獣の刻印

松長良樹

序章


 ――月光はあおい狂気の色を映している。


 怪しい光は広い庭を覆いつくし、少女の目に昼間と似て非なる異界を映し出していた。妙に生暖かい風が時折吹き抜け、あたりは閑散としてアスファルトに響く足音はとうに絶えていた。


 その少女は庭先で満月を眺め、夢見るように動かない。温室に咲いた花のような可憐さと危うさとを併せ持つ少女だった。


 庭から対面の暗い路地に一丈の光が走った。怪しい光が二つに別れ、それは仕舞に得体の知れぬものの目になった。血が燃えたつような真っ赤な眼だ。


 それは黒く大きなかたまりだったが、道路を横切った瞬間その姿が月光に晒された。四つ脚のけものだった。


 脚音がまったくしないのは、分厚い肉球が脚音を吸収していたからだ。獣は郊外の清楚な住宅の庭の前まで来ると、そこで足を止め少女を見た。

 途端に獣の脳髄に巣食う衝動が爆薬みたいに破裂した。体毛はぬるりとした黒い光沢を放ち、鋭い牙が下顎から突き出て唾液を垂らしていた。


 獣の目にはもはや少女以外のものは映らなかった。

 獣は上体をゆっくり前に倒しながら、恐ろしいほど静かに少女に近づいて行った。 正面からではない。獣は全く無音無声で庭の端からフェンスを飛び越えると、少女の後方に回っていた。

 

 少女は秋の夜風に当たり、睡魔が夢の世へ自分を招待しようとするまで起きていようと心に決めていたのかもしれない。外灯が少女の白いパジャマを照らし出していた。


 少女は月光の世界に魅入られたように、広い道と庭との境にあるフェンスにその手を添えて、まるで以前からずっとそうしていたみたいに動かない。


 獣は己の跳躍距離を本能で見極めた。そしてその距離まで忍び寄ると後脚の強靭なバネを使って一気に少女に襲い掛かった。少女が振り返るようにして血の色の双眼を仰ぎ見た。


 首筋を狙い澄ました一撃であった。少女の目は地獄を見た亡者のそれだった。全く声すら出す事もなく、少女の身体がその場に力なく崩れ落ちた。


 ――月光がその地獄絵図をただ照らし出していた。

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