一.
ラウンジの二階から広い公道に掛けて螺旋階段が伸びている。沿岸に霧がかかりラウンジ自体が海に浮かんでいるように見えた。
碧川貴子はカウンター席に座り、自家製カクテルについてのマスターの熱心な説明を聞いていた。マスターに勧められるままカクテルを飲み干し酔いが回る。初老のマスターをこれだけ饒舌にしているのも、ミス何々と肩書きの付きそうな彼女の美しさによるものと言っても間違いではなかったろう。
磁器のように透き通った白い肌。瑞々しい黒髪。多少気だるそうな大きな瞳。
人懐っこそうな額の禿げ上がったマスターは、オリジナルカクテルを自慢げにカウンターに置いた。水色がかった殆ど透明なカクテルだ。グラスの縁に少量の塩が付いていた。
「これは清酒をベースにしたカクテルですよ。雪国と名付けました」
マスターが微笑んでグラスをカウンターに静かに滑らせた。碧川が含み笑いをしてグラスに口を付けた。
「雪国? 名前はどこかで聞いたことがあるけど、おいしい」
碧川が眼を輝かせるとマスターがウインクして見せた。その日、碧川は久しぶりに女友達に会い夕食をして別れ、この初めての場所に一人で訪れたのである。一人暮らしのワンルームマンションに帰り、一人の少年の死の為に涙を流す自分には、忌々しく腹が立ったし、少年を見す見す死なせてしまった罪悪感と戦うのにも疲れ、うんざりとしていた。
ましてやこのロマンティックな夜に一人膝を抱えて寝てしまう身の上を思うと遣る瀬無かったし、全てを忘れて酔いしれてしまいたかった。そういう危うさを抱えて碧川はこのカウンター席に座っていたのである。
アンティークなジュークボックスから掠れた声の女性ボーカルが流れていた。知らない曲だったがその悲しい響きに碧川は心を惹き付けられた。彼女はチェリーレッドの胸元の開いたショートドレスを着て、しっとりとした花柄のレースを肩から纏っていた。まるで披露宴の帰りのような姿である。
「誰? マスターこの曲、誰の曲… 悲しい歌ね」
カクテルグラスを見つめながら碧川が質問をすると、マスターは肩をすくめ掌を返して、さあ、判らないというジェスチャーをした。指先でグラスをゆっくりと回転させながら碧川が溜め息をついた。
「ジャニス・ジョプリン」
不意を突くその落ち着いた声は一メートルほど離れたカウンター席にいた青年から発せられた。気配すら無く、全く青年は忽然とその席に座っていた。
薄いブルーのワイシャツを素肌に着ていて、その上に濃紺の革のジャケットを羽織っていた。野性味のある鋭い眼光を有している。痩身ではあるが、ひ弱さを一切感じさせない。
「伝説のロッククイーンですよ。27歳の若さでこの世を去った。今流れている曲はサマータイム……」
碧川は夢見るようにその声に反応した。黙って青年を見つめる。
「酒とドラッグの常習者。薬に溺れた彼女は愛に餓えていたんですよ」
そう言う青年の口調は静かだったが妙な迫力を秘めていた。暫らく沈黙がその場を支配してしまったが、碧川が思い返したように口を開いた。
「まあ、お詳しいのね」
いつになくうっとりとしたような一瞥を青年に向け、興味を示した。
「漫画を描くのが得意な少女は、いじめられて育ったんだ」
言い終わらないうちに青年は碧川の傍らにぴったりと座った。マスターに一瞬、嫉妬の表情が浮かんだがすぐ営業笑いをつくった。
「詳しいんだねえ。お客さん。私は酒にかけちゃ少しは知っているつもりだが洋楽の方はどうも苦手で」
「お近づきに一杯おごらせてください」
青年はマスターの言葉を全く無視してそう言うと、ボルドーワインをボトルで注文した。長髪で、首筋にシルバーの太いネックレスを光らせ、甘いマスクでいて精悍さを内に秘めている。筋肉質の腕がボトルを開けグラスにワインが満ちていく、ホスト風でもあるがいやらしさが微塵もない。
碧川はこういう異性に会うのは初めてであり、彼女の興味をそそった。
「初めての方にこんな事をされても困ります。それにもうわたし飲めないし」
碧川が困った顔をした。
「いいんですよ。ここはそういう場所なんです」
自信に満ちたしゃべり方をする青年の瞳にはなにか燃えるようなものが貼りついていた。碧川は知らぬ間に青年に惹かれ始めていく自分の心に驚きゆっくりと微笑みながらワインを口に運んでいた。
「こういう場所にお一人で来たからには、失恋でもしたのですか?」
出し抜けの青年の質問だったがまったく嫌味が無かった。
「失恋もなにも、もう何年も恋なんて無縁でしたわ。そんな風にわたし見えまして?」
碧川は悪びれる様子も無く答えて、前に垂れた黒髪をかき上げて、わざと笑顔をつくった。
「あなたほど美しい方を放っておく男どもの気が知れないな」
青年の眼は神秘的にキラキラ輝いている。
「お世辞でもうれしいです。美しい方なんて」
顔がほんのり赤くなる、酒のせいもあったがそれだけでは無論ない。碧川は美しいという垢抜けない形容詞を何度も使われてきた女性だったが、それでも悪い気はしない。彼女には六年前、在学中に一人の恋人がいたが、彼は別の女をつくり碧川の心に深い傷を残して恋は終焉を迎えた。あの狂おしい彼との最後の夜が昨日のことのように身を焦がせた。
打ちのめされ、泣き濡れた日々が思い出されたが、はっきりした原因は今も判らないのだ。考えてみるとここ何年も碧川を異性として意識し付き合う男性は皆無だったのだ。
「俺は人の心を読むのが得意なのさ。読んでみましょうかあなたの心」
青年はラウンジバーの大窓から覗く星空を眺めている。
「ええ、読めるのだったら読んで見てください。どうぞお願いするわ」
ちょっと、嬉しそうで碧川の頬は赤く火照っている。
「まず、あなたは目の前の俺という存在に興味を引かれた。それで俺の氏素性を知りたがっている」
「ふーん。それで…… あなたはどこの王子様? よろしかったらあなたのお名前が知りたいわ」
「こんなところで名をきくなんて野暮じゃないですか」
「今あなたが言ったように氏素性が知りたくなったの。あなたの」
「俺は
「も・ち・ず・き・じょう… へえ。素敵な名前。ところでわたしの心をもっと読んでみて」
「あなたは、人の良い夢想家の魚座で小さい時から看護師か医者になりたかった」
碧川がカウンターに肩肘をついて腕に顎を乗せる。気持ちのよさそうな表情だ。
「へえ、確かにわたしは魚座よ。当っているわ。あなた占い師なの? でも人が良いかどうかは分からないわよ」
まるで少女のように興味を示して青年の話を聞いている。
「あなたは…… やはり失恋をした。相手は少年だ。驚きました。そう、少年に恋をしたんだ」
青年は碧川の眼を覗き込むようにしてそう言い放った。碧川は不用意に心の琴線に触れられたような気がして急に不愉快になった。
「なにを言いだすんです。大はずれです」
酔いが急速に醒めていき憤りが胸に湧き上がった。視線は悲し気にあたりを彷徨っている。まるで冷水を浴びたような表情だ。
「悪気は無かったのですよ。許してください。どうやらあなたの心に土足で上がりこんでしまったようですね」
「わたしもう帰ります」
静寂があたりを支配していた。光るものが碧川の頬を伝った。碧川が席を立とうとすると青年の浅黒い手が碧川の腕を掴んだ、ワイシャツの捲くれた腕に錨のタトゥーが彫られている。
「お嬢さん。そんな悲しい顔のままじゃ今夜は帰しませんよ」
青年は落ち着き払った声を出した。見知らぬ異界の獣のように眼差しに威力があり、碧川は夢遊病者のようにカウンター席に力なく再び腰を落ち着けていた……。
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