二.

 湾岸のみちの上空に満月が煌々と照り映えていた。

 時おり気まぐれな雲がその丸い明かりを遮ろうとするが、月光は夜の中の二人の姿をはっきりと映し出していた。野生の眼差しを持つ青年と、白い能面のような横顔を持つ女。


 周りは黒い化石のような倉庫の壁と、松の木が所々に点在していて、このまま歩き続ければ、遠い異国の地にでも行き着くような錯覚を覚えるようだ。

 

 碧川貴子の心は揺らいでいた。このまま青年に手を引かれ遊女のように身を任せてしまいたいという自分と、今にでも青年の手を振り切り、逃げ出してしまいたい自分。どちらとも偽りのない碧川の心情であったろう。


「どこまで行くの? 道が暗いし、なんだかわたし怖い」

 

 碧川が蒼白い頬のままレースをより強く肩に巻きつけて、寒そうにそう呟いた。それを聞いた青年が歩調を緩めて、微かな笑みを顔に湛えた。


「人目のつかない所で、あなたとキスがしたくて」


 臆面もなく青年が言って相手の反応を覗う、碧川がちょっとたじろぐ様に歩みを止めた。


「――わたし、やっぱり帰ります」

 

 青年をまだ知らぬ、頑なな碧川の心がそれを拒んだ。酔いも醒めて辺りは夢の装飾の剥げ落ちた薄気味悪い倉庫街だ。


「帰るって、この時間じゃあ電車もない」

 

 仕方が無いといった表情を青年がした。


「あなたが悪い人とは思えませんけれど、初めてお会いした方とこんな、もっとよくお互いを知った上で……」


「行きずりの出来事さ。野暮なことを言うなよ」

 

 青年は飄々ひょうひょうとしゃべって、碧川の瞳を見つめた。月光が青年の守護神のように光を増して二人を包んでいる。碧川はまるで魔法にかけられたように青年に魅了されていく自分を拒めないでいた。

 

 しばらく沈黙が続くと青年の眼差しが不意に、碧川を離れて、倉庫の立ち並ぶ暗闇に向けられた、赤錆だらけのドラム缶の置いてある真っ暗な路地である。そこに向けて青年は張りのある声を出した。


「いいかげん、そんな所で潜んでいるのはやめないか。何か俺たちに用でもあるのか」

 

 碧川が整理の付かない表情で上背のある青年を見上げ、青年の視線の方向を追いかけた。

 

 すると闇から、ぬっと二人の男が現れた。前に茶色のサファリハットを深々と被ったサングラスの男と、後方には二メーターを超す大男だ。


 その二人は尋常でない雰囲気を身に纏っていた。凶悪で底知れぬ憎悪が顔に滲み出ていた。年の頃なら二人共三十前後であろう。闇から出現した二人と青年とがお互いをはっきり見定めると、サングラスの男がしゃがれた声を出した。


「なんだい。ハードなラブシーンを期待してりゃ、いつまでたっても始まらねえじゃねえか。じれってえな」

 

 そう言うと、サングラスの男は薄い唇をひん曲げて醜怪な笑みをつくった。薄っすらと無精髭を蓄え派手な刺繍のあるジャンパーを着て、皮の手袋をしている。身長は170センチ位だろう。

 

 後方の大男はボディビルダーのような堂々たる体躯をしている。優に二メーターを超えるだろう。黒いTシャツを着て、首元に金のネックレスを何重にも巻きジーパン姿だ。染め上げた金髪。眼に狂気を宿している。手に持った金属バットがこの男の異常性を物語るかのようだ。

 

 碧川貴子は恐怖に捕まって、反射的に青年の後ろに下がった。青年は顔色ひとつ変えていない。


「俺達は見世物じゃないんだぜ。どうしても見たいんなら、高額な見物料でも貰おうじゃないか」

 

 青年が相手をちょっとからかうように言った。


「なにを。とぼけた事を言いやがる。度胸だけはいい野郎だ」


「何か俺達に用でもあるのか。どうしようと言うんだ」


「ちっ。キザ野郎。かっこつけやがって!」

 

 サングラスの男が殺気だった。気の短い粗野な性格が顔に表れている。


「金か。それとも女が目的か」


「両方だ!」

 

 大男が太い声を出した。


「あいにくだが、お前達に何もやる気はない」

 

 青年が顔色一つ変えずにきっぱりと言った。


「うるせえ!この野郎」


「うるさいほど大声は出しちゃいないさ」


「な、なめんなよ。このホスト崩れが。女も財布も俺らが頂く。だがその前にてめえの甘ったれた面をずたずたに切り裂いて、女を二度と抱けないように痛めつけてやる。半身不随のクズ野郎にしてやるよ!」

 

 そう言うサングラスの男の眼がメガネの下で残忍な光を放った。


「この人達、新聞に出ていた二人組みだわ、深夜に人気のない場所に出没して、若いカップルばかりを狙うの… 指名手配中よ。この二人」

 

 畏怖の念を抱いたまま、碧川が青年の後ろから囁くように耳打ちした。


「逃げましょう」

 

 碧川の悲痛な声だ。


「おとなしく帰ったほうがいい。この出来損ないども。カップルへの嫉妬かい? その二人のつらじゃお世辞にも女にはもてそうにもねえ。指名手配されたんじゃ、いずれ捕まっちまうな。自首でもするんだな。多少罪も軽くなるさ」

 

 青年は動じない。何か超越したような野生の息吹を身に纏っている。


「ふざけんな! てめえ。生意気な口ききやがって! 喧嘩に少しは自信があるようだな。面白れえ。そのへらず口が聞けなくなるまでなぶってやるぜ」

 

 大男が凄みのある声で言い、サングラスが拍車をかける。


「こいつは正真正銘の殺人狂だ。総合格闘技の戦士だったんだぜ。相手に手加減出来ないで何人も殺しちまった。凶暴過ぎて格闘技界を追放された奴なんだ」


「それがどうした。てめえの力のコントロールも出来ない低脳野郎ってわけか。そんなバカじゃこの世を生きてはいけないぜ」

 

 青年がゆっくりと言った。大男が憤怒して眼が血走っている。顔面は真っ赤に昂揚していた……。 

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