俺を怒らせると後悔することになる。今のうちに逃げるなら追わない。よく考えろ」

 

 青年の口調はあくまで落ち着いていた。顔は喜怒哀楽と無縁な氷の彫刻だ。

 

 次の瞬間だった。サングラスの男の左手が碧川をつき飛ばし、それと同時に右手のナイフが青年の背中にひらめいた。青年の背中にナイフが深々と突き刺さった。

 

 サングラスに男が気持ちの悪いドヤ顔をした。青年ががっくりと膝をつき、ジャケットの背中から鮮血がどっと噴きだした。青年の穿いたジーンズがみるみる赤黒い血に染まった。致命傷と言ってよかった。

 

 碧川の悲鳴が夜を切り裂く。けれどもそれを聞きつける者はなかった。だが青年の目はサングラスの男を下から鋭く睨んでいた。


「こ、この野郎、くたばりやがれ!」

 

 サングラスが忌々しそうに唇をかんで、今度はナイフの柄の部分で青年の顎のあたりをしたたかに打ち付けた。力任せの一撃だった。鈍い音がして青年が血を吐いてうずくまった。


「だ、だれか、助けてーっ!」


 悲鳴が再び碧川の喉の奥から絞り出された。全身の血が逆流するほどの恐怖で足がすくんでいる。


「こいつはもう終わりだ。だが、ただじゃ殺さねえと言ったろう。なあ相棒」


 サングラスの男が金髪の大男を振りかえってそういった。


 だが、サングラスの男がもう一度視線を青年の方に戻すと、忽然と青年の姿がない。


「や、野郎、どこへ行きやがった?」

 

 大男もハイエナのような目つきで辺りを見渡したが、青年はいない。


「あのざまで逃げられるわけがねえ、ありえねえ」


 訳の分からぬまま、一分程の沈黙がその場を支配した。


「野郎。女を置いて、てめえだけ逃げやがったのか。しかしあの傷じゃ歩けねえはずだ。あり得ねえんだよ!」


 サングラスの男が声を荒らげて叫んだ。


「あいつは何者だ。もう死んでてもおかしくねえんだよ」

 

 大男が悔しそうに、野獣のような眼をぎらつかせて吼えた。青年のいた場所に碧川だけが取り残された。殺風景な路地にチェリーレッドのドレスがなんとも艶やかだ。


 その場にしゃがみ込んで息を潜めている。小刻みに白い肩が震えていた。


「へえ、こいつはいい女だ。まあいいや、オカマ野郎を八つ裂きにできなかったのは悔しいが、今夜はお前の身体でたっぷりと楽しませてもらうぜ… 俺らになぶられた女は大抵発狂して死んじまうがな」

 

 サングラスの男が卑しい笑みを浮かべ、腰ベルトのシースにナイフを収めて、碧川のほっそりとした腕をぐいっと引っ張った。


「さあ。俺らを丁重に接待してもらおうか。お前の身体でな」

 

 サングラスがいやらしい笑みを漏らした。が、次の場面で信じられない出来事が起こった。サングラスの男の身体がその場から消えたのだ。

 いや、一瞬消えたかと思えたが、なにか途方も無い力がサングラスの男の身体をその場から運び去った。

 

 あえて例えるのなら大型ショベルカーに摘まれて、別の場所に放り出されたような格好だ。鈍い音がしてサングラスの男の肉魂が倉庫の鉄製の壁に叩きつけられた。

 

 呻くような「ウグエッ」という、声とも叫びともつかないものがした。サングラスの男が倉庫の壁にへばり付いて、ゆっくりと下にずり落ちた。肩の関節が外れ、あばらが数本へし折れている。


 サングラスの男の霞む視界に黒い魔物はその姿を現した。漆黒の体毛を風になびかせ、大きく裂けた口とサーベルのような牙を持っていた。獰猛な猫科の獣だ。

 

 ――それは巨大な黒豹だった。さすがの大男も背筋に悪寒を走らせた。


 サングラスの男は苦痛にのた打ちながらも、四つん這いになったまま腰のナイフを右手で引き抜いた。だが瞬間、黒豹の口がナイフを咥え取って海岸のほうに投げ上げた。ナイフが空中に消えて着地の音さえしない。

 黒豹はその鋭い牙を無造作にサングラスの男の首筋に埋め込んだ。

 

 ゆっくりと黒豹の頭が下から上に持ち上げられ、大男の顔あたりに焦点が合わされた。黒豹は開け放しの口から鮮血を垂らして、獲物を追い詰める動作で大男の方に向かう。大男が恐怖に顔を引きつらせながら後ずさったが、後ろを倉庫の冷たい壁に阻まれ背中を壁に押し付けて止まった。  

 

 黒豹が二本足で立ち上がると身の丈2メートルを超えるほどの大きさだ。大男が気でも違ったように金属バットを振り回す。なんども金属バッドが黒豹に的中しているのだが、その鋼のような筋肉はその度に収縮して、全くダメージを受けない。その体は強靭な鉄の鎧だ。

 

 いつの間にか大男は数センチの距離で黒豹の鼻先と対面していた。

 猛獣の臭気が鼻を突く。黒豹の眼がいぶし銀のように光り、豹の大顎が大きく開かれると大男の顔がすっぽり、黒豹の口の中に入ってしまった。


「ウベッ」という悲痛な喘ぎ声と、頭蓋骨のひしゃげる音がした。

 

 大男の頭部の前半分が黒豹の牙によって喰いちぎられたのだ。バットを振り回す手がまだ宙を踊っていて、全身に小刻みな痙攣が走る。血の海の中で大男は壁に張り付いたままついに絶命した。

 

 

 望月丈の心の淵底で暗い炎が燃えたぎっていた。ぬるりとした血の味が望月を獰猛な眼をもつ野獣に変えていた。満身に制御不能な力がみなぎっている。


 大男が息絶えたのを確認すると、黒豹は月光に浮かび上がった黒髪の女に近づいた。碧川はうずくまったまま眠るように意識が無い。牙の生えたその口が白い喉笛を襲おうとして「カシッ!」と音がして宙で歯が噛み合わさった。


 黒豹は野蛮な衝動を堪えたのだ。いやその時、野獣の中を望月丈の心が一瞬、ぎったのだ。ぎりっと奥歯に力がこもる。途端に黒豹の心の湖面に波頭が広がった。


「駆けろ、どこまでも駆けろ、力尽きるまで駆けろ!」

 

 黒豹の中で望月丈の人間らしい心が叫んでいた。


「この場から去れ、一刻もこの場に居てはならぬ。ただちにこの場から去るのだ!」

 

 黒豹の背中が地面に深く沈み込み、全身のバネが弾けると、強靭な後脚が力強く地面を蹴った。土煙が上がり豹の巨体が重さを失ったかのように月夜を切り裂いて走った。羽のようであり、矢のようだった。電光のようだった。

 

 走った。どこまでも走った。野獣の狂った本能が少しずつ失せていき、望月の人らしい心が取り戻されていく。引き換えに懺悔ざんげと、怨念とが入り混じったような苦渋を飲む想いが望月を襲った。心が張り裂けそうだ。


「なぜだ、なぜだ! いつから俺はこうなった。どうしてだ。どうして!」

 

 繰り返し、強迫観念が胸の内を締め付ける。


「わからない! なぜ俺は獣になったんだ」

 

 心の淵底えんていで暗い記憶が少しづつ呼び覚まされる。


 人物の肖像が心のスクリーンに投影される。ぼやけている。何度もピントを合わせようと試みる。そしてようやく焦点が結ばれた。額の広い壮年の男の顔。


「そうだ! 俺は奴に獣にさせられたんだ。忘れるものか、忘れてたまるか!」

 

 暗闇の中で不気味にほくそ笑む男。その男の名は黒川仁くろかわひとし。食い殺したいと思った。八つ裂きにしても飽き足らないと思った。


「しかし!」

 

 と、また心の声が言った。


「今はだめだ。今奴を殺せば、お前は二度と人間に戻れないかもしれない。野獣を抱えたままお前は狂わずに生きて行けるのか!それならいっそ、死んだ方がましではないか!」

 

 ――満月の中を黒い獣が全力で疾走した。


 その眼光は悲壮で、それでいて力強い迫力に満ちていた……。



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